9/30/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➁栽植記念の石碑残る

 ミカンづくりの始まりは?

 
 志手地区でミカン作りはいつ始まったか。最初に答えを言ってしまえ明治44年です。証明するものがあります。その一つが右の写真です。

 園田官造さんがミカン栽培を始めた記念に作ったそうです。官造さんの子孫にあたる人が持っていました。

(興味ある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

 明治44(1911)年とはっきりあります。ただ、これだけではまだ心もとないと思う人のためにもう一つ証拠を用意しました。それが左下の写真です。

 
 志手天神社にある石碑です。この碑文の冒頭に「当区の果樹園は明治44年から栽植を始め」とあります。
志手のミカンは明治最後の年に始まったと考えてよさそうです。

 ところで、この石碑は何のために建てられたのでしょうか。「御大典記念」「昭和3年」とあります。昭和3(1928)年11月に昭和天皇の即位の礼が行われ、志手でも天皇即位を祝した記念事業を実施したとあります。

 事業は山道の拡充でした。地権者の協力と地元民の労力で、3尺の道を7尺に広げたようです。1尺が30センチとすると約1mの道路が2m以上に拡幅されたことになります。この道はミカン栽培のための農道と考えてよさそうです。

 碑文に住民は寝食を忘れて(ミカンの)増収や品質改善に励んだとあります。昭和3年頃にはそれなりのミカン産地になっていたのでしょう。

 農道拡充によって馬車も使えるようになったのではないでしょうか。この事業によって志手のミカン生産能力が格段に増したことは想像に難くありません。わざわざ記念碑を建てたことも理解できます。

上の写真は志手天神社
 
 ところで「園田官造」「明治44年」は志手の歴史を語る上での重要なキーワードの一つになります。

 このブログの「地名あれこれ①大昔、志手は海だった」と「志手界隈案内①」で取り上げた「亀甲山古墳」に関係しています。これもあらためて取り上げたいと思います。

 

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