官造さんと重平さん
志手みかんの先駆者
上の写真は志手のミカン畑※です。4年前に撮影したこの畑は今もありますが、周辺では宅地になったミカン畑もあります。
※正確に言えば温州ミカンではなく、志手ポンカンのようですが、ここでは「ミカン」と総称します。
1本はミカン、もう1本はリンゴの記事です。いずれも2024(令和6)年の生産量について報じた記事です。
農水省の統計を基にした記事で、データがある1973(昭和48)年以降でミカンは過去最低、リンゴは過去2番目の低水準だったとありました。 そのデータを紹介するとともに、「志手とミカン」についてあらためて次回書いてみたいと前回予告しました。
その予告に沿って志手のミカンの歴史について少し書こうと思います。
「余話 ミカンとりんご 日本農業新聞より」でも触れましたが、このブログ「大分『志手』散歩」では以前に志手でのミカン栽培の始まりなどについて少し紹介しています。
例えば「志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➁栽植記念の石碑残る」(2022年9月30日公開)などです。 その時に紹介した園田官造さんは志手でミカン栽培を始めた先駆者といっていいでしょう。
明治44(1911)年の栽植記念碑を官造さんの子孫の方が持っていることを「志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➁栽植記念の石碑残る」(2022年9月30日公開)で紹介しました。
志手でミカン栽培が始まるにあたって官造さんが大きな役割を果たしただろうことは想像ができます。
ただ、官造さんがどこからどのようなミカンを入れて、どのくらい作っていたかなど、具体的なことになるとよく分かりません。
一方、ミカン栽培に関してその功績がある程度分かる人物がいます。
園田重平さんです。重平さんは1924(大正13)年に「篤農家精農家」の1人として大分県農会から表彰されています(上の資料)。 表彰理由の一つがミカン栽培の普及に尽力したことです。
官造さん、重平さんのほかにも志手のミカン栽培の先駆者といえる人がいたかもしれません。ただ、資料なども残っていないようです。
ここではいまも残る資料を基に明治、大正、昭和初期の「志手みかん」について少し紹介しようと思います。
ミカン栽培を思い立った官造さんは予想もしない大発見をすることになるのですが、これも最後の方で紹介しようと思います。
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大分県立図書館に所蔵されている「表彰篤農家精農家事歴」(大正13年3月30日)に書かれた園田重平さんの功績を見てみようと思います。
米麦生産、育苗に成果、柑橘にも手腕
重平さんの経歴はなかなか輝かしいものです。右の資料によると、表彰の理由は主に6つあります。
まずは「米」です。生産方法を改めて増収の範を示したとあります。
次に麦作では改良した生産方法を実行して、その普及に努めたそうです。
育苗では「温床」を使って半促成栽培を行い、作った苗を分け与えたといいます。温床とはハウス栽培のようなものでしょうか。進取の精神に富んでいたようです。
そして、肝心のミカンの話になります。重平さんは率先してミカンを栽培に取り組み、その試みは志手の集落全体に波及します。
20数町歩で新植をみたとありますから、志手でミカン栽培が一気に広がり、20数ヘクタールに及んだことになります。
大正6(1917)年に「志手興農会」が組織されると幹事として組合事務などを担います。志手興農会は大正11(1922)年に「優良小組合」として表彰されますが、それも重平さんの功績と表彰理由に書いてあります。
田畑消え、残る丘陵地帯に活路求めた
優秀な指導者、先駆者がいることは重要なことですが、志手でミカン栽培が一気に広がったのはそれだけが理由ではなさそうです。
大分合同新聞社から発行された「大分今昔」(渡辺克己著)の「王子町かいわい」に志手でミカン栽培が始まった経緯が書かれています。
「王子町かいわい」の7話目「大分ミカンの創始者」の中です。「志手に残る農村風景 ミカン盛衰記③大分連隊がきっかけに」では、その該当部分を引用しています。
「明治の末に(陸軍)七十二連隊が大分にきて、広大な農地をつぶしてしまった。その犠牲となって最も大きな打撃を受けたのは志手、椎迫の農家だった。そのとき新しく生きる道として目を付けたのが、かつて丑太郎さんが駄ノ原の農家にすすめて植えさせたミカンだった」
「田畑を失って追いつめられた志手、椎迫の人々は必死だ。山地帯を開墾して積極的にミカン栽培に転じていった。そして数年後には好成績をあげるようになったのである」
ちなみに本文中の「丑五郎さん」とは岩田丑五郎氏。「大分ミカンの創始者」と呼ばれています。詳しくは「志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➃先駆者・岩田丑五郎の碑」(2022年10月6日公開)をご参照ください。
「大分今昔」の話が事実ならば志手の農民にミカン以外の選択肢はなかったということになりますか。
大分市を代表するミカン産地に成長
「大分今昔」によると、志手のミカン栽培は取り組み始めて数年後には好成績を挙げるようになったそうです。
ミカン栽培がすぐに軌道に乗ったのかどうかは分かりませんが、明治末に始めたミカンが大正、昭和初期と順調に育って行ったのは間違いないようです。
1937(昭和12)年に発行された「大分市誌」に志手ミカンについての記述があります(上の写真)。
当時の大分市の農業について書かれた部分の中に以下の説明があります。こちらも少し長いですが、引用してみます。
大分市内における1カ年の蔬菜果実類の移出入高を市農会調べで見ると、蔬菜並びに果菜(スイカ、カボチャ類)の入超が24万円、果実が5万円の計29万円である。
内訳は県外から9万円、県内から20万円移入しており、本市農業が将来、園芸、高等蔬菜類の栽培奨励に余地多く、移出は主として志手椎迫の台地に栽培されているミカンである。
大分市誌の記述から、志手のミカンは大分市の特産品として市外に出荷されていたことが分かります。
志手では当時から温州ミカンだけでなく、さまざまな柑橘類を取り入れていたようです。その一つがポンカンです。
志手ポンカンのしおり(右の写真)によると、昭和初期に台湾から苗木を導入したとあります。
ポンカンは長く、ミカン生産者が自家用として育てていたそうです。
それがミカンの生産過剰で価格が暴落し、ミカンに代わるものを探していた志手の生産者の目にとまります。
志手のミカン生産者全体でポンカンに取り組むことになり、「志手ポンカン」として出したら高い評価を受けたといいます。
これはざっと半世紀ほど前の話です。何が幸いするか分かりません。
山を掘ったら石棺 三角縁神獣鏡発見
最後にミカン栽培に取り組もうとした官造さんの1911(明治44)年の大発見についても書いておきます。
1911年5月発行の学術誌「考古学雑誌」に発見の模様が簡単に書いてあります。
それが左の資料です。
「大分市三芳の古墳発見」とあり、古墳発見の経緯と出土物が報告されています。
それによると、園田官造さんが所有する山林を開墾していると、地下1尺5寸くらいのところで石棺を掘り当てました。
1911(明治44)年3月25日のことだったそうです。
ちなみに1尺は約30センチ、1寸は約3センチですから50センチ足らずを掘ったところで見つかったことになります。
石棺の中には頭蓋骨の破片とともに三角縁神獣鏡などがあったそうです。その時発見された三角縁神獣鏡の複製が大分市歴史資料館に展示されています(上の写真)。
官造さんが所有林を開墾したのはミカンを植えるためだったのでしょう。
ミカンが予想外の発見をもたらしました。石棺が発見された場所は左の地図の「亀甲山古墳」と書かれたところです。
なぜ「亀甲」の名前がついているかといえば、この場所の所在地が「大字三芳字亀甲」(おおあざ・みよし・あざ・かめんく)だからです。
現在の町名は「季の坂」。戸建て住宅がずらりと並んでいます。
話が少し長くなりました。ここらで「『志手みかん』始まり物語」をいったん終えようかと思います。
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