4/03/2023

大分まち歩き④住居表示番外編④都町Ⅲ

新町名誕生60年④都町その3 

アイデア市長とジャングル公園

 

 泥沼にはまり込んだ感じです。都町だけで3回も書くことになろうとは思ってもいませんでした。ちょっと「志手」を離れて大分市中心部をぶらぶらしてこようと思ったのが運の尽きで、ブログのタイトル「大分『志手』散歩」から離れていくばかりです。

 「新町名誕生60年①」の最初に書きましたが、大分に長く住んでいる人にとっては常識に思えることも、新参者には知って驚きということが結構あるものです。

 大分市中心部の「中央町」「都町」「府内町」「荷揚町」の町名・住居表示が60年前から始まったことを知り、ちょっとした発見に思えました。

 では、その前の町名は?新町名の由来は?などと疑問が湧き、調べるうちに新たな発見がいくつかありました。
 
 その一つが大分市長だった上田保氏。高崎山のサルの餌付けをして人気観光地にしたといった程度の知識はありましたが、それだけにとどまらない活躍、功績があったことを改めて知りました。

 「公園市長」とも呼ばれた上田氏が戦災復興計画に基づいて造ったのが、都町の「ジャングル公園」や中央町の「若草公園」などです。今回はジャングル公園などの名前の由来について考えてみたいと思います(※上田氏は上の写真の左側。右は木下郁氏。上田氏については改めて書きたいと思っています)。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)




 ジャングル公園について、まずは
「夢町人の街 おおいた都町物語」(松尾健児著 西日本新聞社発行)の解説を見てみましょう。この本は、前々回の「新町名誕生60年②」と、前回の「新町名誕生60年③」でも引用しました

 「広さ5,700㎡の公園は昭和27年の区画整理で誕生。戦前は住宅地と常妙寺の墓地の一部だったが、昭和20年7月16日の空襲で焼失していた」

 「当時の市長は高崎山のサルの餌付けで有名な上田保さん。上田市長は各種の竹を集めた若竹公園、草花を集めた若草公園に続いて『一種一木』をモットーにした公園にすることにした」

 「公園の名称は上田市長が『樹木園』『千樹園』とあれこれ考えているうちに近所の子どもたちが『ジャングル公園』と言い出したので付いたという」

 この本の説明だけでも十分な気がします。当時の上田市長が公園を造るに際し、それぞれ特徴のある公園にしたいと考えたこと。都町(当時は寺町)の公園は多種多様な木を集めた樹木標本園にしようとしたこと。そして、たくさんの樹々が植わった公園を見た子どもたちが、いつのまにか「ジャングル公園」と呼ぶようになったことが分かりました。
 

 いまのジャングル公園を見ても「鬱蒼(うっそう)とした森」「ジャングル」といったイメージはありません。街中の整備された公園ぐらいにしか感じません。

 しかし、上田市長の当時は違いました。北は北海道から南は鹿児島まで600余種の樹木が集められた、と1953(昭和28)年に大分市が発行した「復興大分市 新施設紹介」(左の写真)にあります。

 「新施設紹介」によると、子どもの頃から樹木に親しみ、知識を深めてもらおうと、それぞれの木にちなんだ俳句や和歌などを引用して興味深く説明した標識が立てられていたそうです。
 
 「新施設紹介」の説明で面白いのは見出しの「ジャングル公園」にわざわざ「仮称」と付けていることです。そして、本文で、「ジャングル公園」の名をそのまま一時的に公園名としているが、実際は内容とはそぐわないので別に良い名前を考慮中である、と、はっきり書いていることです。

 「ジャングル公園」という名称は上田市長が目指した公園のイメージからは少々ずれた言葉だったからでしょう。「復興大分市 新施設紹介」で他の公園、例えば「若草公園」「若竹公園」の説明を見れば分かります。

 
 若草公園は三つのブロックに分かれ、「その一つは約200坪(660㎡)内に洋式花壇を設け、草花の見本園を兼ねて四季の花が咲き乱れ」と説明されています。

 若竹公園は南新地(現府内町)にあって面積700坪(2,310㎡)。この公園の周囲には、日本一の竹産県にふさわしく、県下の竹のあらゆる種類を集め、見本園とする計画で、現在その種類は20種に及び、商店街の真ん中にある特異な公園である、と新施設紹介は説明しています。

 若草公園と若竹公園はそのコンセプトと名称が一致し、誰にも分かりやすいといえます。それに比べて「ジャングル公園の名称は」となるわけですが、ジャングル公園という呼び名は比較的早くから浸透していたようです。

 1951(昭和26)年2月16日の大分市報に「ジャングル公園に珍木の御提供を」という記事が掲載されています。
面白いのは、本文中のジャングル公園に(仮称)とカッコ書きがしてあることです。「ジャングル公園」が通り名として一般に定着しつつあることに市役所だけが抵抗しているような、そんな印象をこの記事からは受けます。

 この記事で目を引いたところがもう一つあります。記事には「一種一木をモットーに一昨年(昭和24年)以来上田市長が鋭意蒐集にあたり」「今日まで約400種の樹木が植えられ、大体大分県下の樹木全部が網羅されるに至った」と、これまでの経緯が誇らしげに書かれています。

 この公園に対する市長の強い思い入れが感じられます。市長としては本当はどんな公園名を付けたかったのでしょう。それは分かりませんが、ジャングル公園に取って代わる名案は浮かばなかったようです。


 ジャングル公園のカッコ仮称が取れる日が来ます。それが正確にいつなのか分かりませんでしたが、1954(昭和29)年12月16日の大分市報には仮称が付いていませんでした。
 

 見出しが「日本で唯一のジャングル公園」「市民の植物のオアシスに」とあり、仮称がありません。内容は、東京大学教授で国立公園審議会委員を務める本田正次博士(植物学)が高崎山自然動物園とジャングル公園を視察し、ジャングル公園について「日本にはまだ例のないもので大変立派なものだ」と高く評価したことを伝えたものです。

 ちなみになぜ、公園の近所の子どもたちが名付け親になったのか。それは容易に想像がつくことで、ジャングル公園の面積1800坪(5,940㎡)のうち800坪(2,640㎡)が子どもの遊び場だったからです。残りが樹木標本園だったのですが、公園に遊びに来て、樹々が増えていくのを見ていた子どもたちには、その様子がジャングルのように映ったのでしょう。

 上田保回想録によると、当時ターザン映画が流行っていて子どもたちがアアアーと言って公園の木から木へ跳び移って遊んでいたという。

 びっくりした上田は夏休みに子どもたちを集め、「今日から公園の管理を君たちに任せる」と言い、大分市少年管理員の腕章を与え、日誌を書かせたという。そうしたら、公園の花をむしったりしていた子どもたちが俄然良くなった、と回想しています。

 ※ウィキペディアの「ターザン」を見ると、ターザンの映画は1918(大正7)年を皮切りに1958(昭和33)年までの40年間に計32本製作されているとありました。



 上田市長の公園と言えば「遊歩公園」を抜きにしては語れないのですが、今回はここまでとし、遊歩公園については次回にしたいと思います。
 








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