1/04/2026

志手ぶらぶら路上観察記⑦ 満月

「お盆のような月」が東に


 

 季の坂3丁目の坂道をクルマで上っていると「お盆のような月」が目に入りました。「今日は満月か」。そう思って、持っていたカメラでとりあえず写真を撮りました。

 Google検索してみると、これは2026(令和8)年の最初の満月だそうです。別名「ウルフムーン」というのだとか。ちっとも知りませんでした。

 「ウルフ」は「狼」、「ムーン」は「月」で「狼月」となります。

 アメリカでは真冬の食糧不足を嘆く飢えたオオカミの遠吠えにちなんで1月の満月をそう名付けたとか。

 よく分かりませんが、久しぶりにじっくりと大きな月を見ました。

 そして「まあるい まあるい まんまるい」「お盆のような月が」という童謡の歌詞が頭に浮かびました。

1/01/2026

毘沙門堂の案内板

初詣前に毘沙門堂に案内板 



 新年を迎える志手の毘沙門堂に案内板が設置されていました。


 案内板には毘沙門堂の説明があります。

 ちょっと読んでみましょう。

 「本堂に御在する毘沙門天王は延暦23年(804)遣唐使一行に同行された伝教大師(最澄)が、翌年(805)唐より供奉帰朝された尊像であり、その折にこの地に一宇を建立したと謂われております」

 上の説明文の下に中世大友時代の府内古図のコピーがあり、府内城下の外れにある毘沙門堂(志手毘沙門)が赤い〇で囲ってあります。


 毘沙門堂に関する上記の説明は志手に伝わる「毘沙門天尊像之縁記」(上の写真)に書かれてあるものです。

 この縁記についてはこのブログ「大分『志手』散歩」の「毘沙門堂今昔その3 『室町』に始まる浄土真宗との縁」(2024年5月27日公開)にも少し書いています。

 「毘沙門堂今昔」と題してこのブログで志手の毘沙門堂について書いたのは2024(令和6)年2月から6月にかけてでした。

 最初に書いたのが「毘沙門堂今昔 予告編」(2024年2月13日公開)でした。

 地元の住民によって毘沙門堂の環境整備が進められ、きれいになった毘沙門堂には立ち寄る人が増えてきている。

 そんな話を書いています。

 今回の案内板の設置も毘沙門堂の環境整備の一環といえます。
 
 毘沙門堂の案内板にある「志手歴史再発見クラブ橘会」(志手橘会)については、このブログの「毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動」(2024年2月22日公開)で紹介しています。

 地域の歴史を掘り起こし、住民に伝える活動が地道に続けられているようです。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者も今年も「志手」を歩き、疑問に思ったこと、面白いと感じたことなどを伝えていきたいと思います。
 

12/25/2025

色づくポンカン

 色づくポンカン 志手の冬



 「季節は巡り、また夏が来て」という歌詞が頭に浮かびました。これは確か「青葉城恋唄」の一節。随分昔に流行った歌だと記憶しています。

 そんなわけで志手でも季節が巡ってまた冬が来て志手ポンカンが色づく時期がやってきました。

 上の写真は12月19日に撮影したものです。写真の右側にあるのは狭い道路で、その横は墓地になっています。

 同じような場所から3カ月前の9月19日に撮った写真があります。
 

 こうやって比較してみると季節の移り変わりをあらためて感じます。



 昔の字(あざ)図でいえば墓地がある辺りは「辻」で、写真に写っている大きなマンションがある辺りは「塔平(とうだいら)」と呼ばれていたようです。


 上の写真はマンションを反対側から写したものです。手前のガソリンスタンドの辺りも「塔平」でしょうか。細かいところはよく分かりません。

 「塔平」という字(あざ)の「塔」にはどんな由来があるのでしょう。

 手元にあった漢和辞典の「新漢語林」(鎌田正、米山寅太郎著 大修館書店)で「塔」を引いてみました。

 それによると、塔は梵語でストゥーバの音訳、卒塔婆の略とあります。

 辞書の続きを読むと、墳墓のことで、遺体や舎利を埋蔵し、その上に土や石を積み上げて高くしたもの、と解説があります。

 グーグル検索してみると、梵語とは古代のインドの言語で、舎利とはお釈迦さまの遺骨(仏舎利)とありました。


 この地域の昔の有力者の墳墓でもあったのでしょうか。それでこの呼び名がついた。あり得ないことではないかもしれません。


 この近くには二つの古墳があります。上の写真の「古宮古墳」、それといまは宅地になった「亀甲山古墳」です。

 どちらの古墳についても、このブログ「大分『志手』散歩」で何度か紹介しています。
 
 例えば2021年7月21日公開の「志手界隈案内①志手の名所旧跡」(左の写真)です。

 亀甲山古墳については2025年9月29日公開の「小字あれこれ その③ もう一つの目印」でも書いています。

 志手には弥生時代の遺跡があったという話もありました。

 このブログでは「あったはずが消えた 志手遺跡」(2023年10月21日公開)と題して書いています。

 古くから人が住みついていた志手とその周辺では、古墳時代以降も地域の有力者が拠点を置いていた。そんな想像もまったくの的外れとはいえないような気がします。

 字(あざ)図にある「塔平」の横の「クス神」の由来は?クスノキの御神木があった場所ということでしょうか。これも気になる呼び名です。

 地名の由来は謎だらけです。時間を見つけて少しずつ調べていきたいと思います。
 

11/26/2025

二年越しの工事完了 天神社裏

2年越しの造成終わる

天神社裏のミカン畑跡



 このブログ「大分『志手』散歩」で志手天神社裏の宅地造成工事(上の写真)について書いたのは2年以上前になります。

 「志手ぶらぶら路上観察記➁天神社界隈」(2023年10月14日公開)で、造成工事が始まったことを書きました。

 その工事が完了したようです。隣接する桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)から見てみると、りっぱな宅地ができていました。

 工事の始まりを書き、途中経過も書きました。「志手ぶらぶら路上観察記③天神社界隈」(2024年6月9日公開)が、それです。だから工事が終わったら、それも報告しなければと思っていました。


 11月1日、久しぶりに桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)に行きました。桜ケ丘聖地から宅地造成地を見ると、もう重機の姿は見えません。その代わりに造成地の中にテントのようなものが見えました。

 上の写真でオレンジ色の楕円で囲ったものです。完工式というか竣工式というのか、工事の完了を祝う式の準備がされているようです。

 3週間後の11月22日に宅地造成地を見に行くと、テントが立てられ紅白の幕が張られていました。


 上の写真でオレンジの楕円で囲っています。よく見るとテントにはパイプ椅子が並べられ、神事を行うための供物台がありました。

 テントの手前には立て看板が見えます。「セキュレア大分西」と書いてあるようです。この分譲地の名前のようです。


 こうして出来上がってみると、以前の姿がどんなものだった思い出せなくなってきます。

 ちょっと前までミカン畑だったことが忘れ去られてしまうのも残念な感じがして、「志手ぶらぶら路上観察記➁志手天神社界隈」(2023年10月14日公開)などに使った❝昔❞の写真を再掲することにしました。

 写真をご覧いただく方は下の「続きを読む」をクリックして下さい 

11/20/2025

小字あれこれ 余話 団地建設その2

拡大と縮小の象徴に

転機を迎えた団地群



 前回の「大分『志手』散歩」の「小字あれこれ その⑤ 団地建設」(2025年11月2日公開)では、志手の後背地に広がる「にじが丘」や「青葉台」などの住宅団地(上の写真)の昔の地名を調べてみました。

 現在の地図と明治時代の字(あざ)図を比べ、今の地図に昔の小字を当てはめてみました。大ざっぱで正確とは言い難いですが、とりあえず作ってみたのが下の地図です。


 現代版の字図を作ってながめていると昔の地形が頭に浮かんできます。

 例えば「平原」「イドラ平」の「平」は平坦な土地を連想させ、「栗迫」「白迫」「市坊迫」の「迫」は山あいの小さな谷間を想像させます。

 ちなみにイドラとは野茨(のいばら)、野生のバラのことだそうです。すると「イドラ平」は野バラいっぱいの平地となりますか。

 こうした「小字」が物語る情景は、住宅団地建設のために大規模な造成が行われて一変してしまいました。

◇     ◇     ◇     ◇

 大規模な住宅団地造成は志手の周辺だけでなく大分市内の各地で行われました。今回は市内の団地建設の歩みと現状を少し見ようと思います。

 参考にしたのは大分市の「大分市住生活基本計画」のほか、大分大学教育福祉科学部研究紀要掲載の「大分市における住宅団地の開発と高齢化」(土居晴洋、久保加津代、板井美奈著)などです。

 大分市の住宅団地の現状について簡単に見ておきましょう。

 大分市住生活基本計画によると、市内には78の住宅団地があり、その半数以上が開発から40年以上経過しているそうです。

 そして、完成から30年以上経過した団地では顕著に人口減少が現れ、完成後40年以上経過した団地では空き家率が上昇しているといいます。


 
人口減少と高齢化で活力を低下させている住宅団地も少なくないようです。全体として見れば住宅団地の先行きは明るいとはいえないようです。

 悲観的な話から始まりましたが、市内の住宅団地が光り輝いていた時代もあったはずです。団地建設の歩みを少し見てみたいと思います。

    以下は下の「続きを読む」をクリックしてください。

11/02/2025

小字あれこれ その⑤ 団地建設

団地造成 四つの村に跨る

志手・椎迫・駄原・金谷迫





 前回の「小字あれこれ その➃ ため池と錦鯉」(2025年10月15日公開」で、志手老人クラブ共和会が2005(平成17)年5月に発行した「ふるさとだより17号」にあった「ふるさと年表『戦後60年・志手とその周辺』」を紹介しました(左の資料)。

 前回の「小字あれこれ その➃」では、この年表の「昭和40年代後半 駄原堤で錦鯉の養殖を始める」(赤色の下線を引いた部分)に注目して、いろいろ書きました。

 今回の題材はその下の四角で囲った出来事について書こうと思います。

 何が書いてあるか見てみます。「昭和48(1973)年 住宅団地高崎、にじが丘などの買収始まる。この頃から地区内で貸家アパートの建設が続き、水田の宅地化が進む」。「志手とその周辺」が大きく変わる節目となった年です。

 変貌を遂げた「志手とその周辺」の「変身前」と「変身後」の姿が冒頭の写真です。

 2枚の写真の上が現在、下が60年以上前の姿です。

 下の昭和36(1961)年撮影の写真には、志手の集落の前面に水田が、後背地の丘陵地帯にミカン畑がそれぞれ広がっています。

 現在の写真は「グーグル マップ」を複写したものです。「志手とその周辺」はどこもが住宅地になっています。

 2枚の写真に白い丸で囲んだところがあります。ここが高崎、にじが丘などの住宅団地です。〇を描いたのはこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者です。

 かつてミカンがあった丘陵地帯は順次造成されていき、「スカイタウン高崎」「サンシャインにじが丘」「パークシティ青葉台」などの名前で住宅地として売り出されていきました。

 ミカン畑が宅地になった話は、このブログ「大分『志手』散歩」の第1話「志手はどこにある?」(2021年7月17日公開)などで書いています。

 今回は志手集落の背後の丘陵地帯がミカン畑になる前の地図(明治21年刊行)と現在を比べようとする試みです。

 明治21(1888)年刊行の「村図大分郡三芳村」を基に志手の字図(あざず)を試作したことは「小字あれこれ その➁ 字図を作る」(2025年9月22日公開)で報告しました。

 明治時代の字図と現在の街並みを照らし合わせてみると、


 住宅団地が四つの村にまたがって造られたことが分かります。

 字図を基に昔これらの地域が何と呼ばれていたのか、もう少し詳しく見て行こうと思います。

 この先は下の「続きを読む」をクリックしてください。

10/15/2025

小字あれこれ その➃ ため池と錦鯉

 蜜柑の副業?ため池に錦鯉



 「小字(こあざ)あれこれ」シリーズの4回目です。

 上の写真は、前回の「小字あれこれ その③ もう一つの目印」(2025年9月29日公開)で使った写真を少し加工したものです。

 何が違うのか。白い丸で囲った箇所が2カ所あります。それが新しく加わったものです。いずれも「ため池」があったと思える場所です。


 上の地図は大分県立図書館にある1888(明治21)年刊行の「村図大分郡三芳村」(複製)の一部で、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が少し加工しています。

 旧志手村の「亀甲」(かめんく)の地図ですが、ここに塗りつぶされたような箇所が二つあります。これがため池だろうと思われます。

 前回の「小字あれこれ その③ もう一つの目印」の最後にこの地図を入れて、このブログの次回のテーマを予告しました。

 その予告通りに、今回はこの二つのため池を題材にしてみようと思います。この二つの池はどこら辺にあったのでしょうか。このあたりかと予想して白い丸で囲ってみたのが冒頭の写真です。

 と言っても、まったくあてずっぽうに囲ってみたわけではありません。参考にした資料はあります。

 一つは「『志手』風土記」です。

 このブログ「大分『志手」散歩」の「地図から消えた『毘沙門川』」(2023年9月25日公開)でも紹介しています。

 著者園田九洲男さんの子どもの頃(昭和20年頃)の思い出がつづられています。

 当時の志手の子どもたちは、まずは毘沙門川(現住吉川)で水遊びを覚え、それから村堤(むらづつみ)で泳ぎを楽しむようになったといいます。

 「としんかみ、でんしろらん、村堤、歌原堤、長水なども格好の遊び場であった」(「『志手』風土記」31貢)。

 「としんかみ」は「歳の神」で、志手と椎迫の境の毘沙門川上流と説明があります。ここが小さな子どもたちの水遊びの場だったようです。

 村堤に続いて「歌原堤」と書いてありますが、これは「駄原堤」の誤植のようです。

 この二つ(村堤と駄原堤)のため池はどこにあったのか。「『志手』風土記」ではもう一つはっきり分かりません。

 そこで別の資料も見てみることにしました。

この先はこの下の「続きを読む」をクリックしてください。

9/29/2025

小字あれこれ その③ もう一つの目印

亀甲山古墳 もう一つの目印

今は跡形もなく 宅地に変貌

 


 「小字あれこれ」の第3弾です。字(あざ)名を知ることで、そう呼ばれていた場所が昔どんなところだったかが分かります。

 中には、由来がよく分からない字の名前もありますが、それはそれで面白いと、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は思います。

 ということで大分県立図書館にある昔の地図を基に字図の試作品を作ったことは、このブログ「大分『志手』散歩」の「小字あれこれ その➁ 字図を作る」(2025年9月22日公開)で報告しました。


 その試作品が上の写真です。これに作る時に高齢者施設「天神ヴィラ」がある「天神平」と、
志手天神社がある「長水」を起点としたことも「小字あれこれ その➁ 字図を作る」で書いた通りです。

 「三芳村」と「駄原村」の二つの村図に赤い線を入れたのは、このブログの筆者で、これが村境になります。

 この境界線近くに「鼈甲」という小字があります。

 このブログ「小字あれこれ その➁ 字図を作る」で引用した「大字(おおあざ)小字(こあざ)」リストには「べっこう」とフリガナが振ってあります。

 蛇足ですが、1955(昭和30)年発刊の「大分市史」(左の写真)にも市内の大字小字リストが掲載されています。

 そのリストでは「鼈ノ甲」となっています。

 ここも「昔」と「今」をつなぐ一つの目印になります。


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9/22/2025

小字あれこれ その➁ 字図を作る

天眼鏡片手に字図作り

起点は天神平と天神社




  小字(こあざ)」シリーズの2回目です。

 初回は今月6日に公開した小字あれこれ その① 天神平」です。

 今回は高齢者施設「天神ヴィラ」がある「天神平(でんじんだいら)」と、志手天神社がある「長水」を起点に、周辺の字図を作りました。

 上の写真は、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が作った志手の字図(あざず)の試作品第1号です。

 使った材料は二つです。一つは大分県立図書館にある「大分県内市町村地引絵図」です。畳一畳ほどの大きさといえば少し大げさでしょうか、それぐらいの大きさの地図(複製)が昔の町村ごとにあります。

 上の写真は2枚の地図の一部をこのブログの筆者が図書館でコピーしたものです。上半分が大分郡三芳村、下半分が大分郡駄原村です。

 一枚の地図が大きくて、全部複写しようとすると費用がかさむし、このブログの筆者にはうまくとれそうにありません。

 何か良い方法はないかと考えて思い付いたのが大きな地図をカメラに収めること。

 県立図書館の調査相談・郷土情報室で「カメラで地図を撮影していいか」と聞くと、駄原村の地図はデータベースに入っているので、その分ならコピーできるとの回答でした。

 ということで出してもらったのが左の地図です。一方、三芳村の地図はデータベースに入っていないとのことでした。

 三芳村の村図は明治21(1888)年刊行とされていますが、駄原村の村図は刊行年不詳とのことです。といっても三芳村の村図が作られた時期とさほど変わらないのではないかと思います。

 三芳村の村図が作られた明治21(1888)年の翌年に「明治の大合併」といわれる市町村再編が行われました。

 三芳村は荏隈村に編入され、駄原村は勢家町などとともに西大分町になりました。駄原村の村図は明治の大合併の前に作られたと考えられます。

 明治の大合併と志手村の変遷については、このブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤「三芳」と「志手」二つの住所」(2023年2月23日公開)で、少し書いています。
 
 ちなみに三芳村は志手村と椎迫村などが明治8(1875)年に合併してできた村です。

 ここまで少々長くなりましたが、県立図書館にあった村図について説明してきました。村図には小字名が書かれているのですが、これが不鮮明で読み取りが難しいのです。


 そこで、このブログの「小字あれこれ その① 天神平」で紹介した「小字(こあざ)リスト」の登場となります。

 この小字リストが志手の字図を作るために使った二つ目の材料です。

 天眼鏡を片手に地図と小字リストを見比べながら作った「字図」が、冒頭に紹介した手作りの地図です。

 大ざっぱな地図ですが、次回はこの地図と現在の志手を突き合わせてみようと思います。

 
 



9/06/2025

小字あれこれ その① 天神平

ダジャレ⁉「ヴィラ」と「平」



 今回は大字(おおあざ)小字(こあざ)の話です。

 志手に「志手天神社」があります。その地番は大字駄原字長水です。

 志手天神社の地番、住所は「志手」ではないの?このブログ「大分『志手』散歩」の筆者はうかつにもずっと「志手」だと思っていました。

 なぜ「長水」という地番なのか。疑問を持った筆者は少し調べて天神社 志手村と長水村の関係は?」(2025年7月11日公開)を書きました。

 江戸時代に志手村の隣りに長水村がありました。長水村はその後駄原村の一部となり、駄原が大字、長水が小字として残っています。

 実は現在は「志手」と呼ばれるところも昔は駄原村だったというところが結構あります。今回はその一つを紹介します。

 志手老人クラブ共和会が発行していた会報「ふるさとだより」があります。

 このブログ「大分『志手』散歩」でも「ふるさとだよりで知る志手のトリビア」と題して4回書いています。1回目は「志手左官の由来は?」の見出しで2022(令和4)年11月29日に公開しています。

 その14号に掲載されていたのが左の資料です。

 旧駄原村の「小字」一覧です。この表にはフリガナが振ってあり、駄原は「だのはろ」と書いてあります。「だのはる」といつも言っていたのは、本当は間違いだったのかと思って少々驚きました。

 少々前置きが長くなりました。小字の中で「長水」は紹介しました。


 その下に「天神平(てんじんだいら)」とあり、続いて「志手堺(してさかい)」があります。

 そして、大字駄原字天神平に建っているのが上の写真の建物です。高齢者施設の「天神ヴィラ」です。

 「平」は「たいら」のほかに「ひら・びら」とも読めます。

 「天神平」を「てんじんびら」と読めば「天神ヴィラ」。ただ、それだけのことですが、このブログの筆者は「天神ヴィラ」の施設名の由来など考えていなかったので、ちょっとした発見でした。


 南欧風とでもいうのでしょうか、ちょっとシャレた外観なので「ヴィラ(Villa)」としたのかと思っていました。

 オシャレというよりもダジャレだったということでしょうか。

 ところで「天神平」という地名にはどんな由来があるのでしょう。もともと天神社はこの辺りにあったということでしょうか。

 地名の由来にも興味が湧きますが、残念ながらこちらの疑問に関してはいまのところ手掛かりなしです。

8/12/2025

「長水」余話 現在の「町名」は?

 「長水」から「王子山の手」に

オシャレな名前はいつから?



 志手天神社は昔の志手村内ではなく、隣りの旧長水村の中にある。

 そんな話を、このブログ「大分『志手』散歩」の「天神社 志手村と長水村の関係は?」(2025年7月11日公開)で書いています。

 志手天神社の境内に石灯籠があり、その寄進者が隣村の長水村の人間だった。江戸時代のことです。それを不思議に思ったこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者が、志手村と長水村のことをちょっと調べてみました。

 筆者は、志手天神社の所在地が旧長水村内であることに気が付き、そこからああだ、こうだと考えてみました。でも昔のことで史料も見つからず、筆者は袋小路に突き当たってばかりでした。

 いまは「長水」の呼び名もバス停の「長水入口」に残っているぐらいで、現在の町名は「長水」ではありません。今の町名は何でしょう。


 答えは街の中にあります。例えば防災マップに町名が書いてあります。

 「王子山の手町」。それが昔の「長水」とその周辺の今の名前です。「山の手」と聞くと何となくおしゃれな感じがします。

 東京の「山の手」を連想するからでしょうか。「下町」に対して「山の手」。庶民の街よりちょっと高級な感じがします。

 実際は背後の丘陵につながる傾斜地だから「山の手」という意味だと思います。「王子山の手」。誰がいつ頃付けたのでしょう。折角ですからそんなことも少し調べてみたいと思います。

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7/31/2025

子ども神輿 志手天神社夏祭り

夏の風物詩 子ども神輿 

志手天神社で元気に舞う



 子ども神輿が志手天神社を出たのは午後6時前でした。そして、志手町内を巡ったお神輿が志手天神社に戻ってきたのは7時40分頃でした。


 神社を出発する頃はまだ残っていた夏の太陽の輝きは消え去り、神社に戻るお神輿は薄暮に包まれていました。

 日が落ちると暑さが一服したようにも感じます。

 そのせいでしょうか、子ども神輿は志手天神社に近づくにつれて元気が出てきたようにも見えました。

 ちなみに志手天神社の夏祭り当日(7月24日)の気温はどれくらいだったのでしょう。気象庁のデータを見ると、大分市では35.0℃を記録し、7月9日(最高気温35.3℃)に続く「猛暑日」となっていました。



 関係者が熱中症対策でこまめな休憩と水分補給を心掛けたこともあり、お神輿は順調に天神社に戻り、境内で何回も力強く舞いました。

 来年も多くの子どもたちが参加して元気に地域を練り歩いてくれればいいなと思います。


 子どもたちの神輿は来年7月24日までお宮で時を待つことになります。

 このブログ「大分『志手』散歩」では、これまでも志手天神社の夏祭りについて書いています。

 「志手天神社夏祭り当日」(2024年7月31日公開)
 「4年ぶりのお神輿登場 志手天神社」(2023年7月28日公開)

 

7/19/2025

もうすぐ夏祭り 志手天神社

    もうすぐ夏祭り 志手天神社


 志手天神社の夏季大祭は毎年7月24日に行われます。その準備作業が7月12日にありました。

 普段は仕舞われている祭り関連グッズがいろいろあります。のぼり(上の写真)もその一つ。境内で組み立てられて町内 各所に立てられました



 のぼり(幟)がはためているを見ると、祭りが近いことを実感します。


 7月12日はお囃子のチキリンの練習が行われる日でした。

 志手天神社の夏祭りのメイン行事といえば子ども神輿です。そして、このお神輿に欠かせないのが子どもたちによるお囃子です。

 今年も6月28日、7月5日、7月12日と3回練習が行われたようです。


 チキリンについては、このブログ「大分『志手』散歩」の「志手天神社夏祭り2024」(2024年7月14日公開)で説明しています。

 去年のブログのチキリンの説明は、一昨年の説明4年ぶりの夏祭り 志手天神社」(2023年7月3日公開)を引用したものです。今回も借用します。コピー&ペーストは簡単なのでついやってしまいます。


【チキリンについて】


 大分市役所のホームページに「『チキリンばやし』の紹介」があります。そこから、チキリンについての解説を引用します。

 チキリンとは、大分市内のお祭りに伝わる「鉦」(かね)を中心としたお囃子のことです。「鉦」(かね)は、真鍮製で丸くて平たい底がある形をしています。お祭りには太鼓と鉦が古くからよく使われていますが、大分の祭りには特に「鉦」が中心になり、太鼓がこれにそって響きます。
 

 チキリンの音を出すのには、竹を削った柄に3~4センチ位の長さに切った鹿の角を直角に取り付けた、叩く道具「撞木」を使います。

  撞木を縦にもち、立てて「コンコン」と鉦の底を叩き、次に寝かせて輪の内側を「チキリン、チキリン」と三回叩きます。早いリズムを体で調子を取って叩く「コンコン、チキリン、チキリン、チキリン」の鉦の音は、ずいぶん昔から大分の祭りばやしに伝わっているもので、全国的にも珍しいお囃子になります。

 ※正確に言えば、「コンコン」「チキリン」という鉦の音を中心としたお囃子を「チキリン」というのですが、志手ではこの鉦を「チキリン」と通称しています。


志手ぶらぶら路上観察記⑦ 満月

「お盆のような月」が東に     季の坂3丁目の坂道をクルマで上っていると「お盆のような月」が目に入りました。「今日は満月か」。そう思って、持っていたカメラでとりあえず写真を撮りました。  Google検索してみると、これは2026(令和8)年の最初の満月だそうです。別名「ウルフ...