9/29/2025

小字あれこれ その③ もう一つの目印

亀甲山古墳 もう一つの目印

今は跡形もなく 宅地に変貌

 


 「小字あれこれ」の第3弾です。字(あざ)名を知ることで、そう呼ばれていた場所が昔どんなところだったかが分かります。

 中には、由来がよく分からない字の名前もありますが、それはそれで面白いと、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は思います。

 ということで大分県立図書館にある昔の地図を基に字図の試作品を作ったことは、このブログ「大分『志手』散歩」の「小字あれこれ その➁ 字図を作る」(2025年9月22日公開)で報告しました。


 その試作品が上の写真です。これに作る時に高齢者施設「天神ヴィラ」がある「天神平」と、
志手天神社がある「長水」を起点としたことも「小字あれこれ その➁ 字図を作る」で書いた通りです。

 「三芳村」と「駄原村」の二つの村図に赤い線を入れたのは、このブログの筆者で、これが村境になります。

 この境界線近くに「鼈甲」という小字があります。

 このブログ「小字あれこれ その➁ 字図を作る」で引用した「大字(おおあざ)小字(こあざ)」リストには「べっこう」とフリガナが振ってあります。

 蛇足ですが、1955(昭和30)年発刊の「大分市史」(左の写真)にも市内の大字小字リストが掲載されています。

 そのリストでは「鼈ノ甲」となっています。

 ここも「昔」と「今」をつなぐ一つの目印になります。


 このあとは下の「続きを読む」をクリックして下さい

 「鼈甲」に古墳があって、そこから三角縁神獣鏡などが出土したことは、このブログ「大分『志手』散歩」で何回か書いています。

 例えば「志手界隈案内①志手の名所旧跡」(2021年7月21日公開)や「地名あれこれ①大昔、志手は海辺だった」(2021年9月23日公開)などです。
 
 ちょっと面白いのは、この古墳の呼び名が「きこう」「きっこう」「かめのこう」と資料によって異なっていることです。

 名前が定まっていないということはどういうことなのか、発見者らが名称などどうでもよいと考えたのか、調べようにも資料がなかったのか、理由はよく分かりません。


 ちなみに地元では「鼈甲(亀甲)」を「かめんく」と呼んでいたそうです。

 左の資料は志手老人クラブ共和会発行の「ふるさとだより5号」です。1999(平成11)年1月に発行されています。

 発見当時の状況が書いてあります。明治44(1911)年に園田官造さんの畑で石棺が発見されました。地上の古墳部分はなく、平坦な土地の状態で偶然見つかったそうです。

 この石棺については、このブログ「大分『志手』散歩」の「ミカンとりんご➁ 志手ミカンの始まりは」(2025年6月14日公開)にも書いています。

 いずれにしろ今では調べようもなくなりました。古墳があった場所は今は住宅地となり、古墳の「こ」の字も感じられません。

 何も残っていない亀甲山古墳ですが、その場所は大分市の文化財マップで分かります。


 それが上の地図です。現在の季の坂3丁目です。地番を見ると「大字三芳字亀甲」となっています。



 ここが志手の「昔」と「今」を結ぶ三つ目の目印です。

 「亀甲」という地名の由来はなんでしょう。

 大昔、亀の甲羅を焼いて吉凶を占う「亀甲(きぼく)」が行われていたといいますが、この場所で行われて、その呼び名がついたのでしょうか。

 そうであれば歴史的に興味深い話です。


 上の写真は、このブログの筆者が作った志手の字図ですが、下敷きにした明治21(1888)年の村図には、池のようなものが書いてあります。

 「亀甲」には二つの池があったようです。

 確かに池が写った昔の写真もありました。次回は「亀甲」の池について少し見てみたいと思います。


 

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