❝百歳❞迎える落羽松 徳島県
ラクウショウ(落羽松)について目ぼしい資料が見つからなかった時もそうです。
国立国会図書館(NDL)サーチのキーワード検索で「ラクウショウ」と入れてみました。
すると「ラクウショウ(落羽松)物語ー薮内當一先生の功績」(安田博武編)という本がありました(上の写真)。
2013(平成25)年12月の出版です。徳島県立図書館と香川大学図書館農学部分館に、この本があるようです。
本の内容はまったく分かりません。しかし、筆者の手元にはほかにこれといった資料もないし、何もないよりはましかと思って、この本を借りてみることにしました。
大分県立図書館を通じて徳島県立図書館から借りることができました。
薮内氏とは何者なのか。右の資料にあるように徳島県立農業学校(現徳島県立城西高校)にラクウショウ(落羽松)を植えた人物です。2000(平成12)年に95歳で亡くなったそうです。
右の資料によると、薮内氏は1926(大正15・昭和元)年4月に徳島農業学校に教諭として赴任し、翌1927(昭和2)年に2本のラクウショウを植えたそうです。
ただ「誰が」「いつ」ということがはっきりしたラクウショウがあることに、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が感心しただけです。
それで少し「ラクウショウ(落羽松)物語ー薮内當一先生の功績」(安田博武編)の中身を紹介してみようと思ったわけです。
以下は下の「続きを読む」をクリックして下さい
ラクウショウを植えた時のことを書いた文章がいくつかありました。
昭和の初めに横浜の植木会社から10種類ほど取り寄せて農業学校の苗圃に植えた。1袋50銭のなかにエンピツビャクシン、センペルセコイア、ユーカリなどがあった、とあります。
下の資料には、ラクウショウは昭和2年に米国から種子を輸入して育てたと書いてあります。
二つの資料は同じことを書いているのだと思います。いずれにしろ当時の若き薮内教諭は外国の樹木に興味を持ち、育ててみようと意欲的だったということでしょう。
しかし、薮内教諭が植えた外国産の樹々はその後ラクウショウを除いてなくなってしまったようです。
「増産を叫んだ戦時中に敵国の木を切ってしまえといわれるものだから、怒ってほとんど抜いて焼いてしまった」「大東亜戦争の末期、食料増産の犠牲となって伐り倒してしまった」と薮内氏は語っています。
このリストは1990(平成2)年に作成されたのだそうです。これにある「佐古1~5番町」の150本はその後大半が伐採されたといいます。その経緯も「ラクウショウ(落羽松)物語」に資料として入っていました。
近隣住民からは夏の毛虫、冬の落葉に対する苦情が多かったようです。
資料には徳島新聞の記事が添えられています。その記事によると、佐古地区のラクウショウは1953(昭和28)年の四国国体に合わせて植えられたそうです。
結局3本を残して伐られてしまったとのことですが、その3本は今はどうなっているのでしょう。
木を植えた頃とその後の状況が大きく変わることはあり得ることです。それによって大きく育った樹が伐り倒されてしまうことも致し方ないことかもしれません。
佐古地区のラクウショウも半世紀近くのうちに大きくなり過ぎて住民の生活に差し障りのある存在になってしまったということでしょう。
「ラクウショウ(落羽松)物語ー薮内當一先生の功績」(安田博武編)のおかげで、徳島のラクウショウの歴史を少し詳しく知ることができました。そして、この本によって、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は「記録を残すことの大切さ」を改めて実感しています。
0 件のコメント:
コメントを投稿