11/29/2024

5回目の公式墓参 桜ケ丘聖地

独大佐 5回目の公式墓参

桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地) 



 11月21日の昼前、志手町内にトランペットの音が流れました。桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)で吹かれたものが風に乗って聞こえてきたようです。

 演奏された曲は「Ich hatte einen Kameraden」(私には1人の戦友がいた)。ウィキペデイアにはドイツの「葬送の軍歌」と書いてあります。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が、この曲を初めて聞いたのは4年前の2020(令和2)年11月でした。

 同年11月13日、大分市志手の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)で駐日ドイツ大使館主催の公式墓参が初めて行われました。

 その時にこの曲がトランペットで演奏されました。

 初めての公式墓参のことはこのブログの「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)に書いています。


 駐日ドイツ大使館付武官として来日したカーステン・キーゼヴェッター大佐が、2019(令和元年)12月、桜ケ丘聖地にあった曽祖父の弟(ユリウス・パウル・キーゼヴェッタ―
の墓を見つけたことが始まりでした。

 第一次世界大戦で日本軍の捕虜になって大分の収容所に送られ、そこで病死したドイツ兵が2人いました。ユリウス・キーゼヴェッタ―はその1人でした。2人は当時の陸軍墓地(現桜ケ丘聖地)に埋葬されました。

 こうした経緯は、先に紹介した「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)にもう少し詳しく書いてあります。


 キーゼヴェッター大佐は日本を離れ、昨年11月の公式墓参には後任の
ラルフ・ベルジケ空軍大佐が来県し、2人の墓前に花を手向けました。

 今年も11月21日にべジルケ大佐が桜ケ丘聖地を訪れて献花しました。今回で5回目の公式墓参となりました。

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戦争の犠牲者悼むドイツの「国民哀悼の日


 ところで、なぜ11月の公式墓参なのか。これについて「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)のほか、このブログの「『国民哀悼の日』と桜ケ丘聖地」(2023年11月29日公開)にも少し書いています。

 ドイツでは11月に「国民哀悼の日」があります。ちなみにウィキペディアには「ドイツにおいて戦没者ならびにナチ党の暴力支配の犠牲者を追悼する記念日」と書かれています。
 

 駐日ドイツ大使館でも「国民哀悼の日」に合わせて日本で慰霊・追悼行事を行っています。桜ケ丘聖地にある2人のドイツ兵の墓に参るのも一連の行事の一つとなります。

 過去の戦争について考えて平和の尊さを知る。「国民哀悼の日」にはそんな意味があるのだろうと思います。桜ケ丘聖地も戦争と平和について考える手掛かりを与えてくれる場所です。


 2人のドイツ兵の墓の周りにはシベリア出兵で戦死した旧陸軍大分連隊の下士官と兵士の墓が並んでいます。

シベリアの戦闘で全滅した大分の部隊


 シベリア出兵と大分連隊については、このブログ「大分『志手』散歩」の「志手界隈案内➃桜ケ丘聖地その2」(2021年10月5日公開)で書いています。

 その後も「桜ケ丘聖地その3」(2021年10月12日公開)「桜ケ丘聖地その4」(2021年10月16日公開)と書き、「その5」も書いていたのですが、迷路にはまり込んだような気分になって途中でやめてしまいました。

 ここではシベリア派兵と大分連隊について簡単に説明しておきます。

 1919(大正8)年2月から3月初めの戦闘で大分連隊は多くの死傷者を出しました。

 左は戦死者の氏名を掲載した当時の大分新聞です。

 社会主義革命による混乱の中にあったロシアに対し、日本政府が出兵を宣言したのは前年の1918(大正7)年8月初めでした。

 大分連隊が所属する陸軍第十二師団に「動員令」が出され、大分連隊がロシア極東のウラジオストクに上陸したのが同年9月初めでした。

 大分連隊が所属する陸軍第十二師団はウラジオストクやハバロフスクがある沿海州のほか、黒龍(アムール)州に駐留していたようです。
  

 このうち沿海州に駐留する部隊に対し、黒龍州の部隊の応援が命じられたのが1919(大正8)年2月のことでした。

 目的は日本が「過激派」と呼ぶ武装勢力・非正規軍(パルチザン)の掃討でした。沿海州に駐留していた大分連隊第三大隊は命令を受けてシベリアを西へ西へと進み、内陸深くまで達します。そして、黒龍州のユフタ付近で戦闘となり、部隊は壊滅しました。

 「シベリア出兵 革命と干渉 1917ー1922」(原暉之著 筑摩書房 1989年発行)に掲載された資料によると、1919(大正8)年2月25日から同27日までのユフタ付近の戦闘の死傷者は318人に上ったといいます。

多くの時間と人とカネを投じて得たものは


 日本軍はユフタ付近の戦闘前後にも多数の死傷者を出しています。

 2月17日のアンドレ―二フカ付近の戦闘で死傷者52人を出し、ユフタ後の3月2日から同6日までのポチカレヴォ、パブロフカ付近の戦いで死傷者136人を出しています。

 わずか2週間余りで甚大な損害を被っています。なぜか。このブログ「大分『志手』散歩」の筆者にも素人なりに疑問が浮かんできます。
 
 シベリアの「冬」に対する備えはどうだったのか、将兵の装備や訓練は十分だったのか、戦闘地域の地理にどの程度通じていたのか、戦う相手に関する情報はどの程度掴んでいたのか。いろいろ頭に浮かびます。

 そもそもシベリア出兵自体が確たる見通しと周到な準備で始められたものだったのでしょうか。

 「厖大な経費、貴重な人命を空しく費やして何一つ得るところがない、との批判は当時から広くいわれた」(原暉之著「シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922」)ようです。

 派遣軍の撤退は「大正9(1920)年春に於いてすべきものにして之を大正11(1922)年秋に延引したるは徒に人を労し金を費やしたに過ぎず」と批判した軍幹部もいた、と原暉之氏の著書にあります。

 5年間のシベリア出兵にかかる経費は公式統計では4億3,859万円だそうです。山口県公文書館の資料には「10億円の戦費を費やし、3000人の戦死者と2万人以上の負傷者を出すという大きな犠牲を払った」などと解説されていました。

 大きな犠牲を払ったのはロシア側も同じで、日本のシベリア出兵が双方の国民感情を悪化させ、相互に不信感を募らせていくことになりました。
  
 
 

 
 

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