意外な場所にあった
弘法大師信仰の物証
そんな話を、このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その1」(2025年1月27日公開)で紹介しました。
「お大師さまとお接待 その2」(2025年3月11日公開)では、志手で行われていた「お接待」の始まりについて調べようとしました。
「お大師さまとお接待」シリーズの3回目となる今回は志手に残る弘法大師ゆかりのものを探してみることにしました。
長く「お接待」が行われていたという毘沙門堂には、弘法大師にかかわりがあると思えるものはありませんでした。
ただ、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者には一つ心当たりがありました。そこは大分市街地が見渡せる眺めの良い墓地です。
ここに古い墓石のようなものがあります(上の写真の右端)。
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志手の集落に昔から住んでいる人たちのほとんどの名字が「園田」であることは、このブログ「大分『志手』散歩」で以前で紹介しました※。
※「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん―そのルーツは?」(2023年1月3日公開)。
志手の園田さんの墓地は集落から上っていく坂の中ほどにあります。
手っ取り早くインターネットで検索してみることにしました。幾つか説明があります。
園田さんの墓地にある「光明真言塔」には梵字が3文字彫られています。上の大きな文字は「大日如来」のようです。
「光明真言は23文字の短いお経ですが、これを一心に唱えると、すべての災いを取り除くことができるというかなり強力なパワーのある真言です。真言宗の中でも重要な真言です」ともあります。
では、それがなぜ墓地にあるのでしょう。誰がいつ頃つくったものでしょう。
光明真言塔の左右の側面にも文字が彫りこんであります。一つが右の写真です。
「先亡三界万具一家聖霊増進〇〇」と書いてあるようです。〇〇の2文字ははっきり読めません。先祖か何かの供養のためにつくったものでしょうか。
つくった動機、目的はいまひとつはっきりしませんが、つくった年月ははっきりとしています。
このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が片栗粉を使って側面にある「年月日」を読み取ろうとしたことがあります。
「宝暦九年」は西暦1759年だそうです。
次右衛門、十右衛門。つくった人も名前があってはっきりしています。
それが分かってもどうもすっきりしません。
光明真言塔と、志手にちょっと前まで残っていた「お接待」の風習は関連するのか。
この石塔と、「お大師さまとお接待 その2」で紹介した毘沙門堂にあった西國三十三所巡礼の仏塔、石仏とは関係しているのか。
さまざまな疑問が湧いてきますが、そのあたりの手掛かりは何にも見つけられていません。
迷路の中を行き当たりばったりに歩いているようで出口が見つかりそうにありません。
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