建設特需に沸いた別府
ブルドーザーとモッコ
題名は「球は転々宇宙間」。著者は赤瀬川隼氏。文藝春秋社から1982(昭和57)年7月25日に発行されています。
43年前にもらった本でした。パラパラとページをめくっていると「火の玉投手荒巻」の話が出てきました
大分県別府市に「星野組」という土木建設会社があって、荒巻はその野球チームの主力投手でした。
荒巻について紹介した「球は転々宇宙間」の記述を以下に引用します。
荒巻淳、快速球を武器にしたサウスポー、大分商業から大分経済専門学校を経てノンプロの別府星野組に入り、1949(昭和24)年に都市対抗野球で優勝。翌年、プロ野球の2リーグ分裂とともに新生球団毎日オリオンズ入り、26勝8敗で新人王。その年のリーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献。その後も長く活躍を続けた。
この本を読んだ時、すごいピッチャーがいたもんだと思いながら、なぜ地方の小さな都市にある会社が全国制覇するような強豪チームを持てたのだろう、と疑問が頭を浮かんだことを覚えています。
ただ、この本は「プロ野球の近未来小説」であり、過去の荒巻と星野組の話は物語を彩るエピソードの一つにすぎません。浮かんだ疑問はそのままにして本を読み進め、そのうち忘れてしまいました。
敗戦直後のモノもカネもない時代に別府は建設特需に沸くことになります。
戦勝国として大分に乗り込んできた米軍(占領軍)が別府に大規模なキャンプ(宿営地)を設けることになったのです。
司令部や兵舎、宿舎などが突貫工事でつくられることになり、別府の街にヒト、モノ、カネが集まってきます。
右の写真の本「ドキュメント戦後史 別府と占領軍」(佐賀忠男著)にその辺のことが書いてあります。
例えば「兵舎工事費5億円、宿舎建設費1億5,000万円という大工事だけに、土建業者はまさに『己が春』を謳歌し、『土建貴族』の名さえ起った」といいます。
ちなみにこの本は大分県立図書館で借りました。編集・発行は「『別府と占領軍』編集委員会」とあり、1981(昭和56)年8月に出版されています。
さて、ここで43年前に抱いた疑問に戻ります。なぜ、終戦直後の別府で野球の強豪チームが誕生したのか。
いろいろな要素が考えられる中で、その一つがこの建設特需によるカネだったのだろう、とこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者は考えます。
特需の恩恵を受けた業者の懐にはカネがたんまりあり、野球チームにも気前よくカネを出したのではないか。そんなことを想像しました。
さて、進駐軍のキャンプ(宿営地)建設は1946(昭和21)年の7月に始まり、夜も昼もない工事によって同じ年の12月に終了します。
米軍は1956(昭和31)年中に別府からの撤収を進め、翌57(昭和32)年にはキャンプも閉じられたようです。別府と米軍との付き合いは10年以上に及びました。
この間の別府について「ドキュメント戦後史 別府と占領軍」に序文を寄せた当時別府市在住の作家小郷穆子(おごう・しずこ 故人)さんは次のように書いています。
「別府にキャンプが設営され、3千の米兵が常駐するようになると、基地化した別府の町は、異様な熱気の中に包まれた」
「キャンプ設営にからむ土建ブーム。闊歩する米兵にすがって生きる女と、米兵慰安作戦に狂奔する人々が作り上げた桃色特需ブーム」
「その中で犯罪は多発し、庶民の飢餓は戦争中と少しも変わらなかったのだ」
この先は下の「続きを読む」をクリックして下さい
「深刻な飢えという経験のない人々には、『とにかく生きねばならぬ』という、切実な願いは、理解できないのではあるまいか」
日本の敗戦を誰の目にもはっきりと印象付けたのがマッカーサーでしょう。マッカーサー元帥が厚木基地に降り立つ上の写真には、勝者が誰であるかをはっきりと印象付ける効果があると感じます。
米軍は大分にもやってきます。このブログ「大分『志手』散歩」の「米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験➃」(2023年9月4日公開)で、志手と米軍とのかかわりなどについて書きました。
1945(昭和20)年10月15日付の大分合同新聞です。
記事の文字が薄くなって判読が難しいですが、将校は10月12日に、兵士は翌13日にそれぞれ大分入りしているようです。
佐世保から来た将兵のうち、将校は別府市内のホテルを宿舎にし、兵士は大分陸軍少年飛行兵学校舎(旧大分連隊兵舎)に入った、と記事は伝えています。
大分陸軍飛行兵学校舎は志手の❝隣り組❞でした。だから志手の住民も米兵を間近に見ることになりました。そのことは「米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験➃」で紹介しています。
10月15日付大分合同新聞によると、将校は鶴田ホテルと八坂別荘に入ったようです。
「ドキュメント戦後史 別府と占領軍」(以下「別府と占領軍」と省略)によると、1945(昭和20)年10月18日に鶴田ホテル、清風荘を皮切りに、11月18日には八坂ホテル……とホテル11軒、同11月20日を皮切りに翌年7月までに民間住宅29軒が進駐軍に接収されたということです。
接収は一方的で、命令の当日に退去し、翌日には改修工事が始まったというケースもあったと「別府と占領軍」にあります。「占領軍絶対服従の時代だった」と「別府と占領軍」の著者は言います。
ホテルや住宅の接収に際しては「接収前から精密な米軍の地図の上に記載され、大分進駐の前から、あらかじめそれらの家をチェックしていたらしい」と「別府と占領軍」は書いています。
そんなことから「別府が空襲を受けなかったのは占領軍が保養地として使うつもりだったから」といった憶測も当時は流れたそうです。
米軍が10年以上も別府にとどまったことを考えると、「別府に利用価値あり」と早くから米軍が目を付けていたとの推測は荒唐無稽なものとも言い切れない気がします。
そう考えると、次の段階として別府に本格的なキャンプ(宿営地)をつくるという流れも自然なものに感じます。
占領半年後の住宅2万戸建設計画
さて、キャンプ建設の動きはいつ始まったのか。
「スキャッピン(SCAPIN)799号」というもので全国で住宅2万戸を建設する計画だったといいます。
手書きで読みにくいですが、1946(昭和21)年中に住宅2万戸整備という目標を示し、そのために必要な物資の生産、流通、保管体制を整えていくことなどを当時の政府に対し求めました。
長期の駐留を目論んで家族用住宅を建てようとしたのか、日本の住宅事情のあまりの貧弱さに将兵が音を上げたためなのか。よく分かりませんが、米軍の命令を受けて政府は大急ぎで住宅2万戸を用意しなければならなくなりました。
早速別府でも「占領軍工事大分地区兵舎宿舎建設本部」ができて、建設業者が召集されました。
ちなみにSCAPINのSCAPは連合国軍最高司令官(Supreme Commander for Allied Powers Directive)の略。SCAPINは「SCAP index Number」の通称で「連合国軍最高司令官指令」などと訳されると、ウィキペディアにありました。
ウィキペディアにはSCAPINの1号から最後の2204号まで命令・指令の一覧表がありました。
住宅建設を命じた799号の前後の司令・命令を見ると、「引揚者受入所に関する覚書」(797号)、「生糸輸出に関する覚書」(798号)、「日本国内の信託会社による受益者への支払に関する覚書」(800号)、「離島所在気象台の業務開始方に関する覚書(801号)となっています。
ほかの命令・指令をざっと見ても随分と細かいことを指図しているようです。箸の上げ下げにもいちいち注意されるような煩わしさを感じます。何事にも許可を得なければならない。命令・指令を受ける側は大変だったでしょう。
傍若無人 朝晩かまわぬ突貫工事
よく比較の対象とされる東京ドームが約4.7ヘクタールだそうですから、東京ドームが9個造れる広さとなりますか。
建設工事は1946(昭和21)年7月に始まったようです。
「キャンプ建設」の見出しで「県下の建設業者全員集合」と説明があります。7月14日の起工式のようです。
日本側は大分県下の大手建設業者が全員集合したほか、大分県の細田知事(当時)も出席したそうです。
工事は12月には完成させなければなりませんでした。米軍がクリスマス・イブには入居できているように求めたからです。そのため、なりふりかまわず工事を進めなければいけませんでした。
整地ではダイナマイトが使われたそうです。というの老松の根が四方八方に広がり、米軍自慢のブルドーザーでも歯が立たない状態だったといいます。
そこでダイナマイトを仕掛けて松の根を粉砕していく方法を取ったようです。のちにはダイナマイトよりも爆発力の弱い爆薬を使ったようですが、夜中に1度、朝6時に1度の爆破作業をしたといいます。
近くに住んでいた人は大変だったでしょう。仮に爆破作業で周辺の住民に被害が出ても泣き寝入りの御時勢であったと「別府と占領軍」は書いています。
強引な手法は資材調達にも現れています。「特需優先」ということで随分無茶したようです。「別府と占領軍」は、例えばと前置きして、旧大分航空隊や坂ノ市などにあった旧軍事施設などに敷設しているものを掘り出したり、架線の電線を外したりして賄った、と書いています。
ブルドーザーとどんちゃん騒ぎ
左の資料はキャンプ建設工事の組織表です。現場は梅林土建、星野組、大和土建、後藤組など6社が代表となって、それぞれに数社が入る6班構成で、星野組は上下水道土木工事、その他はキャンプ建築工事を受け持ったそうです。
「別府と占領軍」には「別府キャンプ建設の思い出」と題して、業者の一つの後藤組関係者が原稿を寄せています。
以下はその原稿の一部を引用します。
「占領軍という名目の下で、資材機材、食糧の調達に於いて、虎の威を借りるのたとえで相当以上の無理が行われた。どこそこに隠匿物資があるといえばオーダー(命令書)1枚による調達だ。九州を駆け回り建設資材を集め、あくどく米軍に取り入り日本人泣かせも行われた」
「工事も6社競合という格好になり、いやがうえにも熱気が高まり、作業場、飯場が野口原に立ち並び、荒くれ労務者、引揚者が集まり、喧嘩口論も絶え間なく、夜ともなれば飲み屋はざわめき、蟻のごとく女も集まる。別府の街はキャンプ建設に沸き返ったといえる」
「野口原は松林の起伏なだらかな台地であるが、火山岩石が多い、床堀には苦労させられたが、初めて目にしたブルドーザーの威力には驚いた」
モッコとツルハシの人海戦術で土木工事をこなしてきた業者にとってブルドーザーは驚き以外の何物でもなかったわけです。
そして、ブルドーザーの争奪戦が始まりました。
「各班平等割当であるが、そこはそれ裏には裏で、運転手や主任に酒や女をあてがい、1時間でも多く自班造成に稼がせる」
「夜ともなると米兵通訳、役人、業者のどんちゃん騒ぎが繰り広げられ、別府では建設関係の者でなければ夜は明けぬとまでいわれた」
しかし、後藤班はこの騒ぎに加わることはなかったそうです。「今さらアメちゃん(米軍)に汚い工作等一切まかりならぬと明治人気質の2人の気骨が許さない」。2人とは後藤班の後藤肇隊長と建築責任者の川崎喜一氏だったそうです。
裏表のないやり方が最後には功を奏して後藤組は完成後のキャンプ維持管理工事を任せられることになったそうです。
ただ、戦後の混乱を乗り越えて成長していった後藤組も今はないようです。
ウィキ
🔷 🔷 🔷 🔷
地元紙の大分合同新聞が「戦後80年」の読み物を時折掲載しています。
終戦・敗戦の8月に向けてテレビや新聞ではもっとひんぱんに「戦後80年」を振り返る企画が見られるようになるでしょう。
ということで、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者も時流に乗って「戦後80年もの」を書いてみようかと思いました。
これが第一弾というわけですが、筆者が思った以上に長いものになり、いったんここで筆をおこうと思います。
また機会があれば別府の米軍キャンプ(チッカマウガ)について取り上げたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿