9/30/2024

メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議?

駄原総合運動公園の落羽松


 

「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。

 翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑地(三佐)、天神島公園(中島東)と平和市民公園にあります」

 駄原総合運動公園のラクウショウは誰が、いつ植えたものなのか。疑問に思って少し調べたことは、このブログ「メタセコイアとラクショウ①駄原総合運動公園」(2024年7月4日公開)で書きました。

資料なし 情報公開請求は空振り


 その時は結論が得られず、資料探しをもう少し続けることにしました。最初に思い付いたのは大分市に対して情報公開請求をすることでした。

 2019(令和元)年に開催されたラグビーワールドカップ日本大会に向けて駄原総合運動公園が大規模に改修されたことは、「メタセコイアとラクウショウ①駄原総合運動公園」(7月4日公開)で書きました。

 運動公園の改修計画が作られる中で、ラクウショウ(落羽松)の伐採でどんな議論があったのかを知りたい。そんな趣旨で公文書公開請求書を出したのは7月12日でした。

 伐採協議でラクウショウが植えられた経緯などに触れられていないか。それがあれば「誰がいつ植えたか」が分かるのではないか。そんなことを期待したのですが…。

 結果は「ラクウショウ(落羽松)等の伐採に関する協議記録はありません」ということで、7月25日に「公文書非公開決定通知書」を受け取ることになりました。

 決定書をもらう前に公園緑地課で改修計画に伴う伐採状況の説明を受け、改修前と改修後の航空写真ももらいました。

 その時の縁があって9月24日の電話になったのですが、今回の電話で少し事情が分かってきたような気がします。

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競技場を囲む樹々 落羽松の長い列



 公園緑地課でもらった2枚の航空写真を見ていて、筆者が以前に撮った写真を思い出しました。伐採された木の切り株が並んでいます(上の写真)。あれはラクウショウだったのかと思い至りました。

 写真の奥には伐採前のラクショウと思われる列が見えます。わずか7年前なのにというか、もう7年前だからというのか。いずれにせよ以前の風景をすっかり忘れていました。



 公園緑地課でもらった航空写真は上の2枚です。上が改修工事前、下が改修工事後です。

 改修前の写真では、競技場の下側(方角では西側になるでしょうか)に沿って樹々の長い列が見えます。赤枠で囲んだところが筆者が撮影した切り株が並んだところです。

 この写真で明らかなことはラクウショウは競技場の完成後に植えられたということでしょう。

 すると、誰が植えたかも明白です。改修前の風景を覚えていれば、前回の「メタセコイアとラクウショウ①駄原総合運動公園」で、あれこれと無駄な思案をする必要もなかったわけです。

 植えたのは大分市というのは間違いないでしょう。時期もだいたい見当がつきます。ただ、なぜラクウショウだったのかという疑問は残ります。

「駄原」「天神島」は昭和28年開園


 さて、駄原総合運動公園以外にラクショウがある公園を教えてもらって、それを見に行くことにしました。

 天神島児童公園は大分市中心部の住宅地にあります。

 児童公園のラクウショウは道路沿いにありました。駄原総合運動公園のラクウショウと比べると、少し細くて背が低いような気がします。

 植えた時期が「駄原」と「天神島」では違うのではないか。天神島は随分あとではないか。それが第一印象でした。

 天神島児童公園から平和市民公園に回ることにしました。大分川を渡って東へ。天神島児童公園がある中島地区からそう遠くはありません。


 ラクショウはすぐに見つかりました。平和市民公園の芝生広場にある野外ステージ(写真上)の背景にあるのがラクウショウでした。

 ラクウショウは見つかったのですが、駄原総合運動公園と天神島児童公園、平和市民公園は関連があるのでしょうか。

 念のために大分市のホームページにある都市公園一覧(五十音順)で開園時期をチェックしてみることにしました。

 天神島児童公園の開園時期は1953(昭和28)年3月30日でした。

 平和市民公園はワンパク広場、芝生広場、多目的広場、和風庭園などの整備が段階的に進められて1981(昭和56)年以降に順次開園しています。

 もう一カ所、ラクウショウが植えられている三佐の松原緑地は1968(昭和43)年2月29日開園でした。

 駄原総合運動公園の開園時期は1953(昭和28)年4月7日です。「駄原」と「天神島」は同じ年の開園でした。

 駄原総合運動公園の陸上競技場は1950(昭和25)年に、次いでラグビー場が1951(昭和26)年に完成しました。

 だから、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は公園開園時期が1950年か51年だろうと思っていました。

 1953(昭和28)年4月開園とは意外でした。

 スポーツ施設の整備後に植樹などが行われ、公園としての体裁を整えて1953(昭和28)年4月に開園したということでしょうか。

 同時期に開園した天神島公園にもラクウショウがあることから、植えた年が1952(昭和27)年頃と考えることはおかしくないように思えます。
 

全国会議誘致 「公園市長」の面目躍如


 もう少しはっきりと事実確認することができないか。例えば大分市の予算書があれば分かるのではないか、そう思ってちょっと前に大分市役所の財政課に電話しました。

 終戦直後の大分市の予算書があるか、あれば閲覧は可能か。財政課に問い合わせてみると、答えは「ありません」でした。そうした文書の保管期間は30年だそうです。

 なかなか確たる資料にはたどり着けません。ただ、1952(昭和27)年頃と見当をつけたことについては「いい線を行っているのではないか」と個人的には思っています。

 「誰が」「いつ」ラクウショウを植えたのか。おぼろげながらも分かってきました。残る「なぜ」ラクショウかという疑問も解決の糸口が見えた気がします。

 この頃の大分市長は上田保氏でした。上田市長は高崎山の野生ザルの餌付けをして大分市の観光の目玉にしたことで有名になります。

 「アイデア市長」として名を馳せた上田氏にはもう一つ異名がありました。それが「公園市長」です。

 このブログ「大分『志手』散歩」の「大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑤遊歩公園1」(2023年6月9日公開)で、「公園市長」のことを書きました。

 「米軍の空襲で焼け野原となった大分市中心部の復興計画に沿いながら、上田さんはユニークな公園を生み出しました。それが若竹公園、若草公園、ジャングル公園で、上野の墓地公園もそうです。(略)上田さんが造った代表的な公園にはもう一つ『遊歩公園』があります」


 
※遊歩公園は大分県庁横を南北に走る道路の中央分離帯になります。そこを広く取って数々の彫刻が置かれています。とても特色ある公園です(上の写真のイラスト参照)

 そして、当時としてはユニークな数々の公園を全国の関係者に披露する機会が訪れました。

 左の資料は1953(昭和28)年4月1日の大分市報です。

 市報によると、1873(明治6)年に公園が制定されて80年の節目を記念して、大分市で「公園制定80周年記念全国公園緑地会議」が開催されることになったそうです。
 
 筆者が注目したのは市報に掲載されている会議参加者のための「視察ルート」です。
 「遊歩公園」から「市営プール→火葬場→上野墓地公園→市営競技場→春日公園→ジャングル公園→若草公園→若竹公園」を巡って展覧会場に行く、とあります。

 視察対象は、戦災復興に取り組む大分市を象徴する新たな施設です。特に遊歩公園や上野墓地公園、ジャングル公園、若草公園、若竹公園は、当時の上田市長の自慢の場所といっていいでしょう。

 その視察ルートに駄原総合運動公園(市営競技場)が入っています。

 「駄原」も全国公園緑地会議に合わせて植樹が行われ、体裁が整えられただろうと思われます。


 その際、復興を象徴する樹木としてラクウショウが選ばれた、と考えることはできないでしょうか。

 空に向かって真っすぐに伸びるラクウショウは、焼け跡から立ち上がって新たな街を造ろうとする気概を代弁しているように見えます。

花と緑は復興と平和の象徴



 (※上の写真は駄原総合運動公園の桜。地元の要望を受けて伐採されずに残されました)

 ラクウショウに復興の意味を込めたというのは、このブログの筆者の想像です。筆者はその想像をさらに進めて上田市長は復興の象徴としてラクウショウではなく、本当はメタセコイアを植えたかったのではないかとも推理しています。

 「メタセコイアとラクウショウ➁大きくなり過ぎた木」(2024年8月30日公開)で書きましたが、
中国で発見されたメタセコイアは米国経由で1949(昭和24)年に日本に届きました。

 成長が速く、真直ぐに伸びるメタセコイアは日本の戦後復興のシンボルとして盛んに植樹された時期があるそうです。
 
 上田市長もメタセコイアを植えたかったが、入手が難しくて、代わりにラクウショウを植えたのではないか。もちろん、この仮説を裏付ける資料を筆者は何も持っていません。

 「木を植える」ことの意義は現在よりももっと大きかった時代でした。右は1951(昭和26)年3月の大分市報です

 3月は「緑化運動月間」ということで、大分県緑化推進委員会のポスター「植えて育てよわれらの郷土」が添えられています。

 緑化運動は「平和のシンボルである緑で山野や市街地を塗りつぶそうという運動」で、市報は「皆さん!戦災で植樹が減少した大分市に果樹や立木を植えて大分市を平和な緑で覆いましょう」と呼び掛けています。

 緑化運動月間は翌年に「緑の週間」(3月1~7日)に変わったようです。

 左は1952(昭和27)年2月の「大分市報」です。この市報で注目したのは緑の枠で囲った記事です。

 「講和記念の植樹運動」「苗木を無料配布」「一人一木記念の植樹」と見出しがあります。

 記事は、講和条約(※サンフランシスコ講和条約)の発効を前に、同条約を記念して大分市が3月3日に苗木を無償配布するという告知です。

配るのは松1,000本、ケヤキ300本、イチョウ500本、クス300本と書いてあります。

 ※サンフランシスコ講和条約とは、日本と連合国 48 か国の間で結ばれた、第二次世界大戦による 法的な戦争状態を終わらせるための平和条約で、1951年9月8日、条約が署名されました。
 
 サンフランシスコ講和条約署名から73年が経ちました。無償配布された記念樹は今何本くらい残っているのでしょうか。植樹した目的や意義、思いが後世に伝えられていなければ、大事に育てていこうという気持ちになりにくいかもしれません。


 緑があることが当たり前の時代に生きる人間にとって、敗戦直後の大分市の荒廃を想像するのは簡単ではありません。

 昔のことを理解する一助となる記録があること、資料があることは後の世代にとって重要なことです。ラクショウ植樹の経緯も、このブログの筆者にとっては大分の戦後を知る大切な資料に思えたのですが、確たるものを見つけ出すことができずに残念でした。

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