ミカン山でハイキングはいかが?
「大分ミカンの先駆者」である岩田丑太郎の頌徳碑が昭和31(1956)年に建てられたことは前回紹介しました。この年の大分市報にはミカンに関する話題がもう一つありました。こちらも書いておきたいと思います。
右の写真は昭和31(1956)年9月17日付の大分市報245号です。「蜜柑山は大豊作」と主見出しがあり、その横に「家族で楽しめるハイキングコース」とあります。
市報に掲載された写真に白い線を引いたのは私です。これがミカン山のハイキングコースでしょう。岩田丑太郎の頌徳碑が建つ丸尾台地から志手、椎迫へとつながっています。
当時の大分市のミカン生産の中心地です。「イケイケどんどん」といった感じで、ミカン栽培は拡大の一途をたどっていた時期のようです。大分ミカンの黄金期ともいえます。その勢いに乗ってミカン山をハイキングコースとして売り出し、農業と観光の振興の一石二鳥を狙ってはどうか。そんなアイデアを思い付いた人が市役所にいたようです。
大分合同新聞の昭和31(1956)年10月25日付朝刊の「地方版」です。
「ミカン園にハイクコース」「大分市八幡」「別府湾を一望」「ドライブにも」「市 大々的に宣伝へ」と見出しが並んでいます。
記事には、大分市の観光課がミカン収穫のための作業道路をハイキングやドライブのコースとして大々的に売り出すための準備をしている、と書いてあります。
記事をもう少し読み進めてみます。丸尾山の尾根沿いは大分市内で最も展望がきく場所で、大分市街はもちろん別府湾が一望のもとに見渡せ、遠く鶴見山も望むことができると説明したうえで、記事は道路の現状について触れます。
記事をもう少し読み進めてみます。丸尾山の尾根沿いは大分市内で最も展望がきく場所で、大分市街はもちろん別府湾が一望のもとに見渡せ、遠く鶴見山も望むことができると説明したうえで、記事は道路の現状について触れます。
道路幅は広く、狭いところでも5m、広いところは9mあると書いています。当時としては広い道だったのでしょう。クルマ社会の今で考えると、どうか。幅員9mはともかく5mはクルマがすれ違うのに少し神経を使いそうです。
記事を読むと、観光課は随分熱心なようです。ハイキングロードの起点となる生石入口付近に展望台を設けることなども考えていたようです。
ミカン山のハイキングコースは賑わったのでしょうか?その後の新聞記事を見つけることができなかったので、この後どうなったかは残念ながら分かりません。
66年前のハイキングコースの沿道の風景は今はほとんどありません。ミカン畑だった一帯は大きく変わってしまいました。ただ、岩田丑太郎の頌徳碑の周辺に名残りがあります。
例えば道路。左の写真は3年ほど前に撮ったものですが、今もあまり変わりません。クルマが行き交うには少し狭い道幅です。おそらくハイキング、ドライブのコースとして売り出そうとした66年前の道路と変わっていないのではないでしょうか。
道路沿いにミカン畑が少し残っています。66年前はこの斜面全体がミカンの木に覆われていたのではないかと思います。今は道路沿いのあちこちに住宅が建っています。少しずつですが、このあたりも開発が進んでいるようです。
このあたりに比べて開発が急速に進んだのが、ハイキングコースの終点とされた志手・椎迫側でした。
住宅が建ち並ぶ一角にわずかに残されたミカン畑があります(上の写真)。そのミカン畑も目をこらして見ないと見逃しそうになります。大分市のミカンの主産地は新興住宅団地に姿を変えてしまいました。
さて、話を現代へと一気に進める前に、大分ミカンの盛衰と志手ポンカン誕生について書いておきたいと思います。
次回は昭和40年代の大分ミカンについて少し書きます。
(注)岩田丑太郎の顕彰碑建立に関する大分市報の記事は昭和31年12月15日付の251号にあります。
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