11/18/2022

志手ポンカン➃幻になる日も近い?

減る生産者 まぼろしになる日も近い⁉


 「志手ポンカン」連載の4回目です。1回目は志手ポンカンが世に出たいきさつ、2回目は新聞記事に見る志手ポンカン、3回目は志手ポンカンの特徴について、それぞれ簡単に書いてきました。
 今回は連載の締めくくりとして志手ポンカンの現状を見てみたいと思います。
 
 

 志手ポンカンは今どれくらい作られているのでしょうか?上は
2013(平成25)年2月1日付の大分合同新聞です。筆者が確認できた「志手ポンカン出荷」の最後の記事です。記事によると、この時は7軒の農家が合計約11トンを生産しています。最盛期の4分の1といったところでしょうか。今はこの時よりも少なくなっているのは間違いないでしょう。

 生産者が減り、農地が減り、「不知火(デコポン)」や「はるみ」などの登場でポンカンの魅力も相対的に低下しました。このままいくと志手ポンカンが「まぼろし」になる日も近いのかもしれません。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

 

 「志手のトリビア(豆知識)」を紹介する。地域を歩いて意外なもの、忘れられていたものを見つける。そんなことがこの日誌の目的ですが、下の写真も“再発見”の一つではないかと個人的に思っているものです。

  志手ポンカンの連載1、2回目に志手のミカン生産者が「志手柑橘生産組合」を作り、共同出荷するための選果場を建てたことを書きました。
 右の写真が選果場です。ここに一枚の集合写真が残っています。よく見ると、写真に何か書かれています。
 「昭和56年10月6日」「撰果場落成記念」と読めます。40年以上前の写真です。写っているのは22人。背広姿の人が2人、普段着が20人で、背広姿は市場関係者、普段着の人はポンカン生産者のようです。
 
 生産者の高齢化と後継者不足。農業について語る時に必ずといっていいほど出てくる言葉ですが、志手のポンカン生産者にもあてはまります。

  漫談家の綾小路きみまろが笑いを誘う言葉「あれから40年」ではありませんが、歳歳年年人同じからずで、写真の中の人たちも年齢を重ねました。他界された方もいます。ポンカン作りを続けるためには後継者が欠かせませんが、後を継ごうという若い人はなかなかいないようです。 
 
 農地も激減しました。このブログ「大分『志手』散歩」の初回「志手はどこにある?」で以下のように書きました。

 県都・大分市の人口増加とともに住宅需要が高まり、市内各地でニュータウンの造成が進みました。志手の背後にある丘陵地もその一つでした。ミカン園は次々に住宅地へと姿を変え、「スカイタウン高崎」「サンシャインにじが丘」「パークシティ青葉台」「スカイタウン高尾台」「パークシティ季の坂」とオシャレな名前で売り出されました。

 

 志手集落の背後にある丘陵地一帯がかつてはミカン畑でした。このブログの「志手に残る農村風景 ミカン盛衰記⑤」でも書いています。それが上の写真のようにミカン畑は一部に残るだけになっています。

 
 残ったミカン畑も少しずつ消えています。左の写真にある枯れた木(○
で囲んでいます)はポンカンだと思われます。栽培をやめて伐ってしまったようです。後継者がいなければ仕方ありません。


 さらにポンカンと同じ中晩柑類では次々に新種が出てきました。ポンカンを“親”にして生まれたものもあります。「不知火(デコポン)」や「はるみ」はポンカンと清見を掛け合わせたものです。甘平(西之香+不知火)というのもあります。だから甘平はポンカンの“孫”になります。

 ポンカンの競争相手となる新顔が次々と登場し、ポンカンは目立たなくなりました。志手の生産者もポンカンだけでなく不知火(デコポン)なども作っています。

 ということで志手ポンカンの生産量は右肩下がりに減ってくることになりました。このままなくなっていくのでしょうか。それはポンカン作りの後継者が生まれるかどうかにかかっているといえます。

 

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