「ふるさとだより」で知る「志手」のトリビア①
「三佐 大工 上野 ペンキ屋 志手 左官」
志手の歴史を知るのに良い資料があります。このブログ「大分『志手』散歩」の志手ポンカン連載1回目の「志手ポンカンは日本一⁉」でも紹介した「ふるさとだより」です。
「ふるさとだより」は志手の老人クラブが発行していました。手元には平成10(1998)年4月発行の第1号から平成17(2005)年5月発行の17号「特集戦後60年」まであります。
ふるさとだよりを読み返してみて、ちょっと面白いな思ったものがいくつかありました。それを紹介していきたいと思います。
1回目は園田逸雄さん(故人)が書いた「郷土の先人 園田秀五郎翁をしのぶ」(第5号・平成11年4月発行)です。
第二次大戦前に大分で言われた(特に職人仲間では日常にいわれる)言葉だそうです。
三佐、上野、志手は地名、大工、ペンキ屋、左官は職業です。大分市の三佐地区には大工が、上野地区には塗装業者が、志手には左官が多かったということでしょうか。
府内城下町の昔の町名にある「塗師町」「大工町」といった感じでしょうか。では、なぜ志手は左官を仕事にする人が多かったのでしょう。
そのカギを握る人物が園田秀五郎というわけです。上の写真は園田秀五郎翁の頌徳碑があったという場所です。今は頌徳碑はなく、碑があったであろう場所を黒く塗ってみました。
園田逸雄さんの文章で秀五郎翁の足跡をたどりたいと思います。
(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)
園田逸雄さんはこの頌徳碑にある文を要約して秀五郎翁の業績などを紹介しています。
それによると、秀五郎翁は明治元年(1868年)9月生まれで、資質温厚篤実で家業の農作業に励み、親への孝養や弟妹への情愛で、他の範となる存在だったということです。
秀五郎は農業のほかに何か副業があれば生活が楽になると考え、明治22(1889)年3月に勢家町の左官業大塚万作に弟子入りしたそうです。翁が20歳のときでした。
翁は左官としてさらなる高い技術を求めて明治25年に現在の北九州市に行き、同28年6月に帰郷、左官業を本格的に始めたようです。すると、熱心な仕事ぶりと優秀な技術によって千客万来となったそうです。
仕事が増えてきた翁は明治45(1912)年、北新町に工務所を設置し、多くの職人、門弟を育成、統率して、会社や学校など大分県内で行われる大きな工事に従事し、家運ますます隆盛を極めることになったといいます。
多くの門弟(人材)を育てた翁の遺徳をしのぶために門人たちによって大正13(1924)年1月に頌徳碑が建てられたようです。現在は碑が残っておらず、碑文を確認することもできません。
志手地区では秀五郎翁の影響で左官業が盛んな時期もあり、農業の傍ら左官として仕事をし生計を立てていた人もあったようです。
園田逸雄さんは「郷土の先人 園田秀五郎翁をしのぶ」の最後に、「現在でも左官の職を天職として頑張っておられる方も志手郷には幾人かおられ、その伝統は受け継がれております」と書いています。
この原稿が書かれた平成11(1999)年ごろはまだ左官業を営む人が志手にいたようです。今はどうなのでしょう。
左官業は簡単に言えば、モルタルやしっくいなどの材料を使って建物の壁や床などを仕上げていく仕事です。だんだんと左官仕事そのものが減って、左官業からの転身を余儀なくされている業者なども少なくないという話を聞いたことがありました。
ただ、志手散歩を書くためにウィキペディア(Wikipedia)を見てみると、「最近になり、しっくいや珪藻土などの天然素材を使用した壁が見直されるとともに、手仕事による仕上げの多様性や味わいを持つ、左官仕上げの良さが再認識されてきている。特に『和モダン』と呼ばれる、日本らしさと欧米のモダンスタイルを併せ持つ建築には、多彩な左官仕上げが使われる事が多い」などと書かれていました。
私自身は左官業とは関係はありませんが、左官の技術が見直されていると聞くと、少し嬉しくなりました。自分が住む地域と縁がある職業と知ったからでしょう。
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