10/02/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記③大分連隊がきっかけに

  なぜ、ミカン?「大分今昔」に解説が

 
 
 大分合同新聞社から「大分今昔」という本が出ています。
 昭和39(1964)年に初版発行、昭和58(1983)年に再版が出ています。大分県立図書館には再版本があります。左の写真がその中表紙と目次です。
 目次を見ると「昭和通りかいわい」から「桃園かいわい」まで大分市内の25の“町”が出ています。この中の15番目の「王子町かいわい」に志手でミカン栽培が始まった経緯が出てきます。

 (興味ある方は「続きを読む)をクリックしてください)

 もともと昭和37(1962)年11月から翌38(1963)年12月末まで大分合同新聞夕刊に連載された記事です。著者の渡辺克己氏は同紙の記者でした。

 志手が出てくるのは「王子町かいわい」の7話目「大分ミカンの創始者」の中です。王子町の素封家の岩田丑太郎翁が主人公です。岩田翁はミカン苗木を和歌山から購入し、地元農家に生産を奨励しますが、なかなか根付きませんでした。それが、あるきっかけで志手、椎迫に広まり…。

 ちょっと長いですが、「大分今昔」の該当部分を引用してみます。

 「明治の末に七十二連隊が大分にきて、広大な農地をつぶしてしまった。その犠牲となって最も大きな打撃を受けたのは志手、椎迫の農家だった。そのとき新しく生きる道として目を付けたのが、かつて丑太郎さんが駄ノ原の農家にすすめて植えさせたミカンだった」


「田畑を失って追いつめられた志手、椎迫の人々は必死だ。山地帯を開墾して積極的にミカン栽培に転じていった。そして数年後には好成績をあげるようになったのである」

 右の地図は大正10(1921)年のものです。大きな丸で囲われたのが大分連隊の兵舎や練兵場、射撃場です。連隊の広大な敷地に比べ志手の集落はこじんまりとしています。

 「大分今昔」が解説するように連隊用地が志手、椎迫の農民が耕していた田畑だったら、それを失った農民たちがミカンに活路を見出そうとしたという筋書きは大いに説得力があります。実際はどうだったのでしょう。当時の資料を持っていないので事実かどうかの断定まではできません。

 しかし、興味深い話です。大正10年の地図に「季の坂」「にじが丘」と住所を入れてみました。もちろんこれは現在の住所名です。志手の背後にある丘陵地帯が新興住宅団地として相次いで開発されていくのは「大分今昔」が書かれた昭和37、38年よりももう少し後のことになります。



 

 ちなみに「大分今昔」は電子ブック版(右の写真)が出ています(大分合同新聞社と別府大学が運営する「NANーNANライブラリー」で閲覧できます)

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