10/06/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➃先駆者・岩田丑太郎の碑

 高台から街を眺める岩田翁の頌徳碑


 
「大分ミカンの創始者」である岩田丑太郎についても一言触れておく必要があるでしょう。大分県立図書館で「大分今昔」とは別の資料を見つけました。それが右の写真です。

 大分市西部地区の史跡紹介マップです。東は大分市中心部に近い春日神社や西新町天満社から、西は別府市寄りの高崎山周辺まで22の史跡を紹介しています。その中に3人の先達が含まれています。それが右の表紙の3人。右端が岩田丑太郎です。

 (興味ある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

 
 岩田丑太郎については次のように説明されています。

 1849年(嘉永2年)に駄ノ原の醤油製造業岩田六郎の長男として生まれる。青年時代に父親とともに商用で阪神各地を旅している際、素晴らしいミカンと出会い「大分でも作れるはずだ」と考えた。
  以後先進地視察を重ねながら、栽培の研究を続けた。そして、1890(明治23)年に約20町歩に植えるミカン苗木を購入し、無償で農家に配布した。
 丑太郎は1901(明治34)年に52歳で亡くなったが、その遺志が引き継がれるかたちで、ミカン栽培が広がっていった。大分市の特産品「大分ミカン」は志手、椎迫、金谷迫などを中心に栽培されている。
 
 岩田丑太郎の頌徳碑が市街地を一望する高台にあります。


  頌徳碑が建てられたのは昭和31(1956)年のことです。12月3日に行われた除幕式のことが当時の大分市報にあります。それが下の写真です。
 頌徳碑があるのは駄ノ原丸尾台。この碑が作られた昭和31年頃、このあたりではミカン栽培が盛んでした。今も所々にミカン畑が残っています。

 折角ですから市報からも一部引用してみようと思います。

 当時この付近の零細農家では、開墾された台地に細々と甘藷(サツマイモ)や麦が作付けされるくらいで、ミカンの移植によって畑作の経営合理化を計るなどとは、誰一人として考えていなかった。
 
 その中で、郷土百年の大計を考えてミカンの産地づくりを進めようとした岩田翁の着想は、当時の農業経営に対する大変革だった、と大分市報は賛辞を贈っています。

 



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