ふるさとだよりで知る志手のトリビア③
古老が語った 柞原八幡宮との縁
前回の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁」の最後に、志手の地名の由来に関連して「片手の武士」説を紹介しました。
このブログ「大分『志手』散歩」の3回目の「志手界隈案内➁天神社」と、5回目の「志手地名あれこれ①大昔、志手は海辺だった」でも、「志手」の語源について書いています。
今回は「志手」の由来について書く4回目となります。
それは園田逸雄さんが志手の古老から聞いたという「柞原八幡宮」と「志手」とのかかわりです。1998(平成10)年10月発行の「ふるさとだより第3号」にありました。
ちなみに上の写真は私が2021(令和3)年10月に柞原八幡宮にお参りしたときに撮影したものです。
さて、ふるさとだよりにある志手の由来は簡単なものです(左の資料)。園田逸雄さんは「ふるさとだより」の第1号から「セピア色の思い出」と題して、子どもの頃に見たり、聞いたり、体験したりしたことを連載しています。
連載を始めた頃、逸雄さんは75歳ぐらいだったようです。
連載3回目は「幼き日に聞いた古老の噺」です。
志手の地名の由来について以下の話を聞いたそうです。
「遠い昔のことぢゃ、この里は柞原さまの荘園ぢやったそうな、が、その日暮らしの貧しいこの里の人々、節季毎の上納の穀物に難渋して、話合いのうえ、労役による代納を申し出る。つまり『手』にての上納を『志』した。それからのこっちゃ志手の地名は」
調べる手掛かりは「柞原八幡宮の荘園」です。
柞原八幡宮に案内板があり、その歴史について書いてありました。案内板には、柞原八幡宮は天長4年(827)に延暦寺の僧金亀和尚が、宇佐八幡宮で千日間の修行を始め、同7年(830)に神告を得たことが契機となって八幡神が勧請されたことに起源すると伝えられている、と書かれていました。
案内板にはさらに「その後、天皇の命で承和3年(836)に社殿が造営され、平安時代末期には豊後国一宮となりました」などとあります。
古いお宮であることは分かります。しかし、それ以上の知識は私にはありません。「志手」の地名と関係があるなどとは思ってもみませんでした。
園田逸雄さんが聞いた「古老の話」をきっかけとして柞原宮について少し勉強した方がいいのかもしれません。また一つ宿題が増えました。
0 件のコメント:
コメントを投稿