5/30/2025

志手天神社の御神木

御神木の伐採 志手天神社



 上の写真は5月3日と5月
 25日の志手天神社です。

 3日の写真にはあったものが、25日の写真ではなくなっています。

 それは鳥居の上に見える樹です。この樹は5月10日に地元の住民グループ「志豊会」によって伐採されました。



 伐採された樹は地元では「御神木」とされていました。モチノキで樹齢は300年と聞きました。ただ、随分と弱ってきていたようです。

 上の写真のように根元のところは空洞になっています。このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が初めてこの「御神木」を見た頃も既にこうした空洞ができていました。


 枯れかけている樹をこのまましておいては危なかろうとのことで伐採することになったようです。

 しかし、神社の境内にある「御神木」を伐ると言ってもすぐにというわけにはいきません。

 大きな木ですからのこぎりで伐っていくのは無理です。チェーンソーは必須です。安全のために少しずつ伐っていきますので高所作業車が要ります。伐った部分を持ち上げて運ぶためのクレーンも必要でしょう。作業前にいろんな準備があります。

 さらに肝心なことは「御神木」の伐採にあたっては神社本庁の許可を得ないといけないようです。


 このブログの筆者はどのように準備が進められたか詳しくは知りませんが、実際の作業よりも準備の方が大変だったかもしれません。

 5月10日はつつがなく作業が進み、志手天神社の「御神木」は3時間ほどで伐採されてしまいました。

 ところで、モチノキをインターネットで検索すると、ウィキペディアに御神木として熊野系の神社の中にはナギの代用木として植えている場合がある」と書いてありました。

 誰がいつ、どんな目的でここにモチノキを植えたのか。資料は何も残っていないようです。

 伐採の記録はこのブログの筆者が残すことになったのですが、このデータも散逸してしまえばどうなるのでしょう。モチノキの「御神木」があったことも何もかも全てなかったことになるのでしょうか。

 世の中の多くのことは、こうして時の流れの中に埋もれていくことになるのでしょう。そんなことをあらためて思いました。

5/22/2025

余話 戦後80年 占領軍と野球

 建設特需に沸いた別府

ブルドーザーとモッコ


 随分昔にいただいた本を久しぶりに本棚から取り出してみました。それが左の写真の本です。

 題名は「球は転々宇宙間」。著者は赤瀬川隼氏。文藝春秋社から1982(昭和57)年7月25日に発行されています。

 43年前にもらった本でした。パラパラとページをめくっていると「火の玉投手荒巻」の話が出てきました

 大分県別府市に「星野組」という土木建設会社があって、荒巻はその野球チームの主力投手でした。

 荒巻について紹介した「球は転々宇宙間」の記述を以下に引用します。

 荒巻淳、快速球を武器にしたサウスポー、大分商業から大分経済専門学校を経てノンプロの別府星野組に入り、1949(昭和24)年に都市対抗野球で優勝。翌年、プロ野球の2リーグ分裂とともに新生球団毎日オリオンズ入り、26勝8敗で新人王。その年のリーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献。その後も長く活躍を続けた。

 この本を読んだ時、すごいピッチャーがいたもんだと思いながら、なぜ地方の小さな都市にある会社が全国制覇するような強豪チームを持てたのだろう、と疑問が頭を浮かんだことを覚えています。

 ただ、この本は「プロ野球の近未来小説」であり、過去の荒巻と星野組の話は物語を彩るエピソードの一つにすぎません。浮かんだ疑問はそのままにして本を読み進め、そのうち忘れてしまいました。


 当時は分からなかったことが、このブログ「大分『志手』散歩」を書き始めて少し分かってきました。

 敗戦直後のモノもカネもない時代に別府は建設特需に沸くことになります。

 戦勝国として大分に乗り込んできた米軍(占領軍)が別府に大規模なキャンプ(宿営地)を設けることになったのです。

 司令部や兵舎、宿舎などが突貫工事でつくられることになり、別府の街にヒト、モノ、カネが集まってきます。

 この特需によってキャンプ建設にかかわった建設業者は大いに潤います。

 右の写真の本「ドキュメント戦後史 別府と占領軍」(佐賀忠男著)にその辺のことが書いてあります。

 例えば「兵舎工事費5億円、宿舎建設費1億5,000万円という大工事だけに、土建業者はまさに『己が春』を謳歌し、『土建貴族』の名さえ起った」といいます。

 ちなみにこの本は大分県立図書館で借りました。編集・発行は「『別府と占領軍』編集委員会」とあり、1981(昭和56)年8月に出版されています。

 さて、ここで43年前に抱いた疑問に戻ります。なぜ、終戦直後の別府で野球の強豪チームが誕生したのか。

 いろいろな要素が考えられる中で、その一つがこの建設特需によるカネだったのだろう、とこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者は考えます。

 特需の恩恵を受けた業者の懐にはカネがたんまりあり、野球チームにも気前よくカネを出したのではないか。そんなことを想像しました。

 さて、進駐軍のキャンプ(宿営地)建設は1946(昭和21)年の7月に始まり、夜も昼もない工事によって同じ年の12月に終了します。

 米軍は1956(昭和31)年中に別府からの撤収を進め、翌57(昭和32)年にはキャンプも閉じられたようです。別府と米軍との付き合いは10年以上に及びました。


 この間の別府について「ドキュメント戦後史 別府と占領軍」に序文を寄せた当時別府市在住の作家小郷穆子(おごう・しずこ 故人)さんは次のように書いています。

 「別府にキャンプが設営され、3千の米兵が常駐するようになると、基地化した別府の町は、異様な熱気の中に包まれた」

「キャンプ設営にからむ土建ブーム。闊歩する米兵にすがって生きる女と、米兵慰安作戦に狂奔する人々が作り上げた桃色特需ブーム」

 「その中で犯罪は多発し、庶民の飢餓は戦争中と少しも変わらなかったのだ」

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4/24/2025

お大師さまとお接待 志手天神社

「安永4年」の石造物が

志手天神社と毘沙門堂に



 タイトルの「お大師さまとお接待」にあるお接待は、「平成」の半ば頃までは志手で行われていた行事のことです。

 左の資料は志手老人クラブ共和会が1999(平成11)年4月に発行した「ふるさとだより5号」に掲載されたものです。

 このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その1」(2025年1月27日公開)でも、この資料を紹介しています。

 お大師さまとは弘法大師のことです。上の資料によると、志手では「お大師様保存会」があり、弘法大師の命日にちなんで毎年4月21日と9月21日に子どもたちに菓子を配る「おせったい」をしてきたそうです。

 「お大師さまとお接待 その1」では、いまはない志手のお接待について書いています。

 志手でお接待が始まったのはいつの頃なのか。このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その2」(2025年3月11日公開)で、それを突き止めようとしました。

 しかし、確かな材料に乏しく話は迷走気味になりました。毘沙門堂の境内に江戸時代につくられた石造物がありましたが、それは弘法大師とは関係がなさそうなものでした。

 弘法大師ゆかりの石造物は別の場所にありました。「お大師さまとお接待 その3」(2025年3月25日公開)で紹介したのが右の写真の石塔です。こちらも江戸時代につくられたようです。

 江戸時代の仏教事情はどうなっていたのか。毘沙門堂などにあった石造物に刺激されて少し調べてみようと思いました。

 そして、にわか知識で書いたのが「お大師さまとお接待 その4」(2025年4月2日公開)でした。

 それを書きながら思い出したことがありました。このブログを始めた頃に書いた「志手界隈案内➁志手天神社」(2021年7月21日公開)のことです。その中で確か天神社にあった石造物について触れています。

 
 「志手界隈案内➁志手天神社」を読み返してみると、写真とともに天神社にある石造物を紹介していました。

 そして、その石造物の建立年として刻まれていたのが「安永四年」でした。安永四年の石造物は毘沙門堂にもありました。

 「安永四年」(西暦1775年)に何か意味があるのか。それとも偶々同じ年に二つの石造物がつくられただけなのか。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者の乏しい知識では答えは出そうにもありません。

 と、結論めいたことだけ書いただけでは何となく芸がない気がします。

 そこで「志手界隈案内➁志手天神社」の文章を引用しつながら、天神社にある石造物についてもう少し見ていきたいと思います。

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4/06/2025

「大分『志手』散歩」の手引き➁ 「過去」を学ぶ

 消えゆくものを記録に留めて

「大分『志手』散歩」手引き➁



 「
このブログには目次がないので、どんなことがどんな順序で書かれているのか、たまたま読んでみようと思われた方には分かりにくいと思います。そこで「大分『志手』散歩」の「手引き①」と題して、これまでブログの内容を1回整理してみようと考えました」

 以上のような書き出しで「大分『志手』散歩の手引き① 何が書いてある?」を公開したのが2024(令和6)年4月26日でした。

 手引き①を公開して1年がたちました。あらためてこのブログ「大分『志手』散歩」について簡単な説明をしておきたいと思います。

 最初の投稿「志手はどこにある」が2021(令和3)年7月17日公開でしたから、このブログ「大分『志手』散歩」もまもなく4年になります。

 途中ほぼ1年間の中断をはさみましたが、何とかここまで続けて来られて投稿数は80本を超えました。

 題材は基本的に「志手」にあるもの、関連するものですが、例外的に「志手」以外を取り上げたものもあります。

 昨年4月26日に公開した「大分『志手』散歩の手引き①」では「志手」を題材にした投稿リストをまとめて紹介しています。

 今回は志手以外を題材にした投稿を簡単に紹介しようと思います。

 2023(令和5)年3月から6月にかけて「大分まち歩き」シリーズとして書いたものがあります。

 一つは「住居表示番外編」で、もう一つは「アイデア市長の遺産」です。

 住居表示番外編では「中央町」「府内町」「都町」を取り上げています。

 この三つの町名は、1962(昭和37)年にできた「住居表示に関する法律」によって新たにできた町名でした。中央町などが誕生したのは翌63(昭和38)年6月1日。「中央町」「都町」「府内町」は昨年60年の還暦を迎えました。

 では、中央町や都町、府内町はその前は何と呼ばれていたのか。60年の節目に各町の昔を少し調べてみようと思って書いています。

 もう一つの「アイデア市長の遺産」のアイデア市長とは上田保氏(故人)です。

 上田さんの功績として知られる一つは高崎山の野生ザルの餌付けでしょう。

 サルを観光資源にしようと上田さんは苦心して「猿寄せ」に成功。高崎山のサルは大分市を代表する観光地になりました。

 上田さんは1947(昭和22)年4月から1963(昭和38)年3月まで4期16年間にわたり大分市長を務め、「アイデア市長」「公園市長」などと呼ばれました。1980(昭和55)年に86歳で亡くなっています。

 【住居表示番外編】 
 中央町「中央町に残る竹町」(2023年3月14日公開)
 都町Ⅰ「都町、栄町、そして」(2023年3月16日公開)
 都町Ⅱ「鉄と石油と夜の街」(2023年3月23日公開)
 都町Ⅲ「アイデア市長とジャングル公園」(2023年4月3日公開)
 府内町「目立つ空き店舗の貼り紙」(2023年4月12日公開)

 【アイデア市長の遺産】
 高崎山①「細る客足」(2023年4月24日公開)
 高崎山➁「猿口抑制」(2023年5月5日公開)
 高崎山③「存廃論議」(2023年5月14日公開)
 高崎山番外編「田ノ浦ビーチ」(2023年5月21日)
 遊歩公園Ⅰ「『大分の歴史』語る彫刻」(2023年6月9日公開)
 遊歩公園Ⅱ「公園改造構想」(2023年6月17日公開)

 このブログ「大分『志手』散歩」は、ちょっと格好をつけて言えば「消えてゆく記憶や記録を一時的にせよ留めておく作業」の積み重ねといっていいのかもしれません。

 このほかの「志手」関連の投稿は「大分『志手』散歩の手引き①」を見ていただいてもいいのですが、以下にこれまでの投稿リストを記しておこうと思います。よろしければご参照ください。

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4/02/2025

お大師さまとお接待 その4

寺社巡りを楽しんだ庶民

江戸時代の仏教と旅事情





西國三拾三所當来救世観世音菩薩」(寛保三年・西暦1743年
➁「光明真言塔」(宝暦九年・西暦1759年)
③「奉順禮西國三十三所供養塔」(安永四年・西暦1775年)

 右の写真は志手の毘沙門堂です。左の写真の石造物は志手に昔から住む「園田」※さんたちの墓地にあります。

  ※志手の園田さんについてはこのブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん―そのルーツは?」(2023年1月3日公開)で紹介しています。

 ①から③の番号は年代の古い順です。偶然でしょうか、三つの石造物は16年間隔でつくられています。

 毘沙門堂の①と③は、このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その2」(2025年3月11日公開)で紹介しました。

 左の写真の「光明真言塔」については「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その3」(2025年3月25日公開)で紹介しています。

 この3基の石造物に関連はあるのか。「点」と「点」を結ぶ「線」が見えてくるか。あまり期待はできませんが、確認してみたいと思います。

 関連を調べるただ一つの手がかりは名前です。①に刻まれた名前と➁にある名前に「同名」があれば関連性が考えられます。

 毘沙門堂の①の「西國三十三所當来救世観世音菩薩」の台座(左の写真)には18人の名前が彫ってあります。

 この中に➁の「光明真言塔」の施主として刻まれた「次右衛門」と「十右衛門」の名前があるでしょうか。

 ざっと見たところ、「次右衛門」と「十右衛門」の2人の名前はありませんでした。

 西暦1743年と1759年で16年の隔たりがあります。その間に志手村の有力者が入れ替わった、世代交代したということもあるかもしれません。

 あるいは次右衛門と十右衛門は志手村の住人ではなく、近隣の村の人間で、その人たちがつくったものが、何かの偶然で志手の園田さんたちの墓地に持ってこられた。そうも考えられるかもしれません。

 手持ちの材料ではこれ以上のことは推測できません。
 

寺社巡りを楽しんだ江戸の庶民


 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は考えました。「江戸時代の仏教事情について何も知らないでは話にならない」「とりあえず基礎知識を学べる本でもないか」。そう思って大分県立図書館に行ってみました。

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3/25/2025

お大師さまとお接待 その3

意外な場所にあった

弘法大師信仰の物証


 弘法大師の命日に志手の毘沙門堂を参った人に食べ物をふるまう「「お接待」という行事が行われていた。

 そんな話を、このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その1」(2025年1月27日公開)で紹介しました。

 「お大師さまとお接待 その2」(2025年3月11日公開)では、志手で行われていた「お接待」の始まりについて調べようとしました。


 「お大師さまとお接待」シリーズの3回目となる今回は志手に残る弘法大師ゆかりのものを探してみることにしました。

 長く「お接待」が行われていたという毘沙門堂には、弘法大師にかかわりがあると思えるものはありませんでした。

 ただ、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者には一つ心当たりがありました。そこは大分市街地が見渡せる眺めの良い墓地です。
 


 ここに古い墓石のようなものがあります(上の写真の右端)。


 その正面には梵字(サンスクリット語)が彫ってあり、「光明真言塔」の文字が刻まれていました。

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3/11/2025

お大師さまとお接待 その2

お接待 始まりは江戸後期

毘沙門堂に残る手掛かりは



 志手の毘沙門堂で弘法大師の命日にちなんだ「お接待」という行事が行われていた。このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その1」(2025年1月27日公開)で紹介しました。

 上の写真は志手の毘沙門堂です。弘法大師の命日にあたる旧暦の3月21日などに弘法大師像をまつり、お参りしてくれた人々に食べ物をふるまう。志手では長く毘沙門堂で「お接待」が行われていたそうです。

 「お接待」に限らず、今はなくなったこと、昔の話が地域には数多くあります。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が実際に見たことも経験したこともないことが多くて、話はどうしても伝聞調になってしまいます。

 「お接待」の風習は志手だけでなく、大分県内各地にみられ、今も続いている地域も少なくないようです。

 大分県内の「お接待」について広く調べてまとめた資料を大分県立図書館で資料を見つけました。タイトルは「大分県における『お接待』」。10年ほど前の大学生の卒業論文でした。

 表紙には「平成26年度卒業研究」「情報社会文化課程 社会文化コース」「岩尾成美」「指導教員 鳥井裕美子」と書いてあります。 

「情報社会文化課程 社会文化コース」というのは大分大学のウェブサイトにありました。

 この卒業研究の筆者は大分大学の学生だったようです。

 この論文の中に大分での「お接待」の始まり、源流について書いた部分があります。

 結論から言うと、筆者の岩尾さんは「江戸時代後期には(お接待は)成立していたと推測できる」と書いています。

 岩尾さんによると、大分県内でのお接待の最も古い記録は、国東市の国見町大熊毛区本谷地区の記録帳にあった天保6年1835年)3月で、1588人の参詣者があったと記されているそうです。

 では志手の毘沙門堂でも江戸時代の末頃には「お接待」がおこなわれていたのでしょうか。

 直接の証拠となるものは見つけられませんでしたが、江戸時代に造られたと思われる石碑が毘沙門堂の境内にあります。これが手掛かりを与えてくれるかもしれません。
 
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2/19/2025

志手ポンカンはどこで買える

志手ポンカン どこで買える? 



 このブログ「大分『志手』散歩」(※)で、志手ポンカンが出荷の最盛期を迎えていると紹介したところ、志手ポンカンはどこで買えるのかという問い合わせをいただきました。

 ※「大分『志手』散歩」の「志手ぶらぶら路上観察記⑥志手ポンカン出荷」(2025年2月10日公開)で紹介しています。

 志手地区に販売所、直売所があるかというと、これはありません。

 志手ポンカンの箱詰めは大分市内のデパートやスーパーなどで売られていると思いますが、最近あまり見かけなくなったような気もします。

 市内のトキハデパートの地下にある果物専門店で、目を引く場所に志手ポンカンの箱詰めが置かれていたのを覚えています。最近はどうでしょう。この時期、かつて志手ポンカンが置かれていた場所には、ほかの果物の箱詰めが飾られているのを見たことがあります。

 志手ポンカンが以前ほど注目されなくなった理由の一つに、同じミカン類で新種が続々と登場し、競争相手になったことがあります。

 このブログ「大分『志手』散歩」の「志手ポンカン➃幻になる日も近い?」(2022年11月18日公開)にも書きました。

 例えば「はるみ」というミカンがあります。この時期スーパーなどで売られています。ポンカンと清見のかけ合わせで「不知火(デコポン)」と同じです。だからデコポンの妹分とも言われ、人気があるようです。

 もう一つは、このブログ「大分『志手』散歩」でも何度か書いていますが、志手ポンカンの作り手の高齢化と後継者難があります。

 作り手が減り、栽培面積も減っています。当然生産量も減ります。昔はもっと生産者がいたといいます。作り手も若く、意欲的でした。

 
 「大分志手ポンカンの栞}(左の写真)を作ってPRしていたと聞きました。

 このしおりを見ると、出荷元が大分市志手柑橘生産組合で、住所と電話番号が書いてありました。

 いまは、このしおりにあるような「志手ポンカン」を注文する❝窓口❞のようなものはありません。

 せっかくお問い合わせをいただいたのにお役に立てずに申し訳ありません。

 いただいたメールを拝見すると以前購入されていた志手ポンカンの生産者がおられるとのこと。一番確かな方法は以前購入されていた生産者から現在も作っている人を紹介してもらうことではないかと思います。

2/10/2025

志手ぶらぶら路上観察記⑥志手ポンカン出荷

 志手ポンカン 出荷最盛期

 

 志手ポンカンが出荷の最盛期を迎えています。

 志手のポンカンはだいたい12月から翌年1月にかけて収穫され、倉庫などで1カ月ほど貯蔵されます。そして、果皮が少し柔らかくなり、甘さも増した頃に出荷が始まります。


※志手ポンカンについてはこのブログ「大分『志手』散歩」でも何回も紹介しています。

 最近では「志手ぶらぶら路上観察記➃志手ポンカン」(2024年12月9日公開)があります。


 
 上の写真は箱詰めされた志手ポンカン(大きさは2L)ですが、近所のスーパーではこの箱入りはほとんど見かけません。

 代わりに1軒のスーパーではポリ袋に5個入った志手ポンカンが1袋598円(消費税込み646円)で売られていました。

 消費税込みで計算すると1個約130円になります。カン類の値段としては大分では高い方だと思います。

 と言っても、猛暑やカメムシ被害などで昨年はミカン類が不作だったとかで、ミカンの値段は全般に高くなっており、志手ポンカンが飛び抜けて高いともいえないようです。

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1/27/2025

お大師さまとお接待 その1

 毘沙門堂とお大師さま

途絶えた行事・お接待

 
 前回のこのブログ「大分『志手』散歩」では毘沙門堂に賽銭泥棒が出たことをお知らせしました。

 志手の毘沙門堂については昨年2月から6月にかけてこのブログ「大分『志手」散歩」で取り上げています。
 
 「毘沙門堂今昔」」と題して7回書いています。左の写真はその1回目の「毘沙門堂今昔 予告編」(2024年2月13日公開)です。 

 話がもう一度毘沙門堂に戻ってきたところで、昨年の毘沙門堂今昔シリーズでは取り上げなかったことを一つ書いてみたいと思います。

 それが毘沙門堂で行われていた「お接待」。弘法大師(お大師さま)の命日に合わせて志手でも「お接待」が行われていたのだそうです。

 「お接待」とは何か。大分県立図書館のウェブサイトに簡潔にまとめられた資料(右)がありました。
  
 大分県内で見られる「お接待」は、いまや消えゆく伝統行事だそうです。

 その原点は四国で行われている「接待」にあるようです。

 接待とは、弘法大師(空海)ゆかりの四国88カ所の霊場を巡る「遍路」を助ける行為です。

 霊場を巡る遍路に食べ物などを提供し、ねぎらう風習だそうです。遍路を積極的に助けること、遍路への施しは弘法大師への供養・報謝でもあるとの考え方があって、四国で接待が定着していったとのことです。

 四国での接待の風習が大分に伝わって、大分でも「お接待」が行われるようになったということでしょうか。

 大分では弘法大師を信仰する人たちが、旧暦の3月21日と7月21日に「お接待」を行い、寺社を参拝する人々に菓子やモチ、握り飯などをふるまったそうです。


 志手でも
、毘沙門堂で「お接待」が行われてきて、その後、お接待の場所は志手集会所に移ったそうです。

 そのあたりの話が1999(平成11)年4月発行の志手老人クラブ共和会の会誌「ふるさとだより」第5号にありました。

 今は途絶えてしまった志手のお接待についてもう少し詳しく見ていきたいと思います。

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1/13/2025

志手ぶらぶら路上観察記⑤さい銭泥棒

 毘沙門堂に賽銭泥棒とは‼



 1月12日に毘沙門堂に行くと、扉に貼り紙があるのに気づきました。


 毘沙門堂は元日にお参りしたのですが、その時こんな貼り紙があったろうか、そんなことを考えながら近づいてみました。

 近くに行って貼り紙を見ると「お賽銭盗難のため防犯カメラ作動中」「毘沙門堂管理者」とありました。

 毘沙門堂に賽銭泥棒が入ったので監視カメラを付けたとのことです。

 毘沙門堂周辺の人通りは多いとはいえないし、御堂にいつも人がいるわけでもない。盗みに入りやすい御堂かもしれませんが、「毘沙門堂を狙った泥棒が実際にいたとは」。このブログ「大分『志手』散歩」の筆者にはちょっとした驚きでした。

 毘沙門堂は以前から賽銭泥棒の被害に遭っていたのでしょうか。それともこの正月の参拝者の賽銭が狙われたのでしょうか。


 今月1日に初詣に来た時に撮影した写真を見てみました。それが上の写真ですが、「お賽銭盗難のため防犯カメラ作動中」の貼り紙は既にあったことが分かります。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者はしばらく毘沙門堂に足を運んでいませんでした。

 恐らく昨年のうちに賽銭盗難があったのでしょう。

 毘沙門堂内に防犯カメラが取り付けられるような事態になっているとはちっとも知りませんでした。

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12/30/2024

行く年くる年 世界の国からありがとう

 世界に伝わる「志手」の今と昔



 上の写真は紅葉した駄原総合運動公園のラクウショウ(落羽松)です。

 このラクウショウについては、このブログ「大分『志手』散歩」の「メタセコイアとラクウショウ①駄原総合運動公園」(2024年7月4日公開)で少し書いています。


 大分市の「志手」を題材にしたこのブログ「大分『志手』散歩」の1回目は「志手はどこにある?」(2021年7月21日公開)でした。

 途中でほぼ1年間の中断がありましたが、ぽつりぽつりと書き連ねてくることができました。

 大分市の志手という極めて限定的な地域の話ですので、このブログを読んでくださる方も多くはないのですが、それでも最初の頃に比べると「閲覧数」は増加傾向にあります。

 この12月は特に海外からのアクセスが目立ちました。

 米国、カナダ、メキシコ、香港、シンガポール、インド、イラン、ドイツ、スイスなどです。

 このブログを見た方は大分市の志手に何かの関わりがある方でしょうか。志手出身で今は海外で暮らしている、働いている方々でしょうか。

 どんな人たちがこのブログをご覧になったかは、このブログの筆者には分かりません。もし以前に志手に関わりがあって、このブログを見て懐かしいと思っていただけたのならば幸いです。


 このブログをご覧いただいた方々に感謝します。来年(2025年・令和7年)もぼちぼちとやっていこうと思っております。
 

 上の写真は大分駅南口の公園のメタセコイア。これについては「メタセコイア番外編~大分駅南口」(2024年10月26日公開)で書いています。

 

12/21/2024

桜ケ丘聖地で防災訓練


 桜ケ丘聖地で町内防災訓練

避難、初期消火、炊き出し




 前回のこのブログ「大分『志手』散歩」では、11月21日に行われた在日ドイツ大使館主催の公式墓参について報告しました。

 大使館関係者が桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)に眠る2人のドイツ人の墓に花を手向ける様子は、地元テレビ各局のニュースになりました。

 桜ケ丘聖地では11月にもう一つ行事がありました。志手町内の防災訓練です。11月9日でした。このブログの筆者も途中まで参加しました。

 訓練の内容は左の町内会だよりにあるように基本は①避難➁初期消火③炊き出しの三つです。

 当日は町内各所に「志手防災会」の名前入りのベストを着た避難誘導員が立ちました。訓練に参加する町民を会場の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)を案内するためです。

 消火訓練のために家庭用消火器が用意され、炊き出しでは志手集会所に保管されている飲料水(ミネラルウォーター)やアルファ米などが会場に運び込まれました。


 志手防災会のみなさんの準備があって訓練はスムーズに行われたのですが、参加者は残念ながら多くはありませんでした。

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12/09/2024

志手ぶらぶら路上観察記➃志手ポンカン

            寒さ来て色づく志手ポンカン



 今年はミカンが全国的に不作のようです。志手特産の「志手ポンカン」はどうでしょう。12月に入り色づき始めた志手ポンカンが上の写真です。

 志手ポンカンについてはこのブログ「大分『志手』散歩」で以前に取り上げました。

 手始めに「志手ポンカン①志手ポンカンは日本一」(2022年10月28日公開)を書きました。

 続いて「志手ポンカン➁いけるぞ!志手ポンカン」(2022年11月3日公開)「志手ポンカン③ポンカンの効用は」(2022年11月8日公開)「志手ポンカン➃幻になる日も近い?」(2022年11月18日公開)と書きました。

 志手のミカン生産者がポンカンづくりに本格的に取り組んだのは昭和50年代半ば、1980年前後のことのようです。

 「志手ポンカン➁いけるぞ!志手ポンカン」に載せた新聞記事を再掲します。

 それが左の記事。大分合同新聞の昭和57(1981)年2月21日付朝刊です。

 それによると、ミカンの生産過剰で価格が暴落し、経営が苦しくなった志手の生産者が、自家用に植えていたポンカンに目を付けて本格栽培を開始。市場に出荷し始めたところ、人気を博したということだそうです。

 ある財界人が志手ポンカンの味を絶賛したという話を「志手ポンカン①志手ポンカンは日本一」で紹介しました。

 しかし、志手ポンカンも最近はかつてほどの人気はないようです。

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11/29/2024

5回目の公式墓参 桜ケ丘聖地

独大佐 5回目の公式墓参

桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地) 



 11月21日の昼前、志手町内にトランペットの音が流れました。桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)で吹かれたものが風に乗って聞こえてきたようです。

 演奏された曲は「Ich hatte einen Kameraden」(私には1人の戦友がいた)。ウィキペデイアにはドイツの「葬送の軍歌」と書いてあります。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が、この曲を初めて聞いたのは4年前の2020(令和2)年11月でした。

 同年11月13日、大分市志手の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)で駐日ドイツ大使館主催の公式墓参が初めて行われました。

 その時にこの曲がトランペットで演奏されました。

 初めての公式墓参のことはこのブログの「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)に書いています。


 駐日ドイツ大使館付武官として来日したカーステン・キーゼヴェッター大佐が、2019(令和元年)12月、桜ケ丘聖地にあった曽祖父の弟(ユリウス・パウル・キーゼヴェッタ―
の墓を見つけたことが始まりでした。

 第一次世界大戦で日本軍の捕虜になって大分の収容所に送られ、そこで病死したドイツ兵が2人いました。ユリウス・キーゼヴェッタ―はその1人でした。2人は当時の陸軍墓地(現桜ケ丘聖地)に埋葬されました。

 こうした経緯は、先に紹介した「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)にもう少し詳しく書いてあります。


 キーゼヴェッター大佐は日本を離れ、昨年11月の公式墓参には後任の
ラルフ・ベルジケ空軍大佐が来県し、2人の墓前に花を手向けました。

 今年も11月21日にべジルケ大佐が桜ケ丘聖地を訪れて献花しました。今回で5回目の公式墓参となりました。

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