地震、コロナで細る客足 高崎山
上田さん 今ならどうする?
「大分『志手』散歩」というブログのタイトルからの脱線が続いています。前回までの大分市中心部から、今回は「高崎山自然動物園」に足を延ばしてみました(写真上)。高崎山といえばサル。サルの餌付けで一躍有名になり、大分を代表する観光地の一つとなりました。
70周年記念誌が作られ、図書館などに寄贈されたというので大分市民図書館で借りてみました(左の写真)。
ページをめくって、最初に目に飛び込んでくるのが「B群第18代第1位」の「ヤケイ」の写真です。「近年話題になったサルたち」とのタイトルで、「ヤケイ」は「高崎山史上最恐女子」と紹介されています。ヤケイは2021(令和3)年7月30日、メスザルで初めて「ボス」の座に就いたのだそうです。
ヤケイ、マツバに続いて紹介されているのが、A群、B群、C群の歴代ボスザルです。
入園者数(ヒト)とサルの推移をグラフにすると
筆者が注目したのは70年記念誌にある二つのデータです。一つは高崎山でサルの餌付けを始めてからのサルの個体数の推移、もう一つは高崎山自然動物園の開園以来の年度別入園者数の推移です。
それが下の二つのグラフです(データを基に筆者が作成)
上がサルの数、下がヒトの数です。特に目を引くのが入園者数の推移。右肩下がりです。昭和40年代(1965~1974)には150万人を超えていた入園者ですが、昭和50(1975)年度に145万1773人と150万人を割り込み、昭和54(1979)年度には99万9683人と100万人を下回りました。
入園者の減少傾向は続き、1997(平成9)年度には49万6924人と50万人を下回りました。高崎山の入園者のピークは1965(昭和40)年度の190万5427人です。そこから入園者は四分の一にまで減ってしまいました。
この後も入園者の減少は止まりません。それでも何とか年間30万人前後の入園者を確保し、2015(平成27)年度には38万8396人と、前年度比で8万人以上増えた年もありました。
しかし、その勢いは続かず、2018(平成30)年度は23万1345人 2019(令和元)年度は21万6572人、2020(令和2)年度は10万7536人まで落ち込みました。
2016(平成28)年4月に熊本地震がありました。大分県内でも震度6弱を観測したところがありました。「阿蘇」を要とした九州観光は大きな打撃を受けました。そして、新型コロナウィルスです。
ここ数年の入園者数の落ち込みは理解できます。問題はこのどん底からどうやって這い上がるかでしょう。年間100万人の入園者は夢の夢としても50万、60万の人を集めることももはやできないのでしょうか。こんな時、上田さんならどうしたでしょうか?
「ホラ」を吹く市長 餌付けで一躍有名に
見出しの「上田さん」とは上田保氏のことです。上田さんは1947(昭和22)年4月から1963(昭和38)年3月まで4期16年間にわたり大分市長を務め、「アイデア市長」「公園市長」などと呼ばれました。1980(昭和55)年に86歳で亡くなっています。
米軍の空襲で焼け野原となった大分市中心部の復興をけん引したのが、当時の市長の上田さんでした。このブログの「住居表示番外編・新町名誕生60周年」シリーズで、大分市の中央町、都町、府内町について書くために少し調べてみると、いろんなエピソードが出てきます。
これは上田さん自身についても書かなければいけないなと思っていたのですが、開園70周年というのは良いタイミングになりました。「アイデア市長」として一躍脚光を浴びることになった高崎山のサルの餌付けについて、本人がいきさつを書いているものがあります。
農作物を食い荒らすサルを飼いならして観光資源として生かせないか。そう考えた上田さんは「猿寄せ」の方法を考えます。そして「餌を撒いてほら貝を吹いたら必ず集まるに違いない」と考え、やってみました。
それが1952(昭和27)年11月26日でした。上田さんはリンゴを持って(野生ザルが出るという)万寿寺別院に行き、別院の大西和尚とともに猿寄せを試みましたが失敗。しかし、「大西師の深い愛情とたゆまぬ努力によって、ぼつぼつ出始め、ついに本年(昭和28)年3月頃には本格的に出るようになり(略)社会の注目をひくようになりました」
しかし、猿寄せが成功するまでの間「社会からはかなり厳しい批判や嘲笑を受けました」と上田さんは書いています。「ホラ吹き市長」などと揶揄(やゆ)されたようです。
猿寄せの成功で評価は一転します。上田さんと高崎山のサルは一躍「時の人」となります。
作家火野葦平の小説「ただいま零匹」が代表的なものですが、他にも評論家の大宅壮一や民俗学者の梅棹忠夫・国立民族学博物館初代館長などが上田さんについて書いています※。
※九州産業大学建築都市工学部研究報告第4号の「大分市の戦災復興に関する調査研究3 復興大分市と上田市長に対する評価」(日高圭一郎)に詳しく書いてあります。
もう一つの遺産 「うみたまご」 杉山氏の提案
上田さんのもう一つの「遺産」が高崎山の前にあります(左は高崎山自然動物園のリーフレットの地図)。市長退任後に造った「大分マリーンパレス水族館『うみたまご』」です。
株式会社マリーンパレス50周年記念誌「海に魅せられた50年 『マリーンパレス』の40年と『うみたまご』の10年」に「創立者上田保」の紹介があります。その一部を紹介すると、
昭和37年(1962年)、高崎山開園10周年という記念の日に市長引退を発表し、その後、昭和39年(1964年)10月31日、「回遊水槽」という画期的なアイデアで、待望の大分生態水族館「マリーンパレス」を民間水族館として開館した。
もう少し詳しい経緯が1981(昭和56)年発行の「この人上田保」(「上田保追悼録」刊行委員会編)にありました。かいつまんで言うと以下のようだったそうです。
水族館を自分でやるようになったのは誰もやらないから。高崎山に年間何十万人の観光客が集まるのに、それを利用して事業をやろうという者がいない。では、市の事業でやろうと考えたが、市議会が反対する。
ならばと市長勇退後、水族館構想の具体化に取り組む。最初のアイデアは「海底にガラス張りのトンネルあるいはドームを造り、人はその中を通る。周りは天然の海であり、魚が群れをなして泳いでいる」というものだった。この案は「ガラスが水圧に耐えない」などの理由でボツになった。
次に考えたのが、世界初の回遊水槽だった。陸上の埋立地にドーナッツ型の水槽を造る。水槽のガラスは日本の技術では無理なので英国に注文する。水槽に海の潮流のように海水を流してやれば、自然に近く魚も喜ぶはずだと考えた。
このエピソードのポイントを上田さんの女婿だった平松守彦氏が「この人上田保」で書いています。
上田さんについて「思い付きでやることは何一つなかった」と書いています。「一つのアイデアが浮かぶと、それを長い間反すうし、醇成させ、人に聞き、書を読み、具体案を練り上げて、その上で果敢に実行する」「きわめて慎重に、理詰めで考えその上で事を始める。しかし、いったん決断したら誰がなんといおうときかなかった」
慎重に計画し、果敢に実行する。成功のカギはここにあったわけですが、そうした上田さんも高崎山自然動物園の開園時に50年後、70年後を見通すことは不可能だったでしょう。
高崎山開園で観光客が増えましたが、餌付けでサルの数も急増し、餌付けの弊害が目立つようになります。人口ならぬ猿口抑制に苦心しているうちに入園者が減少していきました。現状はかなり厳しいと言わざるをえません。
アイデアマンだった上田さんが存命だったら、どんな起死回生のプランを出してきたでしょうか。
キーワードは自然
高崎山のサルの調査にも協力した杉山幸丸さんが書いた少し古い本「サルの生き方ヒトの生き方」(農山漁村文化協会 1999年発行)に一つのアイデアがありました。この本が出たのは杉山さんが京都大学霊長類研究所長を退く頃で、日本霊長類学会会長でした。
杉山さんはマリーンパレスの回遊水槽方式をサルに応用できないかと言います。人工の水槽に海の潮流と同じ流れを作ることで魚を生かして展示する。この自然に似せるという発想を高崎山にも応用する。つまり、自然に近い環境を作って、そこでヒトがサルを観察するようにする。
春夏秋冬、それぞれの季節に実るものを求めて山を巡る野生のサルの暮らしを再現するために園内を三つか四つのゾーンに分けて、四季を作り、それを小さな回廊で結び、一つの森にするー。簡単に言うとこういうことでしょうか。
餌付けしたサルをできるだけ自然に戻す。言うは易く行うは難し。分かってはいるが、実際はできない。高崎山の現状はそんな中途半端な感じでしょうか。
追記
1948(昭和23)年11月に始まったと言われる今西錦司、川村俊蔵、伊谷純一郎らによる野生ニホンザルの調査は、1950(昭和25)年の幸島(宮崎県串間市)と高崎山で本格的なものとなった。
1952(昭和27)年6月に幸島と高崎山で開始された餌付けの試みが8月に幸島で,翌年2月には高崎山でも実を結び、サルが投与された餌を食べるようになった。これで急速に接近観察が可能になった。接近観察は個体識別を可能にし、これに基づく行動の詳細が記録されて研究は飛躍的に進んだ。
研究対象への密着研究は、群れの社会構造の解明へと進展した(伊谷,1954)。この流れは必然的に餌付け個体群の長期継続研究へと歩を進めた。ニホンザル研究の初期には餌付け、個体識別、長期継続観察が3本柱として機能したのである(Asquith, 1996)。
第二次世界大戦前には Carpenterなどによる優れた野外研究があったが、行動研究に関しては博物学の域を大きく超えるものではなかった。第二次世界大戦後、世界に先駆けて野外研究を開始した日本での霊長類学の展開に餌付けの成功が極めて大きな貢献をしたことはまちがいない。餌付けなしにはその後の研究の進展は不可能だったし、世界に先駆けて日本で始まった霊長類学はありえなかっただろう。
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