いけるぞ!志手ポンカン 見出し躍る
志手ポンカン連載1回目の前回は、温州ミカンから志手ポンカンへの転換の軌跡をたどりました。志手の生産者18人による共同出資で「志手柑橘生産組合」が作られ、共同出荷のための選果場が建てられました。志手ポンカンの生産・販売の体制が整う中で、地元の新聞やテレビにも話題として取り上げられるようになりました。
私が見つけた一番古い新聞記事は、大分合同新聞の昭和57(1981)年2月21日付朝刊です。生産組合を作り、選果場を建設して最初のポンカン出荷が行われた時だと思われます。
もらったポンカンを試食した市長は「鹿児島などの本場のものより、味も香りも良い。“志手ポンカン”ではなく“大分志手ポンカン”として売り出してください」と言ったとか。記事にあります。
そこで新聞の見出しも「いけるゾ『志手ポンカン』」「市長も試食 太鼓判」となかなか威勢の良いものになっています。
そこで新聞の見出しも「いけるゾ『志手ポンカン』」「市長も試食 太鼓判」となかなか威勢の良いものになっています。
志手ポンカンに関する大分合同新聞の記事はまだあります。もう少し紹介してみようかと思います。
(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)
市長の太鼓判をもらってから3年後になります。下の記事が大分合同新聞に載りました。1985(昭和60)年2月8日付の朝刊です。
志手ポンカンの試食・即売会を開くとのお知らせです。記事によると、栽培面積5㌶で収穫量も40トンとなり、本格的に販売できる態勢が整ったので、志手ポンカンを積極的に売り込もうと、生産者や市場関係者が企画したようです。記事には志手ポンカンの“本格デビュー”とあります。
記事の写真でポンカンが詰められているの左の写真の箱。今もこの箱が使われています。これはわざわざプロのデザイナーに発注して制作してもらったのだとか。結構費用もかかったようで、なかなかおしゃれにできています。
試食会を開いたり、しゃれたパッケージを作ったり、今では普通の販売方法といえますが、40年前はどうでしょう。当時としては斬新なといえば言い過ぎでしょうか。なかなかあか抜けたやり方だったように思えます。
(注)志手ポンカンの記事は、大分県立図書館に保管されている大分合同新聞(マイクロフィルムになっています)で探しました。それ以外の新聞については各社の大分支局に問い合わせれば教えてもらえるかもしれません。ただ、今のところそこまではやっていません。
本格デビューの記事から3年後。大分合同新聞に小さな記事が載りました(右の写真)。1988(昭和63)年1月です。記事は素っ気ないものでした。
記事は、1月19日に志手ポンカンが青果市場に初出荷され、20日に競りにかけられることを報じています。志手ポンカンを取り扱う業者から頼まれた記者が“お義理”で書いたような原稿です。
志手ポンカンは関係者の思いとは裏腹にあまり人気が出なかったのでしょうか。そうとも言い切れません。記事中に「値段の方は昨年がキロ当たり400円だった」とあります。競り値で1㌔当たり400円ならミカン類の当時の価格としては高い方ではないでしょうか。一部には人気はあったが、ちょっと高くて庶民の手には届きにくいので、一般にはそれほど浸透していない。そんな存在だったのでしょうか。
こちらは「おいしい」と「ビタミンC」をかけて一工夫した見出しです。記事も、記者が選果場に足を運んで話を聞いて書いています。
しかも、記事の冒頭に「甘い香りとビタミンCたっぷりの果実がおいしいと評判の」志手ポンカンと前振りし、写真説明には「冬はやっぱりコレ!」とCМのキャッチコピーのようなものを付けてサービス満点です。
5年前の素っ気ない記事とは大違い。この間に何があったのかなと理由を知りたくなります。この記事を書いた人が志手ポンカンが大好物だったとか、志手の農家と懇意にしており、応援してやろうと思って書いたとか、そんなことでしょうか。とにかく記事の内容の変化に驚きます。
その後、大分合同新聞に志手ポンカンの記事が掲載されたのは2009(平成21)年と2012(平成24)、2013(平成25)年の3回だけです。それ以降の記事を見つけることはできませんでした。
下の写真は1994年から2001年までの志手ポンカンの出荷を取材した記事です。
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