7/31/2021

志手界隈案内➁ 志手天神社

  志手の地名の語源 「神田」説の出どころは?





 上の写真は2021(令和3)年7月24日の志手天神社です。撮影したのは午後4時ごろ。いつもの年なら、揃いのはっぴを着た子どもたちがそろそろ集まる時間でしょう。7月24日は志手天神社の祭りの日です。子ども神輿(みこし)が夕方、神社を発って町内を巡ります。しかし、今年は子ども神輿はありません。

 下の写真は2019(令和元)年7月24日です。新型コロナウイルスの感染拡大を避けるため、昨年、今年と2年続けて子ども神輿は中止を余儀なくされました。



 志手の氏神、志手天神社の創建はいつ頃でしょうか。結論を言えば、創建年月は不詳。分かりません。ただ、江戸時代の地誌「豊府聞書」に、慶長7年(1602)に志手村の村民が話し合って天満社の廟社を再建した、と記されています。

 豊府聞書は、戸倉貞則という人物がまとめた郷土誌(地誌)で、元禄11年(1698)に出版。大友氏が豊後国を治めることになった建久年間(1190-1199)から明暦年間(1655-1658)まで約500年の歴史が綴られているそうです。

 江戸の「神田明神」を引き合いに


 豊府聞書は郷土史の基礎資料として扱われ、その後に出版された書物に引用されています。例えば、天保年間(1830-1844)半ばに書かれたという「雉城雑誌」(きじょうざっし)にも「聞書曰(いわく)」などの文言が頻繁に現れます。


 雉城雑誌も郷土の歴史ガイドブックと言えるもので、この中で江戸の地誌「江戸砂子」の「神田明神」の項を引用して、「神田」を「志手」の地名の語源ではないか、と推測しているのです。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックしてください)

 雉城とは府内城の別称。雉城雑誌の編者は府内藩士の阿部淡斎という人で、寺社や名所旧跡の来歴をまとめて記載しています。志手村については「金龍山安養寺」「天満宮」「毘沙門社」の三つについて書いています。


 志手の天満宮の項では、江戸砂子の神田社の説明にある「往古は1カ国に2~3カ所は神田(御田)があって大神宮に初穂を供えていた」などの文章を引用。「志手(の地名)もかつては『神田』だったが、後になって(志手に)改めたのではないだろうか」と推測を加えています。

 地方でも読まれた江戸ガイド本


 下の写真は国立国会図書館デジタルコレクションにあった「江戸砂子温故名蹟誌」の「神田社」の項です。

 ウィキペディアを見ると、この本は江戸時代中期に著された江戸の地誌とあります。江戸のガイド本といったところでしょうか。江戸でベストセラーになっただけでなく、地方にも浸透し、読まれていたことが雉城雑誌の記述で分かります。

 


 さて、志手の地名の起源を「神田(しんでん)」に求める説に戻ると、雉城雑誌を読む限り、決定的な証拠はなく、どうも著者の思い付きのようです。


 江戸砂子の引用はまだあり、「大己貴命(おおなむちのみこと)<五條天神是也>は地主の神なれば、(神田がある)ところに多く、この神を祀るなり」という部分も紹介。そのうえで、神田だった志手の天満宮はもともとは、江戸の「神田明神」と同じく大己貴命を祀っていたのではないか、という推理を展開しています。

 神様が多いほど御利益がある?


 志手天神社の祭神は菅原道真公ですが、だから大己貴命を祀っていなかったとは言えないようです。神様について詳しくありませんが、神社によっては複数の神様が祀られている。そんな例が少なくはないように感じます。


 雉城雑誌に引用された神田明神はどうでしょう。神田明神のホームページを開いてみると、一之宮に大己貴命、二之宮に少彦名命(すくなひこなのみこと)、三之宮に平将門命(たいらのまさかどのみこと)が祀られていると説明があります。


 大己貴命は大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名を持ち、出雲大社の祭神でもあると書いてあります。大己貴命(大国主命)はだいこく様、縁結びの神様であり、少彦名命はえびす様、商売繁盛の神様、とホームページで説明されています。


 志手天神社にも道真公以外の神様がいてもよさそうです。天神社の境内の奥に五つ並んだ石塔・石造物があります。以前から何だろうかと気にはなっていました。ただ、そのうち、石に刻まれた文字が読めるのは右端と左端の二つの石造物だけ。真ん中の三つは文字が消えてしまってます。




 そこで、読める分だけ読んでみようと考えました。そして、刻まれた文字を正確に読むために、片栗粉を使って文字を浮かび上がらせてみました。




 すると、中央に「天照皇大神宮 当村」に続き「施」のような文字が読めました。文が途切れています。もっと縦長だったものが途中までしか残っていないようです。さらに右側には「天満天神宮」、左側には「五穀成就」と彫られています。

 天照皇大神宮とは祭神に天照大神を祀ったお宮ということでしょう。建立されたのは安永4年(1775)と刻まれていました。その年に志手天神社に天照大神を祀ったということなのでしょうか?

 門外漢なのでまったく分かりません。ただ、多くの神様を祀れるのなら、その方がご利益が多いはずと考え、そうしたとすれば、別に不思議なことではなく、至って人間的だと思うのですが、どうでしょう。




 
 
 

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