12/30/2024

行く年くる年 世界の国からありがとう

 世界に伝わる「志手」の今と昔



 上の写真は紅葉した駄原総合運動公園のラクウショウ(落羽松)です。

 このラクウショウについては、このブログ「大分『志手』散歩」の「メタセコイアとラクウショウ①駄原総合運動公園」(2024年7月4日公開)で少し書いています。


 大分市の「志手」を題材にしたこのブログ「大分『志手』散歩」の1回目は「志手はどこにある?」(2021年7月21日公開)でした。

 途中でほぼ1年間の中断がありましたが、ぽつりぽつりと書き連ねてくることができました。

 大分市の志手という極めて限定的な地域の話ですので、このブログを読んでくださる方も多くはないのですが、それでも最初の頃に比べると「閲覧数」は増加傾向にあります。

 この12月は特に海外からのアクセスが目立ちました。

 米国、カナダ、メキシコ、香港、シンガポール、インド、イラン、ドイツ、スイスなどです。

 このブログを見た方は大分市の志手に何かの関わりがある方でしょうか。志手出身で今は海外で暮らしている、働いている方々でしょうか。

 どんな人たちがこのブログをご覧になったかは、このブログの筆者には分かりません。もし以前に志手に関わりがあって、このブログを見て懐かしいと思っていただけたのならば幸いです。


 このブログをご覧いただいた方々に感謝します。来年(2025年・令和7年)もぼちぼちとやっていこうと思っております。
 

 上の写真は大分駅南口の公園のメタセコイア。これについては「メタセコイア番外編~大分駅南口」(2024年10月26日公開)で書いています。

 

12/21/2024

桜ケ丘聖地で防災訓練


 桜ケ丘聖地で町内防災訓練

避難、初期消火、炊き出し




 前回のこのブログ「大分『志手』散歩」では、11月21日に行われた在日ドイツ大使館主催の公式墓参について報告しました。

 大使館関係者が桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)に眠る2人のドイツ人の墓に花を手向ける様子は、地元テレビ各局のニュースになりました。

 桜ケ丘聖地では11月にもう一つ行事がありました。志手町内の防災訓練です。11月9日でした。このブログの筆者も途中まで参加しました。

 訓練の内容は左の町内会だよりにあるように基本は①避難➁初期消火③炊き出しの三つです。

 当日は町内各所に「志手防災会」の名前入りのベストを着た避難誘導員が立ちました。訓練に参加する町民を会場の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)を案内するためです。

 消火訓練のために家庭用消火器が用意され、炊き出しでは志手集会所に保管されている飲料水(ミネラルウォーター)やアルファ米などが会場に運び込まれました。


 志手防災会のみなさんの準備があって訓練はスムーズに行われたのですが、参加者は残念ながら多くはありませんでした。

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12/09/2024

志手ぶらぶら路上観察記➃志手ポンカン

            寒さ来て色づく志手ポンカン



 今年はミカンが全国的に不作のようです。志手特産の「志手ポンカン」はどうでしょう。12月に入り色づき始めた志手ポンカンが上の写真です。

 志手ポンカンについてはこのブログ「大分『志手』散歩」で以前に取り上げました。

 手始めに「志手ポンカン①志手ポンカンは日本一」(2022年10月28日公開)を書きました。

 続いて「志手ポンカン➁いけるぞ!志手ポンカン」(2022年11月3日公開)「志手ポンカン③ポンカンの効用は」(2022年11月8日公開)「志手ポンカン➃幻になる日も近い?」(2022年11月18日公開)と書きました。

 志手のミカン生産者がポンカンづくりに本格的に取り組んだのは昭和50年代半ば、1980年前後のことのようです。

 「志手ポンカン➁いけるぞ!志手ポンカン」に載せた新聞記事を再掲します。

 それが左の記事。大分合同新聞の昭和57(1981)年2月21日付朝刊です。

 それによると、ミカンの生産過剰で価格が暴落し、経営が苦しくなった志手の生産者が、自家用に植えていたポンカンに目を付けて本格栽培を開始。市場に出荷し始めたところ、人気を博したということだそうです。

 ある財界人が志手ポンカンの味を絶賛したという話を「志手ポンカン①志手ポンカンは日本一」で紹介しました。

 しかし、志手ポンカンも最近はかつてほどの人気はないようです。

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11/29/2024

5回目の公式墓参 桜ケ丘聖地

独大佐 5回目の公式墓参

桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地) 



 11月21日の昼前、志手町内にトランペットの音が流れました。桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)で吹かれたものが風に乗って聞こえてきたようです。

 演奏された曲は「Ich hatte einen Kameraden」(私には1人の戦友がいた)。ウィキペデイアにはドイツの「葬送の軍歌」と書いてあります。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が、この曲を初めて聞いたのは4年前の2020(令和2)年11月でした。

 同年11月13日、大分市志手の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)で駐日ドイツ大使館主催の公式墓参が初めて行われました。

 その時にこの曲がトランペットで演奏されました。

 初めての公式墓参のことはこのブログの「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)に書いています。


 駐日ドイツ大使館付武官として来日したカーステン・キーゼヴェッター大佐が、2019(令和元年)12月、桜ケ丘聖地にあった曽祖父の弟(ユリウス・パウル・キーゼヴェッタ―
の墓を見つけたことが始まりでした。

 第一次世界大戦で日本軍の捕虜になって大分の収容所に送られ、そこで病死したドイツ兵が2人いました。ユリウス・キーゼヴェッタ―はその1人でした。2人は当時の陸軍墓地(現桜ケ丘聖地)に埋葬されました。

 こうした経緯は、先に紹介した「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)にもう少し詳しく書いてあります。


 キーゼヴェッター大佐は日本を離れ、昨年11月の公式墓参には後任の
ラルフ・ベルジケ空軍大佐が来県し、2人の墓前に花を手向けました。

 今年も11月21日にべジルケ大佐が桜ケ丘聖地を訪れて献花しました。今回で5回目の公式墓参となりました。

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10/29/2024

メタセコイア番外編~大分駅南口

かつての町のシンボル残す

大分駅南口のメタセコイア

 

 「メタセコイアとラクウショウ」について書くのはこれで5回目になります。
 
 1回目は「駄原総合運動公園のラクショウ」(2024年7月4日公開)を素材に、2回目は「志手のメタセコイア」(2024年8月30日公開)を題材にしました。

 3回目は駄原総合運動公園以外の大分市内の公園にラクウショウを見に行きました「天神島児童公園」(2024年9月30日公開)。4回目は「番外編」として「徳島県のラクウショウ」(2024年10月10日公開)を取り上げました。

 「メタセコイアとラクウショウ」シリーズの5回目は「大分駅南口のメタセコイア」にスポットライトを当てました(上の写真)。とりあえずこれで最終回にしようと思います。

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10/10/2024

ラクウショウ番外編~徳島県の農業学校

❝百歳❞迎える落羽松 徳島県


 自分が調べていることで新たな手掛かりがほしい。そんな時このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は「国立国会図書館(NDL)サーチ」を使います。

 ラクウショウ(落羽松)について目ぼしい資料が見つからなかった時もそうです。

 国立国会図書館(NDL)サーチのキーワード検索で「ラクウショウ」と入れてみました。

 すると「ラクウショウ(落羽松)物語ー薮内當一先生の功績」(安田博武編)という本がありました(上の写真)。

 2013(平成25)年12月の出版です。徳島県立図書館と香川大学図書館農学部分館に、この本があるようです。

 本の内容はまったく分かりません。しかし、筆者の手元にはほかにこれといった資料もないし、何もないよりはましかと思って、この本を借りてみることにしました。

 大分県立図書館を通じて徳島県立図書館から借りることができました。

 この本は
薮内當一氏が過去に書いたものなどをまとめたものです

 薮内氏とは何者なのか。右の資料にあるように徳島県立農業学校(現徳島県立城西高校)にラクウショウ(落羽松)を植えた人物です。2000(平成12)年に95歳で亡くなったそうです。

 右の資料によると、薮内氏は1926(大正15・昭和元)年4月に徳島農業学校に教諭として赴任し、翌1927(昭和2)年に2本のラクウショウを植えたそうです。

 薮内氏が駄原総合運動公園のラクウショウ(左の写真)と関係あるのかというと、まったく関係はありません。

 ただ「誰が」「いつ」ということがはっきりしたラクウショウがあることに、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が感心しただけです。 

 それで少し「ラクウショウ(落羽松)物語ー薮内當一先生の功績」(安田博武編)の中身を紹介してみようと思ったわけです。

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9/30/2024

メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議?

駄原総合運動公園の落羽松


 

「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。

 翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑地(三佐)、天神島公園(中島東)と平和市民公園にあります」

 駄原総合運動公園のラクウショウは誰が、いつ植えたものなのか。疑問に思って少し調べたことは、このブログ「メタセコイアとラクショウ①駄原総合運動公園」(2024年7月4日公開)で書きました。

資料なし 情報公開請求は空振り


 その時は結論が得られず、資料探しをもう少し続けることにしました。最初に思い付いたのは大分市に対して情報公開請求をすることでした。

 2019(令和元)年に開催されたラグビーワールドカップ日本大会に向けて駄原総合運動公園が大規模に改修されたことは、「メタセコイアとラクウショウ①駄原総合運動公園」(7月4日公開)で書きました。

 運動公園の改修計画が作られる中で、ラクウショウ(落羽松)の伐採でどんな議論があったのかを知りたい。そんな趣旨で公文書公開請求書を出したのは7月12日でした。

 伐採協議でラクウショウが植えられた経緯などに触れられていないか。それがあれば「誰がいつ植えたか」が分かるのではないか。そんなことを期待したのですが…。

 結果は「ラクウショウ(落羽松)等の伐採に関する協議記録はありません」ということで、7月25日に「公文書非公開決定通知書」を受け取ることになりました。

 決定書をもらう前に公園緑地課で改修計画に伴う伐採状況の説明を受け、改修前と改修後の航空写真ももらいました。

 その時の縁があって9月24日の電話になったのですが、今回の電話で少し事情が分かってきたような気がします。

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9/16/2024

日照りと大雨 気象台資料で見る8月

日照りと大雨 数字で見る8月 



 9月半ば過ぎても大分では暑い夏が続いています。最高気温は連日30℃を軽く超え、11日には34.9℃と「猛暑日」一歩手前まで行きました。

 この暑さいつまで続くのか。いい加減嫌になってきます。

 このブログ「大分『志手』散歩」の「今年の夏の暑さは? 最近10年のデータ比較」(2024年8月10日公開)で、今年の7月には最高気温が35℃以上の「猛暑日」が17日あった、と報告しました。

 では、8月の「猛暑日」は何日あったのか。大分地方気象台のホームページで9月5日に公表された「8月の大分県気象月報」でチェックすることにしました。

 気象月報のデータを見てみると、大分市の今年の8月は最近にはない特異なものであることが分かりました。

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8/30/2024

メタセコイアとラクウショウ➁大きくなり過ぎた木

 大きくなり過ぎた木 伐採の日



 
その大きな木があることに気づいたのは伐採の日が間近に迫った頃でした。上の写真は伐採された直後の2019(令和元)年12月16日朝に撮影したものです。写真奥の建物は桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の記念館です。


 志手とその周辺を歩いてみると、いろんなところから、その木を見ることができました。こんな大きな木なのに、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者の視界に入ってこなかったのは、植物に疎い筆者が関心を持たなかったからですが、伐り倒されることになって急に興味が湧きました。

 この大木の伐採が2019(令和元)年12月12日から始まると聞いて作業を記録することにしました。


 上の動画は2019(令和元)年12月12日、13日、16日の3日間で行われた伐採作業の記録を編集し、短くまとめたものです。

 この木がメタセコイアであることを知ったのも伐採作業のちょっと前くらいだったでしょうか。

 この木のことを思い出したのは、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が、駄原総合運動公園にある背の高い木々について何か書こうと考えたのがきっかけでした。

 このブログの筆者は駄原総合運動公園の木々がメタセコイアだと思い込んでいました。ブログ「メタセコイアとラクウショウ① 空に真直ぐ伸びる木々 落羽松」(2024年7月4日公開)を書くにあたって、念のために大分市公園緑地課に電話してみました。すると「ラクウショウ(落羽松)」との答えが返ってきました。 

 そこで、まずは総合運動公園のラクウショウについて書き、2回目にかつてあったメタセコイアの大きな木について書こうと考えました。それがこのブログになります。

 動画「大きくなり過ぎた木 メタセコイア伐採の日」の最後にテロップを入れましたが、大木が伐り倒される「最期」に立ち会いながら、この木の由来を何も知らないことに改めて思い至りました。

 「誰が、いつ植えたのか」。どうでもよいといえばどうでもよいことがですが、それが気になります。このブログの筆者の習性で、今回もこのメタセコイアの生い立ちを探ろうとしました。

 そのうち、このメタセコイアと関係ありそうだという一人の人物の名前を小耳にはさんだのですが……

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8/10/2024

今年の夏の暑さは? 最近10年のデータ比較

酷暑‼  元気なのはセミばかり?



 ポンカンの木でセミの抜け殻を見つけました(上の写真、8月7日撮影)。猛暑の中で元気なのはセミだけではないか。そう思いながらシャッターを切りました。

7月の猛暑日は17日 月の半分超える


 大分市では最高気温が35℃以上の「猛暑日」が続いています。

 左の表は気象庁のホームページにある「各種データ・資料」から拝借したものです。

 それによると、大分地方の最高気温は7月3日に35.8℃を記録して「猛暑日」となりました。

 それから一日あけて5日から9日まで5日間連続の「猛暑日」となりました。

 さらに実質的に「梅雨明け」したと思える17日以降では、18日から22日まで5日連続で「猛暑日」を記録するなど、31日までの15日間のうち11日で35℃以上の最高気温を記録しました。

 結局、7月の猛暑日は計17日に達しました。

最低気温 4日連続28℃超え 8月

 


 8月に入っても猛暑が続きます。最高気温が35℃を下回ったのは6日の34.5℃だけで、あとは35℃を超えています。

 暑さは夜になっても収まらず、最低気温が3日から6日まで4日連続で28℃超と寝苦しい夜が続いています。

 とはいっても最高気温が39℃や40℃になったというわけでもなく、せいぜい37℃台ですから全国的なニュースになるわけでもありません。このくらいの暑さはどこでもあることと一蹴されてしまいそうです。


 
ただ、大分市の今年の夏はいままでの夏と比べてどのくらい暑いか、大分市民の一人としては気になります。そこで、とりあえず最近10年ほどのデータを収集して比べてみることにしました。すると、今年は「酷暑の夏」として特筆するに値する年であることが分かりました。

※上の写真は7月16日撮影。この頃からセミの合唱が大きくなりました。

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7/31/2024

志手天神社夏祭り当日

 子ども神輿 まちを行く



 7月24日。夕暮れの町を子ども神輿がにぎやかに通り過ぎてゆきました。志手天神社夏祭りの子ども神輿です。

 新型コロナウイルスの大流行で中止となっていましたが、昨夏、4年ぶりに子ども神輿が復活しました。そして、今年も子ども神輿が志手町内を練り歩きました。

 4年ぶりに再開された昨夏は、それまでの神輿の巡行ルートの時間も距離も半分程度にした「短縮版」で試行的に実施されました。

 昨夏のルートはどうだったか。神輿の町内巡行を午後6時から8時までの2時間と見込んでいましたが、午後7時20分には神輿が町内を巡って志手天神社に戻ってきました。想定よりも早く終わって参加者にとっては少し物足りない結果だったといっていいでしょう。

 (注)昨夏の様子は、このブログ「大分『志手』散歩」の「4年ぶりのお神輿登場 志手天神社」(2023年7月28日公開)に書いています。


 そこで今年は巡行ルートが少し拡大されました。去年はルートになかった高台のマンションまで足を延ばすことになりました(上の写真)。

 ざっと見て前年比で3割ほど巡行ルートが延びた感じでしょうか。熱中症にならないように水分補給のための休憩時間も小まめに設けられました。神輿は昨年よりもゆっくりと町内を巡ったように思えました。

 巡行ルート延長の結果はどうだったでしょう。町内を一回りして志手天神社に神輿が戻ってきたのは午後7時40分過ぎでした。


 最後に天神社の境内で神輿を威勢よく回してフィナーレとなります。その後神輿に乗った神様をお宮に戻して町内巡行が無事に終わったのは午後8時ごろでした。

 昨年考えた午後6時から8時までの2時間のプランが今年は実現できたようです。短すぎず、長すぎずで、程よい感じの神輿の巡行ができたのではないでしょうか。

 

7/14/2024

志手天神社夏祭り2024

夏祭りの準備進む 志手天神社



 志手天神社の夏祭りは7月24日と決まっています。祭り当日に向けた準備作業が7月13日に行われました(上の写真)。


 新型コロナウイルスの大流行があり、2020(令和2)年、21(令和3)年、22(令和4)年と夏祭りは中止になっていましたが、昨年4年ぶりに夏祭りが再開されました。

 今年はここに来て新型コロナウイルスの感染者数が増えてきて注意が必要ですが、夏祭りは予定通りに実施されるということです。


 志手天神社の夏祭りのメインイベントと言えば子ども神輿(みこし)です。そして、町内を練り歩く神輿行列に欠かせないものといえば、お囃子(はやし)の太鼓とチキリン(鉦)です。その練習が13日にありました。


 太鼓とチキリンの練習は13日が3回目です。6月29日に志手天神社の拝殿に太鼓とチキリンが並べられて1回目の練習が行われました。2回目の練習が7月6日にあり、13日が最後の練習になりました。

 3回の練習で流ちょうにリズムを刻むところまでになるのは難しいでしょうが、だいぶ慣れてきたのは間違いないでしょう。
 
 祭りの準備は着々と進んでいます。あとは当日の24日を待つばかりといったところです。


【チキリンについて】

 「大分『志手』散歩」の「4年ぶりの夏祭り 志手天神社」(2023年7月3日公開)で書いたものを再掲します。それが以下の内容です。関心のある方は下の「続きを読む」をクリックして下さい。

7/04/2024

メタセコイアとラクウショウ①駄原総合運動公園

空に真直ぐ伸びる木々 落羽松

誰が植えた?駄原総合運動公園



 空に真直ぐ伸びている木々があります。ちょっと高い所から志手周辺を眺めると、いつも目に入ります。上の写真では分かりにくいかもしれません。カメラを望遠にしてもう少し拡大してみましょう。

 

 背の高い木々があるのは駄原総合運動公園です。このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は最近まで「メタセコイア」だと思っていました。


 しかし、本当はどうなのだろう。ちょっと気になったので近くに行って見てみました。

 どうも葉っぱの形などが違う気がします。念のために運動公園を管理する大分市都市計画部公園緑地課に電話で聞いてみました。

 すると、メタセコイアではなく「ラクウショウ」(落羽松)との答えでした。「ラクウショウ?」。植物に疎いこのブログの筆者には予想もしない答えでした。


 こうした場合、手っ取り早く調べるにはインターネットです。「ラクウショウ」「九州」と入れて検索してみると、国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所九州支所のホームページがありました。

 それによると、ラクウショウはスギ科ヌマスギ属で、北アメリカ南部諸州からメキシコに天然分布し、世界各地で植栽されているそうです。

 ラクウショウは庭園や公園、川辺など湿気の多い所に植えられているのが多いようです。和名のラクウショウは「落羽松」の意味で、別名「ヌマスギ」とも言うとあります。

 ヌマスギは「沼杉」の意味で、この木が沼辺などに好んで生じ、スギに似ていることから名づけられたと書いてあります。

 ちなみにウィキペディアには、日本には明治初期に渡来し、関東南部以西に適し、湿気の多い公園、庭園、社寺境内などに植栽されている、とありました。

 それほど珍しい木というわけでもないようです。でも誰が、いつ、ここにラクウショウを植えたのでしょうか?それを知るために、駄原総合運動公園の成り立ちについて少し調べてみることにしました。

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6/09/2024

志手ぶらぶら路上観察記③天神社界隈

   桜ケ丘聖地 墓の隣りに高い壁 



 志手天神社の裏側で宅地造成が行われていることは、このブログ「大分『志手』散歩」の「志手ぶらぶら路上観察記➁志手天神社」(2023年10月14日公開)で一度紹介しました。



 去年の10月頃といえば造成が始まったばかりで、どんな風になるのやらと関心を持って見ていましたが、着工から8カ月ほど過ぎて、その形がだんだんと明らかになってきました。


 「志手ぶらぶら路上観察記➁志手天神社」でも紹介しましたが、志手天神社の裏側は、志手特産の「志手ポンカン」が植えられた畑でした。この畑だった場所の先に見える住宅地ももともと「ミカン畑」でした。

 志手はミカンの産地として名が知られていたのですが、大分市中心部に近いこともあり、「ミカン畑」は次第に「宅地」に姿を変えていきました。今もポツンポツンと残された畑地が少しずつ宅地に変わっています。

 ミカン作りの後継者がいないことも畑がなくなる一因です。


 ところで、桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の横に「壁」が造られ始めたのはいつだったか。気が付けば墓の横に大きな壁ができていました。
 
 冒頭の写真は5月26日に撮影しました。この日、志手の住民グループ「志豊会」による桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の草刈り作業が行われました。毎年この時期に実施されます。


 雑草が茂った墓地がきれいになるにつれて隣りにできた「壁」が際立ってきたようにも感じられました。

 以前にもこのブログで書きましたが、桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)とその周辺はここ数年で大きく変わりました。

 たまに定点観測のようにして写真を撮っていると、その変容がよく分かります。

 ただ、それにしてもな、と思うことがあります。人口が減る中で新築住宅が増えてもどうなのかなと素朴な疑問が湧いてきます。大分県内では一極集中を続けてきた大分市にも陰りが見えます。

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6/01/2024

毘沙門堂今昔 「室町」に始まる浄土真宗との縁その2

 毘沙門堂で教え説く2人の僧侶

「天然浄祐」と「円信」その2


 文明年間(1469~1487年)に毘沙門堂で説法をしたと伝えられる2人の僧侶「天然浄祐」「円信」をテーマにしたブログの2回目です。

 前回の「毘沙門堂今昔その3 『室町』に始まる浄土真宗との縁」(5月27日公開)は「天然浄祐」に焦点を当てました。天然浄祐について書いていくと話が長くなってしまったので、円信については別に書くことにしました。それが、この「『天然浄祐』と『円信』その2」です。


 上の2枚の写真はJR大分駅近くで建設中の高層マンションと光西寺を写したものです。大分駅周辺では区画整理や再開発が進み、街並みが随分と変わってきています。

 建設中の19階建てのマンションのところには大型家具店があったのではないかと記憶しています。

 「真宗大谷派 四極山光西寺」。円信が開いた寺と言われています。「雉城雑誌」によると、円信は光西寺ができる前は毘沙門堂に住んで、浄土真宗の教えを説き、「毘沙門堂円信」と称したそうです。

 ※雉城雑誌は、江戸末の天保年間に「豊府聞書」「豊府雑誌」「豊後国志」などの資料を引用する形で作られた「郷土誌」。「府内(大分)ガイドブック」のようなものです。

 雉城雑誌では、円信と光西寺、毘沙門堂について主に「豊府雑誌」を引用して「豊府聞書」「豊後国志」で補うような形で書いています。

円信は3人いる? 誰が本物⁉

 
 さて、話が少し複雑になってくるのはこれからです。円信についての資料は光西寺にもあります。光西寺に伝わる円信の出生と豊府雑誌、豊府聞書が伝える円信は微妙に違っています。

 「円信」と名乗る僧が複数いたのでしょうか。まずは、それぞれの資料が伝える円信の出生について見ていきたいと思います。

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5/27/2024

毘沙門堂今昔その3 「室町」に始まる浄土真宗との縁

毘沙門堂で教え説く2人の僧侶

親鸞没後200年 広がる浄土真宗


 志手の毘沙門堂に安置されている毘沙門天像はいつ頃つくられたものなのか。

 「志手歴史再発見クラブ橘会」(園田友三会長、略称「志手橘会」)が、大分市歴史資料館の植木和美館長の力を借りて、調べてみようとしたことは、このブログの「毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動」(2月22日公開)で紹介しました。

 毘沙門天像(左の写真)に残された制作年月日と見られる日付は「○○四年五月廿四日」。肝心の年号の部分が消えたようになっています。

 この薄くなった部分を読み取ってみようとしたのですが、結論をいえば判別できず、年号は分かりませんでした。

 毘沙門天像から毘沙門堂の始まりを探る試みはうまくいきませんでしたが、毘沙門堂の歴史をさかのぼるための手掛かりはまだあります。

文明年間の2人の僧 「天然」と「円信」

 
 それが文明年間(1469~1487年)の2人の僧侶です。「天然(浄祐)」と「円信」。この2人の僧が毘沙門堂で説法したとの言い伝えがあります。
 
 天然浄祐と円信は大分に浄土真宗をもたらし、広めた人物だそうです。

 「大分『志手』散歩」」の筆者にとって、これは予想外のことでした。

 浄土真宗の開祖といえば「親鸞」(1173年~1262年)であり、浄土真宗は、浄土宗や日蓮宗、時宗、臨済宗や曹洞宗とともに、鎌倉時代に生まれた宗派であることは知っています。

 だから、鎌倉時代のうちに大分にも浄土真宗が広まっていたのではないかと漠然と考えていました。実際は親鸞上人没後200年を経た室町時代後半に大分で浄土真宗が浸透していったということになります。

 このブログの筆者にとっては意外な事実の発見でした。

 志手の毘沙門堂を調べていてまた一つ勉強になりました。

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4/26/2024

「大分『志手』散歩」の手引き① 何が書いてある?

天神社、毘沙門堂、ミカン、それと

「大分『志手』散歩」の手引き①


 気がつけば「大分『志手』散歩」の投稿が60本近くになっていました。このブログには目次がないので、どんなことがどんな順序で書かれているのか、たまたま読んでみようと思われた方には分かりにくいと思います。

 そこで「大分『志手』散歩」の「手引き①」と題して、これまでブログの内容を1回整理してみようと考えました。

 

「大分『志手』散歩」の最初の記事は「志手はどこにある?」とのタイトルで2021(令和3)年7月17日に公開しています(写真上)。
 ※写真のQRコードでも記事をお読みいただけます。

 このブログは基本的に筆者が住んでいる大分市の「志手」について書いています。大分市志手といっても、そんなところは知らないという人が大多数でしょう。そこでブログの初回は「志手」という地域を簡単に説明することにしました。


 そして、2回目に書いたのが「志手界隈案内①志手の名所旧跡」(2021年7月21日公開)でした。
 ※写真に記事「志手の名所旧跡」のQRコードを付けました。


 左の地図は2回目の投稿に掲載した地図「志手の名所旧跡」に加筆したものです。

 「古宮古墳」や「亀甲山古墳」は厳密に言えば志手の隣りの「季の坂」になりますが、地図には「志手界隈」ということで加えてあります。

 2回目の「志手界隈案内①志手の名所旧跡」では主に古宮と亀甲山の二つの古墳について書きました。

 上の地図にある「志手天神社」「桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)」「毘沙門堂」「毘沙門川」についても順次、このブログで取り上げています。

 何をいつ書いたのか。主な記事を一覧にしてみます。

 【2021(令和3)年】
志手はどこにある        公開日2021年7月17日
志手界隈案内①志手の名所旧跡     2021年7月21日
志手界隈案内➁志手天神社       2021年7月31日
志手界隈案内③桜ケ丘聖地1      2021年9月16日
志手界隈案内➃桜ケ丘聖地その2    2021年10月5日

 ここまで頑張って書いてきたためか、突然にエネルギー切れを起こしてしまいました。「桜ケ丘聖地その5」を書きかけのまま1年以上休載することになりました。

 そして再開したのが2022(令和4)年9月でした。


 【2022(令和4】年】
★志手に残る農村風景 ミカン盛衰記
①ミカンの銘産地・志手         22年9月29日
②栽植記念の石碑残る          22年9月30日
③大分連隊がきっかけに         22年10月2日
④先駆者・岩田丑太郎の碑        22年10月6日
⑤ハイキングコースで売り出す      22年10月15日
⑥ミカンは神代の昔から?        22年10月20日

★志手ポンカン
①志手ポンカンは日本一         22年10月28日
➁いけるぞ!志手ポンカン        22年11月3日
③ポンカンの効用は           22年11月8日
④幻になる日も近い?          22年11月18日


★ふるさとだよりで知る志手のトリビア
           2023年1月3日
③柞原八幡宮との縁   23年1月13日
④昔ながらの狭い道   23年1月25日
            23年2月13日

 「ふるさとだより」は「志手老人クラブ共和会」が発行していたもので、このブログの筆者の手元には1995(平成10)年4月発行の第1号から2005(平成17)年5月発行の17号までのコピーがあります。
 
 「ふるさとだより」には志手の歴史や昔の志手の思い出などが掲載されています。その中で、このブログの筆者が興味を持ったものを「ふるさとだよりで知る志手のトリビア」と題して連載しました。

 「ふるさとだよりで知る志手のトリビア」の第2回から2023(令和5)年になります。
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小字あれこれ その③ もう一つの目印

亀甲山古墳 もう一つの目印 今は跡形もなく 宅地に変貌    「 小字あれこれ」の第3弾です。字(あざ)名を知ることで、そう呼ばれていた場所が昔どんなところだったかが分かります。  中には、由来がよく分からない字の名前もありますが、それはそれで面白いと、このブログ「大分『志手』散...