5/27/2024

毘沙門堂今昔その3 「室町」に始まる浄土真宗との縁

毘沙門堂で教え説く2人の僧侶

親鸞没後200年 広がる浄土真宗


 志手の毘沙門堂に安置されている毘沙門天像はいつ頃つくられたものなのか。

 「志手歴史再発見クラブ橘会」(園田友三会長、略称「志手橘会」)が、大分市歴史資料館の植木和美館長の力を借りて、調べてみようとしたことは、このブログの「毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動」(2月22日公開)で紹介しました。

 毘沙門天像(左の写真)に残された制作年月日と見られる日付は「○○四年五月廿四日」。肝心の年号の部分が消えたようになっています。

 この薄くなった部分を読み取ってみようとしたのですが、結論をいえば判別できず、年号は分かりませんでした。

 毘沙門天像から毘沙門堂の始まりを探る試みはうまくいきませんでしたが、毘沙門堂の歴史をさかのぼるための手掛かりはまだあります。

文明年間の2人の僧 「天然」と「円信」

 
 それが文明年間(1469~1487年)の2人の僧侶です。「天然(浄祐)」と「円信」。この2人の僧が毘沙門堂で説法したとの言い伝えがあります。
 
 天然浄祐と円信は大分に浄土真宗をもたらし、広めた人物だそうです。

 「大分『志手』散歩」」の筆者にとって、これは予想外のことでした。

 浄土真宗の開祖といえば「親鸞」(1173年~1262年)であり、浄土真宗は、浄土宗や日蓮宗、時宗、臨済宗や曹洞宗とともに、鎌倉時代に生まれた宗派であることは知っています。

 だから、鎌倉時代のうちに大分にも浄土真宗が広まっていたのではないかと漠然と考えていました。実際は親鸞上人没後200年を経た室町時代後半に大分で浄土真宗が浸透していったということになります。

 このブログの筆者にとっては意外な事実の発見でした。

 志手の毘沙門堂を調べていてまた一つ勉強になりました。

(この先は下の「続きを読む」をクリックして下さい)


 さて、上の年表は志手歴史再発見クラブ橘会が作成したものです。それによると、円信が毘沙門堂で説法をした年は特定されていませんが、天然は文明8年とはっきりしています。それはなぜでしょう。 
 

 答えは簡単。資料があるからです。資料とは志手の町内会に伝わる巻物の
「毘沙門天尊像之縁記」です。上の写真はその書き出しです。志手の毘沙門堂にまつられた毘沙門天像についての物語が書かれています。

天然法師 夢の中に毘沙門天が現る


 その中に天然法師が登場します。

 文明8年(1476年)に豊後国入りした天然法師がある夜、毘沙門堂を訪れ、そこで三部経典を読んだ。すると、夢の中に毘沙門天が現れ、天然法師がここで人々に法を説き、仏道に導けば、それが毘沙門天の長年の願いをかなえるものだと告げた。

 縁記には以上のような話があります。

 「でもね、志手に伝わる縁記は信用できるの」。そんな声が聞こえてきそうです。この縁記はいつごろ、どんな経過で作られたのか。それを説明することで、その疑問にこたえたいと思います。

 縁記が作られた経緯については、縁記の中に書かれています。

 まずは毘沙門天像の由来を聞こうと、志手村の村正(村長)園田吉右衛門を筆頭に住民の代表が「龍華山専想寺」の住職を訪ねます。

 当時の住職が寺の記録を基に話をすると志手村の面々は感激し、今の話を書きものにしてほしいと住職に懇請した。その願いを聞き入れて書いたのが、この縁記ということです。

 それが江戸時代の安政2年(1855年)ことだと縁記にあります。

 天然が毘沙門堂を訪れたという文明8年から400年近く経っていますが、古い記録を基にした話というから根拠のない話でもなさそうです。

 ところで、志手村の人々が話を聞きに行った「専想寺」と「天然」とはどんな関係があるのでしょう。

 

 結論を先に言ってしまえば、専想寺は天然法師が開いた寺ということになります(上の写真は臼杵石仏)。

 大分県立図書館に「龍華山専想寺 本堂落慶記念」という冊子があります。1981(昭和56)年刊行のこの冊子に専想寺の歴史が書かれています。

 それによると、寛正元年(1460年)に長門長府の禅刹功山寺に入り、夢遊禅師について出家した天然は、文明元年(1469年)28歳の時に上京。京都の黒谷金戒光明寺に入り、浄土宗の鎮西義を学びます。

 (注)鎮西義は①法然の門下の中の「聖光」による門流。特に現在の浄土宗のこと。筑紫義ともいう。➁聖光(しょうこう)。応保2年(1162年)~嘉禎4年(1238年)。鎮西上人、筑紫上人、善導寺上人とも呼ばれる(「Web版新纂浄土宗大辞典」より)

天然師 毘沙門堂の説法は浄土宗の教え 


 そして、文明6年(1474年)に豊前国に下り、さらに文明8年(1476年)に豊後国に入り、あちこちで教化した。その間に高田郷森町(現大分市森町)に開いたのが「専想寺」でした。

 「古くは伝教大師最澄の開創であるが、寺基が衰微していたのを再興したものという」と、冊子「龍華山専想寺」は解説しています。
 

 豊後国の各地で布教活動をしていたというのですから、毘沙門堂に立ち寄ったということも当然あり得ます。

(上の写真は現在の志手の毘沙門堂内です)

 「専想寺」は「天然」が開いた寺だから、そこに残る記録は正しいのではないかと考えられます。

 ただ、当時の住職がわざわざ志手村から来たのだからと話を少し脚色した可能性もなくはないでしょう。

 志手村から専想寺がある森町までは10キロ以上離れており、普段に行き来するような寺とは思えません。

 志手に残る「毘沙門天尊像之縁記」には、「毘沙門天像は専想寺のものなり」との言い伝えが長く志手にあったと書かれています。それで毘沙門天像の由来を知りたくなった志手の人々が専想寺を訪ねた、と経過が説明されています。
 
 ここで注意しなければならないのは、文明8年当時の天然は浄土宗の僧侶だったことです。つまり、毘沙門堂で説いたのは浄土宗の教えだったということになります。

再び上洛 蓮如上人と出会い浄土真宗に


 冊子「龍華山専想寺」によると、天然は文明14年(1482年)2月、再び京都に上り、当時山科本願寺にあって盛んに教化を施していた蓮如上人の芳名を聞き、法論を企てた。最終的に蓮如上人の法徳に服し、浄土真宗に帰して門下となり、法名「浄祐」と賜ったということです。

 浄祐(天然)は文明16年(1484年)に蓮如上人から西国九州伝道の命を受けて、現大分市森町の專想寺に戻ります。そして、ここを根本道場として広く浄土真宗の弘通に努めた、ということだそうです。

 天然浄祐と志手の毘沙門堂について書くだけで随分と長くなってしまいました。もう一人毘沙門堂で説法したという「円信」についてはあらためて書こうと思います。

 
 

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