4/24/2025

お大師さまとお接待 志手天神社

「安永4年」の石造物が

志手天神社と毘沙門堂に



 タイトルの「お大師さまとお接待」にあるお接待は、「平成」の半ば頃までは志手で行われていた行事のことです。

 左の資料は志手老人クラブ共和会が1999(平成11)年4月に発行した「ふるさとだより5号」に掲載されたものです。

 このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その1」(2025年1月27日公開)でも、この資料を紹介しています。

 お大師さまとは弘法大師のことです。上の資料によると、志手では「お大師様保存会」があり、弘法大師の命日にちなんで毎年4月21日と9月21日に子どもたちに菓子を配る「おせったい」をしてきたそうです。

 「お大師さまとお接待 その1」では、いまはない志手のお接待について書いています。

 志手でお接待が始まったのはいつの頃なのか。このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その2」(2025年3月11日公開)で、それを突き止めようとしました。

 しかし、確かな材料に乏しく話は迷走気味になりました。毘沙門堂の境内に江戸時代につくられた石造物がありましたが、それは弘法大師とは関係がなさそうなものでした。

 弘法大師ゆかりの石造物は別の場所にありました。「お大師さまとお接待 その3」(2025年3月25日公開)で紹介したのが右の写真の石塔です。こちらも江戸時代につくられたようです。

 江戸時代の仏教事情はどうなっていたのか。毘沙門堂などにあった石造物に刺激されて少し調べてみようと思いました。

 そして、にわか知識で書いたのが「お大師さまとお接待 その4」(2025年4月2日公開)でした。

 それを書きながら思い出したことがありました。このブログを始めた頃に書いた「志手界隈案内➁志手天神社」(2021年7月21日公開)のことです。その中で確か天神社にあった石造物について触れています。

 
 「志手界隈案内➁志手天神社」を読み返してみると、写真とともに天神社にある石造物を紹介していました。

 そして、その石造物の建立年として刻まれていたのが「安永四年」でした。安永四年の石造物は毘沙門堂にもありました。

 「安永四年」(西暦1775年)に何か意味があるのか。それとも偶々同じ年に二つの石造物がつくられただけなのか。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者の乏しい知識では答えは出そうにもありません。

 と、結論めいたことだけ書いただけでは何となく芸がない気がします。

 そこで「志手界隈案内➁志手天神社」の文章を引用しつながら、天神社にある石造物についてもう少し見ていきたいと思います。

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 志手天神社にある石造物とはどんなものか。


 まずはこのブログ「大分『志手』散歩」の「志手界隈案内➁志手天神社」の説明を見てみたいと思います。

 「志手界隈案内➁志手天神社」では天神社の神様について少し考察を加えています。

 「天神社」の祭神は「菅原道真公」なのですが、志手ではほかにも祀っていた神様があったのではないか。そんなことを書き連ねています。

 そう考える材料として筆者が注目したのが志手天神社の境内奥にある石造物でした。

 

 「志手界隈案内➁志手天神社」でも書いていますが、風雨に晒されて表面に彫られた文字などが消えかけています。

 文字が読み取れるのは左右両端の2基だけでした。

 左の写真は左端の石造物です。片栗粉を使って文字を浮かび上がらせています。

 正面に刻まれた文字は右に「天満天神宮」、左に「五穀成就」とあります。真ん中は「天照皇大神宮」とあり、その下に「當村施主」と彫られています。

 続いて施主の名前があったと思われますが、その部分はなくなってます。

 「志手界隈案内➁志手天神社」では、この石造物を志手天神社の祭神が菅原道真公だけでないと考える手掛かりととらえました。
 
 今回は「伊勢信仰」「伊勢参り」の一つの証拠ととらえてみました。このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その4」(2025年4月2日公開)で、江戸時代の仏教と旅事情を少しみました。

 参考にした文献「図説 日本仏教の歴史 江戸時代」(
圭室文雄編)によると、全国津々浦々の村々で村民総参加による「講」がつくられ、定期的に村の代表者が伊勢神宮などのお参りに出かけていたそうです。

 志手村やその周辺でも伊勢参りが恒例行事として定着していたのでしょうか。こうした石造物があることは少なくとも「伊勢信仰」の浸透を示しているとはいえそうです。

 ここで、志手の毘沙門堂と天神社、それに志手に昔から住む「園田さん」※たちの墓地に残る石造物に刻まれた建立年をもう一度見てみたいと思います。

 ※志手の園田さんについては、このブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん―そのルーツは?」(2023年1月3日公開)で紹介しています。

西國三拾三所當来救世観世音菩薩」(寛保三年・西暦1743年
➁「光明真言塔」(宝暦九年・西暦1759年)
③「奉順禮西國三十三所供養塔」(安永四年・西暦1775年)
 「天照皇大神宮」      (安永四年・西暦1775年)
 
 それぞれの年に意味があるのか。一つ考えたのは災害との関係でした。

 大きな災害が起きる。甚大な被害に村は苦しむ。人々は鎮魂、慰撫、平安、豊作さまざまな祈りを込めて石塔、石碑、石仏をつくる。

 そんなことだろうかと考えてみました。そこで大分県立図書館で「大分県史料」にある江戸時代の主な災害の記録をコピーしてみました。


 毘沙門堂にある①に刻まれた「寛保3年」は表の赤線の①になります。

 これをみると、2年前の寛保元年(1741年)7月に風雨洪水があってところどころが破損したとあります。寛保3年の翌年の延享元年(1744年)にも風雨洪水、つまり台風水害があったようです。

 この後も宝暦5年(1755年)まで3年から4年の間隔で大きな災害に見舞われています。

 宝暦5年の凶作は大分だけの話ではありません。「宝暦5年」とネットで検索すると、ウィキペディアの「宝暦の飢饉」が出てきます。それによると、東北、北関東では大凶作となり、大飢饉が起きたとあります。

 ➁の光明真言塔は「園田さん」たちの墓地にあったものです。③の西国三十三所供養塔は毘沙門堂、天照皇大神宮は志手天神社にありました。

 ➁がつくられた時期は宝暦5年の凶作から4年後、③は明和6年(1769年)の地震の6年後となります。大分県の災害史を見ると、しばらく大災害に見舞われなかった期間ともいえそうです。


 災害が比較的少なかったから少し余裕ができて巡礼や石塔の建立などもできたとも考えられそうです。

 ただ、①の場合は風雨洪水被害から2年後ですから➁や③とは少し違う気がします。

 いずれにしろ災害の有無だけで単純に考えるのではなく、江戸時代の大分についてもう少し勉強しなければ結論らしきものは得られない、というのが今回の結論といえるでしょうか。
  

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 つくられた年が分かる石造物が志手天神社にはもう一つあります。

 既に書いたように5基の石造物のうち左右両端の2基の文字は判読可能です。

 このうち左端の石造物については紹介しましたが、右端のものには触れていません。説明し始めると少し長くなりそうな事情がありますので、ここでは取り上げず次の機会に紹介しようと考えています。

 
 

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