ミカンは神代の昔から?
筆者が当初考えていた展開とは違ってきましたが、志手ポンカンにつなげるまでミカンの話を続けたいと思います。
さて、大分ミカンの先駆者として岩田丑太郎を紹介しましたが、大分県内では岩田翁の取り組みの遥か以前からミカン栽培が行われていたということです。
では、始まりはいつ頃なのか。「大分みかんのあゆみ」と題した年表があります。その最初に「神武天皇 皇登山(水晶山)に登らせ給い、土民ミカン献上する」とあります。
もっと現実的なものとして紹介されているのが「尾崎先祖木」です。私が年表に線を引きました。保元2年(西暦1159年)に又四郎蔵富住、松川より柑橘樹移植する。これが尾崎先祖木と呼ばれるもので、国の天然記念物に指定されているのだとか。ただ、このミカンは現在の私たちがよく食べている温州ミカンとはちょっと違うようです
(「大分みかんのあゆみ」には「寛永18年(1641)蔵富、茶屋本に温州を植える」とあります)。
ともかくも随分昔から大分県内ではミカン栽培が行われてきたことは間違いないようです。ただ、ミカン生産が激増するのは太平洋戦争後の昭和30~40年代です。その結果、生産過剰による価格の暴落が起き、減反(生産調整)政策が実施されることになります。
そのあたりのことを昭和46(1971)年に発行された冊子「大分みかん」を基に振り返ってみようと思います。ちなみに年表の「大分みかんのあゆみ」はこの冊子にあります。
大分県で開かれた第20回全国柑橘研究大会に合わせて作られました。冊子のあとがきの「編集を終えて」には、大分県のミカン産業の現状紹介と未来を浮き彫りにし、大会参加者らの理解に資することが目的とあります。
140頁余りのこの冊子は、県と県果実連が共同で執筆に取り組んだだけあってミカン生産・販売に関する情報が網羅的に盛り込まれており、なかなか興味深い内容になっています。
昭和31(1956)年は生産量22,429トンで栽培面積が2,055㌶でした。それが昭和45(1970)年には生産量103,910トン、栽培面積9,385㌶にそれぞれ増えています。
この間、生産量は約4.6倍に、栽培面積は約4.5倍に急増しています。さらに棒グラフの下にある円グラフ「かんきつ類の生産量現況と計画」を見ると、ミカンの生産量は昭和55(1980)年には293,340トンに達する見通しだったことが分かります。昭和45年の3倍近い生産が見込まれていたわけです。
ミカンが増産されていたのは大分県だけではありません。昭和35(1960)年を基準にすると、大分県のミカン栽培面積は10年間で2.8倍に拡大。この伸び率は全国7位だったそうです。大分県を上回るペースでミカン生産を拡大させていたところが6つあったということですね。
(注)「大分みかん」のグラフは誤り?昭和41(1966)年の栽培面積は7,156㌶と、同39(1964)年の5,522㌶に比べて約1,600㌶増えているのにグラフの棒線は下がっています。
右は昭和43(1968)年12月24日付の大分合同新聞朝刊です。記事は「昭和43年産ミカンの出荷は年末のピーク時を迎えたが、安値はいぜんとして続いている」と書き出しています。
「こうした安値は当然予想されていたことであったが、予想より二、三年早いという安値時代の到来に産地の混乱は想像以上のもの」と伝えています。
特に厳しかったのが新規参入組でした。ミカンを植えてもすぐに収穫できるわけではありません。収穫できるようになっても直ちに経営が黒字化するわけでもありません。
記事は、小規模農家が田畑をミカン園に転用したり、10㌃当たり10~15万円もするような山林原野を買って開墾したため、かなりの過剰投資で苦しむ農家が最近目立っているなどと報じています。
ミカン暴落の影響は志手で昔からミカンを作っていた人たちにも及びました。志手の生産者にも先行き不安が広がっただろうと予想できます。そんな中で志手のミカン農家が目を付けたのが自家用に植えていたポンカンでした。
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