亀甲山古墳 もう一つの目印
今は跡形もなく 宅地に変貌
中には、由来がよく分からない字の名前もありますが、それはそれで面白いと、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は思います。
ということで大分県立図書館にある昔の地図を基に字図の試作品を作ったことは、このブログ「大分『志手』散歩」の「小字あれこれ その➁ 字図を作る」(2025年9月22日公開)で報告しました。
「三芳村」と「駄原村」の二つの村図に赤い線を入れたのは、このブログの筆者で、これが村境になります。
この境界線近くに「鼈甲」という小字があります。
蛇足ですが、1955(昭和30)年発刊の「大分市史」(左の写真)にも市内の大字小字リストが掲載されています。
そのリストでは「鼈ノ甲」となっています。
ここも「昔」と「今」をつなぐ一つの目印になります。
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「鼈甲」に古墳があって、そこから三角縁神獣鏡などが出土したことは、このブログ「大分『志手』散歩」で何回か書いています。
例えば「志手界隈案内①志手の名所旧跡」(2021年7月21日公開)や「地名あれこれ①大昔、志手は海辺だった」(2021年9月23日公開)などです。
ちょっと面白いのは、この古墳の呼び名が「きこう」「きっこう」「かめのこう」と資料によって異なっていることです。
名前が定まっていないということはどういうことなのか、発見者らが名称などどうでもよいと考えたのか、調べようにも資料がなかったのか、理由はよく分かりません。
左の資料は志手老人クラブ共和会発行の「ふるさとだより5号」です。1999(平成11)年1月に発行されています。
発見当時の状況が書いてあります。明治44(1911)年に園田官造さんの畑で石棺が発見されました。地上の古墳部分はなく、平坦な土地の状態で偶然見つかったそうです。
この石棺については、このブログ「大分『志手』散歩」の「ミカンとりんご➁ 志手ミカンの始まりは」(2025年6月14日公開)にも書いています。
いずれにしろ今では調べようもなくなりました。古墳があった場所は今は住宅地となり、古墳の「こ」の字も感じられません。
何も残っていない亀甲山古墳ですが、その場所は大分市の文化財マップで分かります。
「亀甲」という地名の由来はなんでしょう。
大昔、亀の甲羅を焼いて吉凶を占う「亀甲(きぼく)」が行われていたといいますが、この場所で行われて、その呼び名がついたのでしょうか。
そうであれば歴史的に興味深い話です。
「亀甲」には二つの池があったようです。
確かに池が写った昔の写真もありました。次回は「亀甲」の池について少し見てみたいと思います。
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