毘沙門堂で教え説く2人の僧侶
「天然浄祐」と「円信」その2
前回の「毘沙門堂今昔その3 『室町』に始まる浄土真宗との縁」(5月27日公開)は「天然浄祐」に焦点を当てました。天然浄祐について書いていくと話が長くなってしまったので、円信については別に書くことにしました。それが、この「『天然浄祐』と『円信』その2」です。
建設中の19階建てのマンションのところには大型家具店があったのではないかと記憶しています。
「真宗大谷派 四極山光西寺」。円信が開いた寺と言われています。「雉城雑誌」によると、円信は光西寺ができる前は毘沙門堂に住んで、浄土真宗の教えを説き、「毘沙門堂円信」と称したそうです。
※雉城雑誌は、江戸末の天保年間に「豊府聞書」「豊府雑誌」「豊後国志」などの資料を引用する形で作られた「郷土誌」。「府内(大分)ガイドブック」のようなものです。
雉城雑誌では、円信と光西寺、毘沙門堂について主に「豊府雑誌」を引用して「豊府聞書」「豊後国志」で補うような形で書いています。
円信は3人いる? 誰が本物⁉
さて、話が少し複雑になってくるのはこれからです。円信についての資料は光西寺にもあります。光西寺に伝わる円信の出生と豊府雑誌、豊府聞書が伝える円信は微妙に違っています。
「円信」と名乗る僧が複数いたのでしょうか。まずは、それぞれの資料が伝える円信の出生について見ていきたいと思います。
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この中に円信についての説明があります。光西寺には伝わる「年代記」によると、円信の父親は大友氏一族の高崎播磨守著景(あきかげ)で、円信はその三男です。
父親の著景(あきかげ)は永享年間(1429~1440年)に讒言(ざんげん)によって殺され、円信の母親は京都に逃れます。そして、当時身重だった母親から生まれたのが円信で、生年は永享11年(1439年)と「年代記」にあるそうです。
京都に上った母親は蓮如上人と出会って門徒となります。
雉城雑誌が引用した「豊府雑誌」は少し違います。
円信の父親は古城播磨守著景で、著景は永享年間(1429~1440年)に肥後熊本の菊池氏の一党との戦いで討ち死にしたとあります。円信の幼名は千鶴丸だそうです。
母親は世の中の無情転変、はかなさを感じ、仏門を志して京都に上り、本願寺の蓮如上人に会って母子ともに弟子となり、円信の名を賜ったと経過が説明されています。
では「豊府聞書」はどうか。父親は古城播磨守著景です。著景は文明2年(1470年)7月、近臣の讒言(ざんげん)に惑わされた大友親繁(ちかしげ 第15代大友家当主、右の写真)によって自害に追い込まれたといいます。
懐妊中だった著景(あきかげ)の妻は親族を頼って河内国茨田(まった)郡に行き、男児を産んだそうです。
ちなみに茨田は現在の大阪市鶴見区の一部などとなっているようです。
豊府聞書でも男児の幼名は千鶴丸で、蓮如上人の弟子となって円信と名を改めたということです。
共通するのは「蓮如上人との出会い」
光西寺に伝わる「年代記」と「豊府雑誌」「豊府聞書」では円信の両親や生い立ちに関する話は微妙に違います。父親の名前や死因などです。
しかし、決定的な違いは父親の死亡時期です。光西寺の年代記と豊府雑誌は永享年間(1429~1440年)としているのに対し、豊府聞書は文明2年(1470年)と記しています。この間には30年以上の開きがあります。
そこで、カギとなるのが「蓮如上人との出会い」です。円信が蓮如上人の弟子となることは年代記、豊府雑誌、豊府聞書でも共通しています。
大分県立図書館に行って借りてきたのが左の本です。「蓮如 乱世の民衆とともに歩んだ宗教者 日本史リフレット人041」(神田千里著、山川出版社発行)。2012(平成24)年に発行されています。
この本を基に蓮如と円信の接点について考えてみたいと思います。
神田千里氏の本によると、蓮如は1415年(応永22年)に本願寺住持の存如(ぞんにょ)の子として生まれ、1499年(明応8)年に山科本願寺で死去しています。
80歳を超える長寿で当然、永享年間(1429~1440年)の円信とも、文明年間(1469~1487年)の円信とも出会うことができます。
光西寺の年代記にあるように円信が1439年(永享11年)の生まれだとすると、円信母子が会った蓮如は20代後半に入ったばかりの青年僧だったことになります。
一方、1470年(文明2年)に父を失った円信が会った蓮如の年齢は50代半ばで、一般的には老僧と呼ばれる年代だったということになります。
どちらの円信も蓮如に会うことは可能でした。
蓮如と円信はどこで会ったのか
では、蓮如と円信はどこで会ったのでしょうか。
蓮如は1431年(永享3年)に青蓮院(しょうれんいん)で得度したそうです。お坊さんになったということですね。
神田氏によると、本願寺は青蓮院の「候人(こうにん)」(近侍の者)となっており、本願寺の代々の住持は青蓮院で得度したそうです。
ちなみに本願寺とは、浄土真宗の開祖親鸞の曽孫(ひ孫)覚如が、京都市東山区にある親鸞の墓所に開いたもので、親鸞の子孫が歴代住持を務めていたところでした。
ただ、蓮如は父存如の正妻の子ではなく、しかも蓮如を産んだ母親は蓮如が6歳の時に本願寺を出奔したのだそうです。それで蓮如は不遇な青年時代を送ったとの見方もあるようですが、「蓮如」の著者神田氏は違う見方をしています。
実際は存如に見込まれて後継者として育てられたと考えられると、神田氏は書いています。
現実に蓮如は父存如から住持を引き継ぎます。1457年(長禄元年)のことですが、この時ひと悶着あったといいます。存如の正妻如円の子「応玄」を後継者にという動きが出て、蓮如は追い詰められますが、何とか切り抜けて住持の座に就いたということだそうです
さて、豊府聞書にある文明2、3年(西暦1470,71年)頃に生まれた円信はどこで蓮如に会ったのか。これは簡単には答えられません。
本願寺派の勢力伸長が生んだ軋轢
蓮如の頃の本願寺は今とは大きく異なっていたのだそうです。開祖親鸞の子孫の寺といっても、その影響力は極めて限られていたようです。浄土真宗の中では高田派、仏光寺派などと呼ばれる人々の力が強く、本願寺派は弱小な勢力にすぎなかったというわけです。
そこで蓮如は本願寺派の勢力を伸ばそうとするわけですが、その動きは当然、周囲との摩擦を生みます。
神田千里氏の「蓮如」によると、近江国(滋賀県)で熱心に門徒獲得を進めた結果、近江に大きな勢力を持つ比叡山延暦寺との緊張が高まり、それが抗争に発展しました。
1465年(寛正6年)正月、京都・東山の本願寺は山門(延暦寺)衆徒の攻撃を受けたといいます。さらに3月にも攻撃を受け、蓮如は京都を逃れたそうです。
1467年(応仁元年)に青蓮院の仲介で和議が行われ、和睦が成立。京都を出た蓮如は近江の大津にいたようです。その後蓮如は1471年(文明3年)4月、越前国(福井県)の吉崎に向かい、ここを拠点に布教活動を進めます。
当時の詳しい経過は省略して先を急ぎますが、蓮如は1475年(文明7年)8月に吉崎を去り、河内国(大阪府)出口に行きます。右の写真は国立公文書館デジタルアーカイブにあった河内国の地図です。
蓮如が移った出口は河内国の茨田(まった)郡にあります。現在の大阪府枚方市出口だそうです。茨田といえば思い出します。
豊府聞書に出てきた円信母子です。1470年(文明2年)に父親が自害し、円信を身ごもっていた母は河内国茨田に移り住みます。
蓮如は河内国の出口に1475年(文明7年)から住み始め、1478年(文明10年)正月に出口から、山城国(京都府)の山科郷内の野村に移ったのだそうです。この間に茨田郡にいた円信母子が蓮如と会った可能性は十分にありそうです。
文明生まれの円信では若すぎる⁉
文明年間(1469~1487年)に毘沙門堂で説法をしたという円信。その教えは当然、師である蓮如の考えに基づく真宗の教えだったと思われます。
ときには蓮如の言葉をそのまま語ったかもしれません。すると文明2年(1470年)頃に生まれた円信では若すぎるという感じがします。文明年間の終わりでもせいぜい16、17歳だった円信に蓮如の名代が務まったでしょうか。
とはいえ、永享11年(1439年)生まれの円信にも一つ気になることが残っています。天然浄祐との関係です。
天然が開いた専想寺の記録によると、浄土宗の僧侶だった天然は文明14年(1482年)に京都に上り、蓮如上人に法論を挑んだが、上人の法徳に服し、浄土真宗に帰して門下となり、浄祐の名を賜ったとあります。
一方、円信は天然浄祐より3歳年上となりますから45歳くらいです。小さい頃に弟子となった「生え抜き」の円信と、わずか2年ほどの弟子である「外様組」の天然浄祐では、蓮如率いる本願寺派の中で当然、二人の立場、地位に大きな差があったと考えられます。
なのになぜ、年長の円信を差し置いて、天然浄祐に九州伝道の命が下ったのでしょうか。とりあえずの先遣隊として天然浄祐を九州に向かわせ、いわゆる「トリ」として円信が登場する筋書きだったのでしょうか。
数少ない資料を基に考えていくと、迷路に入り込んでしまいます。
今回も結論らしい結論を得られぬままに、長々と原稿を書く羽目に陥ってしまいました。
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