10/15/2025

小字あれこれ その➃ ため池と錦鯉

 蜜柑の副業?ため池に錦鯉



 「小字(こあざ)あれこれ」シリーズの4回目です。

 上の写真は、前回の「小字あれこれ その③ もう一つの目印」(2025年9月29日公開)で使った写真を少し加工したものです。

 何が違うのか。白い丸で囲った箇所が2カ所あります。それが新しく加わったものです。いずれも「ため池」があったと思える場所です。


 上の地図は大分県立図書館にある1888(明治21)年刊行の「村図大分郡三芳村」(複製)の一部で、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が少し加工しています。

 旧志手村の「亀甲」(かめんく)の地図ですが、ここに塗りつぶされたような箇所が二つあります。これがため池だろうと思われます。

 前回の「小字あれこれ その③ もう一つの目印」の最後にこの地図を入れて、このブログの次回のテーマを予告しました。

 その予告通りに、今回はこの二つのため池を題材にしてみようと思います。この二つの池はどこら辺にあったのでしょうか。このあたりかと予想して白い丸で囲ってみたのが冒頭の写真です。

 と言っても、まったくあてずっぽうに囲ってみたわけではありません。参考にした資料はあります。

 一つは「『志手』風土記」です。

 このブログ「大分『志手」散歩」の「地図から消えた『毘沙門川』」(2023年9月25日公開)でも紹介しています。

 著者園田九洲男さんの子どもの頃(昭和20年頃)の思い出がつづられています。

 当時の志手の子どもたちは、まずは毘沙門川(現住吉川)で水遊びを覚え、それから村堤(むらづつみ)で泳ぎを楽しむようになったといいます。

 「としんかみ、でんしろらん、村堤、歌原堤、長水なども格好の遊び場であった」(「『志手』風土記」31貢)。

 「としんかみ」は「歳の神」で、志手と椎迫の境の毘沙門川上流と説明があります。ここが小さな子どもたちの水遊びの場だったようです。

 村堤に続いて「歌原堤」と書いてありますが、これは「駄原堤」の誤植のようです。

 この二つ(村堤と駄原堤)のため池はどこにあったのか。「『志手』風土記」ではもう一つはっきり分かりません。

 そこで別の資料も見てみることにしました。

この先はこの下の「続きを読む」をクリックしてください。

北から長水堤、駄原堤、村堤と並んで


 左の資料は、志手老人クラブ共和会が発行した「ふるさとだより15号」に掲載されたものです。

 ふるさとだより15号は2004(平成16)年3月に発行されています。

 タイトルは「村堤(むらづつみ)と水泳」。この中に村堤と駄原堤、長水堤の位置関係が出てきます。

 ちょっと引用してみましょう。

 「ふるさと志手の外れに、いわゆる灌漑用の堤が三つありました」

 「長水堤は村の外れにあり、子供心にもやや神秘的な感じがありました。駄原堤は三つのうち真ん中に位置して割合開けたところにありました」

 「村堤は町内に一番近く共同墓地に行く道のすぐ右上にありました」

 この話を参考に1888(明治21)年刊行の「村図大分郡三芳村」で三つのため池の位置関係を確かめると、以下のようになるでしょうか。


 長水堤は「亀甲」ではなく「栗迫」と「光政」の境から「光政」側にあったようです。

 共同墓地は「辻」にありますので、これも上の地図に書き込みました。

 共同墓地に行く道のすぐ右上に村堤があったということは


 村堤はこのあたり(上の写真の細い白い線で囲ったところ)になるでしょうか。共同墓地に行く道は白い太い線でなぞっています。

水を湛えた駄原堤 昭和15年の写真


 さて、村堤があったであろう場所が大ざっぱに特定されましたので、次は駄原堤について見ていきたいと思います。

 駄原堤と思えるため池については貴重な写真があります。5年ほど前に見せていただいた古い写真帖(アルバム)にありました。

 写真帖のタイトルは「昭和15年新嘗祭 献穀精粟奉耕記念」となっています。何のことでしょう。

 当時の新聞記事をみてみます。

 豊州新報(大分合同新聞の前身)の1940(昭和15)年10月10日付の記事です。

 「献穀粟豊に稔る」「大分市志手で」「厳かな抜穂式」と見出しがあります。

 新嘗祭に献上する粟が豊かに実って、その栽培場所である大分市の志手で、抜穂式(「ぬいぼしき」と読むようです)が行われた、と記事は伝えています。

 新嘗祭とはごく簡単に言えば五穀豊穣を感謝する宮中行事です。

 ウィキペディアをみると、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式、と書いてあります。

 誰でも献上できるわけではありませんので、献上穀の作り手に選ばれた人にとっては大変な名誉であり、同時に大いに気を遣うことだったでしょう。

 抜穂式では大分市長が祭主を務め、大分市議会議長や市助役らも出席した、と新聞にあります。粟を栽培し、献上する園田官造さんはさそがし晴れやかな気分だったでしょう。

 一連の行事を記録した写真帖(アルバム)が作られることになったのも当然と思えます。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は、園田官造さんの子孫の人から写真帖を見せていただきました。


 その中にあったのが上の写真です。抜穂式のときの写真ではないかと思います。水を湛えたため池、駄原堤の80年以上前の姿がそこにあります。

 新粟を献上した園田官造さんはこのブログではおなじみの人物です。

 志手でミカン栽培に先駆的に取り組んだり、所有地で石棺を見つけて三角縁神獣鏡を掘り出したりしています。

 園田官造さんの話は前回の「小字あれこれ その③ もう一つの目印」やミカンとりんご➁ 志手ミカンの始まりは」(2025年6月14日公開)などに書いています。

昭和40年代 錦鯉人気に乗ってひと儲け



 昭和15年の写真帖を見せてもらうきっかけになったのは石碑のようなものを見かけたことでした。

 斜面の木々を伐採した跡に防空壕跡のようなものが見えたので写真を撮りに行くと、その横にありました。

 それが粟の献上を記念した碑だったわけです(左の写真)。
 
 防空壕跡のようなものを見に行って、この石碑があることを偶然知ったことが昔の写真帖を見せてもらうことにつながりました。

 写真帖は地域の歴史を知るうえで貴重なもので、駄原堤について書く今回のブログでも写真帖のコピーを使わせていただきました。

 さて、駄原堤に関しては、このブログの筆者が知らなかった話がもう一つありました。それが錦鯉の養殖です。

 先に紹介した「村堤と水泳」をもう一度みてみましょう。

 志手老人クラブ共和会発行のふるさとだより15号(2004年3月)に掲載されたものです。

 「駄原堤では鯉を養殖していて、稲の取り入れが終わると関係者が水を全部放流し、泥まみれになって捕獲しているのを見るのも楽しかった思い出です」

 志手老人クラブ共和会発行のふるさとだより17号に「ふるさと年表(戦後60年・志手とその周辺)」があります。

 17号は2005(平成17)年5月に発行されています。

 この年表によると、駄原堤での錦鯉の養殖は昭和40年代後半に始まったそうです。老人クラブの会員が「無届け釣りの監視」をしていたそうですから、鯉を盗もうとする不届きな人間も少なくなかったのかもしれません。

 というのは当時は全国的な錦鯉ブームに沸いていたそうなのです。

 新潟県と一般社団法人全日本錦鯉振興会のホームページから関係資料をコピーしました。

 それによると、昭和40年代に錦鯉の一大ブームが訪れ、昭和43(1968)年12月に東京で「第1回全日本品評会」が開かれたそうです。

 そして、昭和45(1970)年1月に「全日本錦鯉振興会」が正式に設立されたとあります。

 志手の錦鯉養殖はこうした時流に乗ったものだったといえます。

 単純に面白いエピソードだなと、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は最初思いました。ただ、もう少し考えると、背に腹は代えられない、そんな事情も見えてくる感じがします。

蜜柑の銘産地志手 先行きに漂う暗雲


 志手の特産品といえばミカン(蜜柑)です。そして、この時期ミカンの先行きには暗雲が漂っていました。

 左の新聞記事は大分県立図書館で6年ほど前にコピーしたものです。発行年月日は1968(昭和43)年12月24日付です。

 記事の書き出しは「43年産ミカンの出荷は年末にピーク時を迎えたが、安値はいぜんとして続いている」とあります。

 ミカンの生産が全国的に急拡大し、昭和43年産は過去最高だった昭和41年産の生産量を32%上回る水準になり、ミカンの価格は暴落した、と記事は伝えています。

 ミカンはこの先どうなるのか。記事は悲観的な見通しを書いています。志手のミカン生産者も将来不安を抱いていたでしょう。


 志手のミカンについては
ミカンとりんご➁ 志手ミカンの始まりは」(2025年6月14日公開)などで書いています。

 ふるさとだより17号の「ふるさと年表(戦後60年・志手とその周辺」には、1974(昭和49)年4月に大分市で「ミカン危機突破大分県生産者大会」が開かれた、とあります。

 その後、国の政策によってミカンの生産調整(減反・廃園)、中晩柑類などへの作付け転換が行われることになり、志手でもミカンからポンカンに主軸を移すことになりました。

 先行きの不安を抱える中で、ため池の錦鯉養殖はブームに便乗といった軽い気持ちではなく、志手のミカン生産者の危機感が反映した真剣な事業、錦鯉でメシを食うぐらいの覚悟の挑戦だったのかもしれません。

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