高台から街を眺める岩田翁の頌徳碑
大分市西部地区の史跡紹介マップです。東は大分市中心部に近い春日神社や西新町天満社から、西は別府市寄りの高崎山周辺まで22の史跡を紹介しています。その中に3人の先達が含まれています。それが右の表紙の3人。右端が岩田丑太郎です。
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1849年(嘉永2年)に駄ノ原の醤油製造業岩田六郎の長男として生まれる。青年時代に父親とともに商用で阪神各地を旅している際、素晴らしいミカンと出会い「大分でも作れるはずだ」と考えた。
以後先進地視察を重ねながら、栽培の研究を続けた。そして、1890(明治23)年に約20町歩に植えるミカン苗木を購入し、無償で農家に配布した。
丑太郎は1901(明治34)年に52歳で亡くなったが、その遺志が引き継がれるかたちで、ミカン栽培が広がっていった。大分市の特産品「大分ミカン」は志手、椎迫、金谷迫などを中心に栽培されている。
岩田丑太郎の頌徳碑が市街地を一望する高台にあります。
折角ですから市報からも一部引用してみようと思います。
当時この付近の零細農家では、開墾された台地に細々と甘藷(サツマイモ)や麦が作付けされるくらいで、ミカンの移植によって畑作の経営合理化を計るなどとは、誰一人として考えていなかった。
その中で、郷土百年の大計を考えてミカンの産地づくりを進めようとした岩田翁の着想は、当時の農業経営に対する大変革だった、と大分市報は賛辞を贈っています。
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