10/28/2022

志手ポンカン①志手ポンカンは日本一

 志手ポンカンは日本一⁉

 志手ポンカンを絶賛した著名人がいたそうです。

 その人とはキヤノン創業者で、大分県蒲江町(現佐伯市蒲江)出身の御手洗毅氏。同氏が大分市の大分文化会館で大分合同新聞の記者と食事をした際、デザートに出たポンカンが美味しいと言い、産地を尋ねた。
 そして、志手産であることを知り「大分県の一村一品で一番うまいのは志手のポンカンである」と言った。それが新聞記事となって志手ポンカンの評価を上げ、日本一とも評されるようになった。

 そんな話があるようです。「大分キヤノン」が設立されたのが1982(昭和57)年と言いますから、御手洗氏の来県と記者との懇談はその前後ではないか。そう考えて新聞記事を探してみましたが、残念ながら見つけられませんでした。

 御手洗氏の逸話があったのは、志手地区の老人会が発行していた「ふるさとだより」に掲載された「日本一うまい志手ポンカンの話」の中です。まずはそれを紹介しましょう。

 
 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

 
 左の資料が
「日本一うまい志手ポンカンの話」です。冒頭に記したエピソードが資料の後半部分に出てきます。

 日本一うまい志手ポンカンの話は「志手老人クラブ共和会」が発行した「ふるさとだより」第4号に掲載されました。第4号の発行は1999(平成11)年1月です。

 「ふるさとだより」には、老人クラブ会員の園田英雄さん(故人)がさまざまな「志手の歴史」について書いていました。

 第4号のテーマは「みかん 志手の特産品、その昔と今」でした。その内容はこのブログ「大分『志手』散歩」のミカン盛衰記①から⑥で紹介したものとほぼ同様です。

 志手のミカン栽培が明治44(1911)年に始まったことや、大分ミカンの先駆者とされる岩田丑太郎のことなどを紹介しています。そして、ミカンの生産過剰、価格暴落を受けて、ミカンに代わる新たな目玉として志手の生産者がポンカンを売り出し、好評を得たことに触れています。

 
 志手のポンカンについてもっと詳しく説明してほしいという趣旨で、当時の志手柑橘生産組合長に執筆を依頼したのでしょう。「日本一うまい志手ポンカンの話」を読むと、「志手ポンカン」誕生の経緯がよく分かります。

 では、“日本一”の志手ポンカンの話から少し引用してみましょう(赤い線は筆者が引きました)。

 みかんは昭和30年代に植えすぎて生産過剰となり、とうとう生産調整でみかんの木を伐れば1反(10㌃)当たり30万円から50万円の金が出る減反政策がとられた。

 (生産調整にもかかわらず)みかんの値段は一向に上がる気配はなかった。昭和52(1977)年、温州みかんに代わるものについてみんな(志手の生産者)で真剣に話し合う中、志手にはポンカンがあるではないか、(みかんを)ポンカンを接ぎ換えて、みんなで共同出荷しようとなった。

 ポンカンは昭和4(1929)年ごろ台湾から日本に入ってきた。志手にも同時に入ってきたということである。ただ、志手のポンカンの系統が分からないので「志手ポンカン」にしようという話になった。

 最初は各自で箱詰めしたポンカンを持ち寄り、一緒に市場に出荷していた。共同出荷の始まりである。2、3年たつとポンカンだけでなく温州みかんも共同出荷しようということになり、有志18名で共同出資して選果場を建て、志手柑橘生産組合を設立した(昭和56年〈1981〉)

 以上が「日本一うまい志手ポンカンの話」に書かれている志手ポンカン登場のおおまかな流れです。

 有志18戸で組合を設立したと原稿にあります。約40年前のことです。当時は生産者の皆さんもまだ若くて元気でした。だから、ポンカンを作るだけでなく、その売り込みにも熱心に取り組んだようです。その様子を伝える新聞記事が残っています。次回はそれを紹介しようと思います。

 

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