6/09/2024

志手ぶらぶら路上観察記③天神社界隈

   桜ケ丘聖地 墓の隣りに高い壁 



 志手天神社の裏側で宅地造成が行われていることは、このブログ「大分『志手』散歩」の「志手ぶらぶら路上観察記➁志手天神社」(2023年10月14日公開)で一度紹介しました。



 去年の10月頃といえば造成が始まったばかりで、どんな風になるのやらと関心を持って見ていましたが、着工から8カ月ほど過ぎて、その形がだんだんと明らかになってきました。


 「志手ぶらぶら路上観察記➁志手天神社」でも紹介しましたが、志手天神社の裏側は、志手特産の「志手ポンカン」が植えられた畑でした。この畑だった場所の先に見える住宅地ももともと「ミカン畑」でした。

 志手はミカンの産地として名が知られていたのですが、大分市中心部に近いこともあり、「ミカン畑」は次第に「宅地」に姿を変えていきました。今もポツンポツンと残された畑地が少しずつ宅地に変わっています。

 ミカン作りの後継者がいないことも畑がなくなる一因です。


 ところで、桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の横に「壁」が造られ始めたのはいつだったか。気が付けば墓の横に大きな壁ができていました。
 
 冒頭の写真は5月26日に撮影しました。この日、志手の住民グループ「志豊会」による桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の草刈り作業が行われました。毎年この時期に実施されます。


 雑草が茂った墓地がきれいになるにつれて隣りにできた「壁」が際立ってきたようにも感じられました。

 以前にもこのブログで書きましたが、桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)とその周辺はここ数年で大きく変わりました。

 たまに定点観測のようにして写真を撮っていると、その変容がよく分かります。

 ただ、それにしてもな、と思うことがあります。人口が減る中で新築住宅が増えてもどうなのかなと素朴な疑問が湧いてきます。大分県内では一極集中を続けてきた大分市にも陰りが見えます。

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6/01/2024

毘沙門堂今昔 「室町」に始まる浄土真宗との縁その2

 毘沙門堂で教え説く2人の僧侶

「天然浄祐」と「円信」その2


 文明年間(1469~1487年)に毘沙門堂で説法をしたと伝えられる2人の僧侶「天然浄祐」「円信」をテーマにしたブログの2回目です。

 前回の「毘沙門堂今昔その3 『室町』に始まる浄土真宗との縁」(5月27日公開)は「天然浄祐」に焦点を当てました。天然浄祐について書いていくと話が長くなってしまったので、円信については別に書くことにしました。それが、この「『天然浄祐』と『円信』その2」です。


 上の2枚の写真はJR大分駅近くで建設中の高層マンションと光西寺を写したものです。大分駅周辺では区画整理や再開発が進み、街並みが随分と変わってきています。

 建設中の19階建てのマンションのところには大型家具店があったのではないかと記憶しています。

 「真宗大谷派 四極山光西寺」。円信が開いた寺と言われています。「雉城雑誌」によると、円信は光西寺ができる前は毘沙門堂に住んで、浄土真宗の教えを説き、「毘沙門堂円信」と称したそうです。

 ※雉城雑誌は、江戸末の天保年間に「豊府聞書」「豊府雑誌」「豊後国志」などの資料を引用する形で作られた「郷土誌」。「府内(大分)ガイドブック」のようなものです。

 雉城雑誌では、円信と光西寺、毘沙門堂について主に「豊府雑誌」を引用して「豊府聞書」「豊後国志」で補うような形で書いています。

円信は3人いる? 誰が本物⁉

 
 さて、話が少し複雑になってくるのはこれからです。円信についての資料は光西寺にもあります。光西寺に伝わる円信の出生と豊府雑誌、豊府聞書が伝える円信は微妙に違っています。

 「円信」と名乗る僧が複数いたのでしょうか。まずは、それぞれの資料が伝える円信の出生について見ていきたいと思います。

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5/27/2024

毘沙門堂今昔その3 「室町」に始まる浄土真宗との縁

毘沙門堂で教え説く2人の僧侶

親鸞没後200年 広がる浄土真宗


 志手の毘沙門堂に安置されている毘沙門天像はいつ頃つくられたものなのか。

 「志手歴史再発見クラブ橘会」(園田友三会長、略称「志手橘会」)が、大分市歴史資料館の植木和美館長の力を借りて、調べてみようとしたことは、このブログの「毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動」(2月22日公開)で紹介しました。

 毘沙門天像(左の写真)に残された制作年月日と見られる日付は「○○四年五月廿四日」。肝心の年号の部分が消えたようになっています。

 この薄くなった部分を読み取ってみようとしたのですが、結論をいえば判別できず、年号は分かりませんでした。

 毘沙門天像から毘沙門堂の始まりを探る試みはうまくいきませんでしたが、毘沙門堂の歴史をさかのぼるための手掛かりはまだあります。

文明年間の2人の僧 「天然」と「円信」

 
 それが文明年間(1469~1487年)の2人の僧侶です。「天然(浄祐)」と「円信」。この2人の僧が毘沙門堂で説法したとの言い伝えがあります。
 
 天然浄祐と円信は大分に浄土真宗をもたらし、広めた人物だそうです。

 「大分『志手』散歩」」の筆者にとって、これは予想外のことでした。

 浄土真宗の開祖といえば「親鸞」(1173年~1262年)であり、浄土真宗は、浄土宗や日蓮宗、時宗、臨済宗や曹洞宗とともに、鎌倉時代に生まれた宗派であることは知っています。

 だから、鎌倉時代のうちに大分にも浄土真宗が広まっていたのではないかと漠然と考えていました。実際は親鸞上人没後200年を経た室町時代後半に大分で浄土真宗が浸透していったということになります。

 このブログの筆者にとっては意外な事実の発見でした。

 志手の毘沙門堂を調べていてまた一つ勉強になりました。

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4/26/2024

「大分『志手』散歩」の手引き① 何が書いてある?

天神社、毘沙門堂、ミカン、それと

「大分『志手』散歩」の手引き①


 気がつけば「大分『志手』散歩」の投稿が60本近くになっていました。このブログには目次がないので、どんなことがどんな順序で書かれているのか、たまたま読んでみようと思われた方には分かりにくいと思います。

 そこで「大分『志手』散歩」の「手引き①」と題して、これまでブログの内容を1回整理してみようと考えました。

 

「大分『志手』散歩」の最初の記事は「志手はどこにある?」とのタイトルで2021(令和3)年7月17日に公開しています(写真上)。
 ※写真のQRコードでも記事をお読みいただけます。

 このブログは基本的に筆者が住んでいる大分市の「志手」について書いています。大分市志手といっても、そんなところは知らないという人が大多数でしょう。そこでブログの初回は「志手」という地域を簡単に説明することにしました。


 そして、2回目に書いたのが「志手界隈案内①志手の名所旧跡」(2021年7月21日公開)でした。
 ※写真に記事「志手の名所旧跡」のQRコードを付けました。


 左の地図は2回目の投稿に掲載した地図「志手の名所旧跡」に加筆したものです。

 「古宮古墳」や「亀甲山古墳」は厳密に言えば志手の隣りの「季の坂」になりますが、地図には「志手界隈」ということで加えてあります。

 2回目の「志手界隈案内①志手の名所旧跡」では主に古宮と亀甲山の二つの古墳について書きました。

 上の地図にある「志手天神社」「桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)」「毘沙門堂」「毘沙門川」についても順次、このブログで取り上げています。

 何をいつ書いたのか。主な記事を一覧にしてみます。

 【2021(令和3)年】
志手はどこにある        公開日2021年7月17日
志手界隈案内①志手の名所旧跡     2021年7月21日
志手界隈案内➁志手天神社       2021年7月31日
志手界隈案内③桜ケ丘聖地1      2021年9月16日
志手界隈案内➃桜ケ丘聖地その2    2021年10月5日

 ここまで頑張って書いてきたためか、突然にエネルギー切れを起こしてしまいました。「桜ケ丘聖地その5」を書きかけのまま1年以上休載することになりました。

 そして再開したのが2022(令和4)年9月でした。


 【2022(令和4】年】
★志手に残る農村風景 ミカン盛衰記
①ミカンの銘産地・志手         22年9月29日
②栽植記念の石碑残る          22年9月30日
③大分連隊がきっかけに         22年10月2日
④先駆者・岩田丑太郎の碑        22年10月6日
⑤ハイキングコースで売り出す      22年10月15日
⑥ミカンは神代の昔から?        22年10月20日

★志手ポンカン
①志手ポンカンは日本一         22年10月28日
➁いけるぞ!志手ポンカン        22年11月3日
③ポンカンの効用は           22年11月8日
④幻になる日も近い?          22年11月18日


★ふるさとだよりで知る志手のトリビア
           2023年1月3日
③柞原八幡宮との縁   23年1月13日
④昔ながらの狭い道   23年1月25日
            23年2月13日

 「ふるさとだより」は「志手老人クラブ共和会」が発行していたもので、このブログの筆者の手元には1995(平成10)年4月発行の第1号から2005(平成17)年5月発行の17号までのコピーがあります。
 
 「ふるさとだより」には志手の歴史や昔の志手の思い出などが掲載されています。その中で、このブログの筆者が興味を持ったものを「ふるさとだよりで知る志手のトリビア」と題して連載しました。

 「ふるさとだよりで知る志手のトリビア」の第2回から2023(令和5)年になります。
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4/04/2024

毘沙門堂今昔 番外編その2 図書館で読める市場直次郎の著作

 市場氏の著作は何冊あるか?

図書館の蔵書を検索すると


 明治・大正・昭和・平成を生きた郷土史家の市場直次郎についてちょっと調べたことを、このブログ「大分『志手』散歩」の前回(「毘沙門堂今昔 番外編 郷土史家・市場直次郎」)で報告しました。

 前回の最後に「市場直次郎の名前とその功績がもう少し大分でも知られていてもいいのではと思います」と書きました。ただ、そういうだけでは仕方ないので、市場直次郎の足跡、業績を知るための手掛かりを提供しようと思いました。

 それが図書館が所蔵する市場直次郎の著作リストです。大分県立図書館と大分市民図書館のそれぞれのウェブサイトで「市場直次郎」と入れて検索してみました
 
 大分市民図書館には1冊ありました。

 市民図書館にあったのは市場直次郎著「郷土趣味雑話」。1932(昭和7)年に「大分あづさ会」から出版されました。

 ラジオ放送で市場氏が語ったものを本にまとめたようです。誰かが市民図書館に寄贈したのでしょうか。「豊後伝説集」や「豊後方言集」ではなく、「郷土趣味雑話」の1冊だったことが、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者には予想外のことでした。

 大分県立図書館はどうでしょう。こちらは結構ありました。

 大分県立第一高等女学校(現大分上野丘高校)時代の豊後伝説集、豊後方言集、豊府紀聞のほか、大分から離れた後の著作もあります。

 「豊国筑紫路の伝説」(1973年)「筑紫路の絵馬」(1974年)「九州・沖縄地方の民具」(1983年)「ふるさと扇面譜」(1987年、冒頭の写真)「西日本民俗文化考説」(1988年)などです。


 県立図書館(写真上)の蔵書リストには佐賀県文化財調査報告書の第9集(1960年)、第12集(1963年)もありました。

 それぞれ市場直次郎の調査報告があります。第9集には「肥前における田楽の伝承-川久保田楽を中心として」、第12集には「竹崎の鬼祭」について書いています。

 大分県立図書館には市場直次郎関連の資料は20冊ほどあるようです。県立図書館には市場直次郎の著作が思ったより多い。これがこのブログの筆者の素直な感想でした。

 市場直次郎の著作と足跡について、もう少し詳しく見てみようと思います。この先は「続きを読む」をクリックして下さい。

3/26/2024

毘沙門堂今昔 番外編 郷土史家・市場直次郎

 昭和を生き抜いた男 市場直次郎

 
 このブログのタイトルは筆者の勘違い、思い込みに由来しています。と言っても、何のことか分からないと思いますので、順を追って説明していきたいと思います。

 前回のブログ「毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績」の冒頭で、「豊後伝説集全」に収められた「志手の毘沙門天像」にまつわる言い伝えを紹介しました。

 薩摩の島津氏が大友氏の豊後国に攻め入り、大友氏の本拠地である府内は戦火に見舞われた。志手の毘沙門堂も焼かれ、安置されていた毘沙門天像は野に打ち捨てられた。後にそれを見つけて志手の村人が新たに御堂を建ててまつった。それが今の志手の毘沙門堂の始まりという話でした。


 この言い伝えが載っている「豊後伝説集全」。1932(昭和7)年6月に発行されたこの本の編者が「市場直次郎」となっています。

 「豊後伝説集全」は、市場直次郎が勤めていた大分県立第一高等女学校(現大分上野丘高校)の生徒たちに材料を求めて、大分県内に残るさまざまな言い伝え、伝説をまとめたものです。

 大分県立図書館の蔵書リストを見ると、市場直次郎は1933(昭和8)年、1936(昭和11)年に「豊後方言集」を発表するなど、この時期、民間伝承の調査研究に精力的に取り組んでいたことがうかがえます。

 前回の「毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績」にも書いた通り、このブログの筆者は、伝説集や方言集などを作った市場直次郎、十時英司、波多野宗喜とはどういう人たちだったのか、そこに興味を持ち、もう少し詳しく調べようとしてみました。

 ところが、このあとは「大分」「豊後」などをタイトルにした市場直次郎の著作が見当たりません。それで筆者は勘違いしてしまいました。市場直次郎が郷土史家として活躍したのは昭和初期から10年代までぐらい、いわゆる「戦前」の人だろうと思ってしまったわけです。

 もちろんこれは勝手な思い込み。明らかな間違いでした。

 市場直次郎は研究者として「昭和」を生き抜き、さまざまな成果と資料を残していました。

 「市場直次郎」とネットで検索すると、佐賀大学附属図書館貴重書アーカイブの「市場直次郎コレクション」が出てきます。

 市場直次郎は戦前は佐賀師範教授、戦後は佐賀県内の高校長や福岡の大学教授を務めながら、数多くの小説類など和書と文人の書画を集めたのだそうです。

 佐賀大学では市場直次郎のコレクションを購入し、それを整理して、ネットで閲覧できるようにしてあります。

 ところで「佐賀」の市場直次郎は「大分」の市場直次郎と同一人物なのだろうか。誰もが抱く当然の疑問です。

 「市場直次郎コレクション目録」という本が出版されていました。この中には市場直次郎の略歴もあるはずです。調べてみると、佐賀県立図書館、福岡県立図書館、福岡市総合図書館にこの本があるようです。

 大分県立図書館を通じて貸し出しを受けようと、県立図書館に行くと、大分大学付属図書館にもあるとのこと。早速大分大の図書館から借りるための手続きをしました。

 そして、佐賀と大分の市場直次郎は同一人物と確認できました

 上が目録にあった市場直次郎の経歴です。

 大分県立図書館の所蔵リストを見ると、市場直次郎の最後の著作は「西日本民俗文化考説」(九州大学出版会)で、出版年は1988(昭和63)年12月となっています。昭和天皇の崩御とともに翌1989年1月に元号は「昭和」から「平成」に改められました。

 市場直次郎はまさに民俗学者として昭和を生き抜いたといえます。

 雑誌「まつり」の1998(平成10)年7月号に「市場直次郎先生追悼」の記事があり、それによると、市場直次郎氏は1996(平成8)年7月18日に92歳で亡くなったそうです。

 記事によると、氏が大分から佐賀に移ったのは1936(昭和11)年ということでした。大分には90年も100年近くも前にいた人物ということで、忘れ去られるのも自然かもしれません。しかし、市場直次郎の名前とその功績がもう少し大分でも知られていてもいいのではと思います。

 

3/01/2024

毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績

橋の下の毘沙門天 すくってお堂に 




 志手の毘沙門堂については上のような言い伝えがあります。


 ウィキペディアを見ると、上の言い伝えにある島津氏と大友氏の戦いは「豊薩合戦」と呼ばれ、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行われたとあります。

 ちなみに大友氏は豊薩合戦以前にも島津氏と戦って大敗(耳川の戦い)しており、その力は急速に衰えていったようです。そのため、島津氏の豊後国侵入を許し、本拠地の府内も戦火に見舞われることになりました。

 その様子が江戸時代に書かれた「豊府紀聞」にあります。
 

 漢字だけの文章は難解ですが、「府内に島津家久が入って」などと書かれていることは読み取れます。

 「豊府紀聞」には志手の毘沙門さまと毘沙門堂の由来についても記述があります。これは後ほど紹介するとして、ここで注目していただきたいのは、上の二つの「豊後伝説集全」「豊府紀聞」に共通するものです。

 上の写真の豊府紀聞の復刻版が出版されたのは1930(昭和5)年9月です。復刻版は限定55部の非売品で、発行所は「郷土史蹟伝説研究会」。そうです。「豊後伝説集全」を出したのも郷土史蹟伝説研究会でした。

 1932(昭和7)年6月に出版された豊後伝説集全には市場直次郎、波多野宗喜、十時英司の3人の名前があります。豊府紀聞(復刻版)には市場、十時両氏の名前がありました。

 郷土史蹟伝説研究会は十時氏や市場氏が中心になって作ったのでしょう。さまざまな形で大分の歴史を記録しておこうという十時氏らの強い意欲が感じられます。

 十時氏については、このブログ「大分『志手』散歩」の「毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動」で、少し紹介しました。

 十時氏は1940(昭和15)年6月の豊州新報に「大分市郊外 志手の毘沙門堂物語」を連載しています。

 その中でお堂の毘沙門天像を調査し、造られたのが南北朝時代の「正平」年間(1346~1370年)ではないか、との推理しています。
 
 十時氏らが残した資料はこのブログの筆者にはとても貴重なものです。志手の歴史の一端を知る手掛かりになっています。

(このあとは「続きを読む」をクリックして下さい)

2/22/2024

毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動

志手の毘沙門さま 生年月日は?



 2024(令和6)年2月15日。志手の毘沙門堂に行ってみると、お堂の扉が開け放たれ、人が集まっていました。

 これからお堂にまつられている毘沙門天像の“御開帳”が行われるところでした。

 左や下の写真のように、普段は緞子(どんす)や御簾(みす)が掛けられ「毘沙門さま」を直接拝むことはできません。


 それを開けてみようと企画したのは、志手歴史再発見クラブ橘会(園田友三会長、略称「志手橘会」)です。

 目的は「毘沙門天像」が造立された時期を調べることでした。つまり「志手の毘沙門さまの生年月日」を突き止めようというわけです。

 志手の毘沙門さまについてはさまざまな古文書に記述があります。左は志手橘会がまとめた資料です。

 出典欄にある「豊府聞書」「雉城雑誌」「豊府紀聞」は、大雑把に言えば江戸時代に書かれた大分の郷土誌です。

 本ブログ「大分『志手』散歩」では「志手界隈案内➁志手天神社」で少し紹介しています。
 
 「毘沙門堂縁記」は、安政年間に志手の園田さんたちが、かつて因縁があった専想寺を訪ね、毘沙門天像の由来などを聞き記したものです。

 さまざまな資料の中で今回注目したのが、1940(昭和15)年6月に豊州新報に連載された郷土史家十時英司氏の「大分市郊外 志手の毘沙門堂物語」です。

 4回にわたる連載の1回目に十時氏が毘沙門天像を調べた様子が書かれています。

 毘沙門天像が浮き彫りにされた板石の側面に「年月日」があるのを十時氏は見つけました。

 「○○四年五月二十四日」。元号の〇〇の部分が破損しており、なんとか読もうと苦心したが、断定するには至らなかったと十時氏は言います。

 そう断ったうえで元号は「正平」ではないかと推理しています。正平は南北朝時代に南朝が採用した元号で1346年から1370年まで続いたのだそうです。もし正平年間に造られた石仏だとすれば七百年近い時を経た仏像ということになります。

 十時説は正しいのでしょうか?志手橘会では大分市歴史資料館の植木和美館長の力を借りて、志手の毘沙門天像の誕生にまつわる謎解きに挑むことにしました。

 以下は当日の調査の様子を写真で紹介します。


 興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい

2/13/2024

毘沙門堂今昔 予告編

きれいになった毘沙門堂‼

 
 「毘沙門堂」と呼ばれるのは、そこに毘沙門天像がまつられているからです。

 住吉川(毘沙門川)沿いに志手の毘沙門堂があります。最近、ここに立ち寄る人が少し増えている。そんな話を聞いたことがあります。

 なぜ訪れる人が増えているのか。大きな理由は、毘沙門堂がすっきり、明るくなったからだと思われます。

 建物が新しくなったわけではありません。1970(昭和45)年に建てられたという平屋の建物は、半世紀を経て、ややくたびれ気味にも見えます。

 お堂は変わらないのですが、その周りがすっきりしました。横に縦にと伸びていた樹々は伐採されたり、小さく刈り込まれたりしました。

 夏場などはお堂の周囲に雑草が生い茂り、鬱蒼とした感じで、建物に近寄るのをはばかられる雰囲気がありました。


 それがここ数年で変わってきました。志手町内会をはじめとした地域住民による環境整備が行われてきたからです。

 上の写真は志手の園田さんたちによる作業の一コマ。志手の園田さんについては本ブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん そのルーツは?」をご覧ください。 
 
 毘沙門堂をきれいにしようとしているのは、昔からの住民である「志手の園田さん」ばかりではありません。園田さん以外にも毎日のように立ち寄って草取りなどをしている人なども見かけます。


 そんなこんなですっきりして、足を向ける人も増えてきたという志手の毘沙門堂の「今昔」を少し紹介してみようかと思っています。
 

12/24/2023

志手天神社の初詣 おなじみの案内板は今年もなく

 賑い戻るのはいつ 志手天神社の初詣


 
「初詣は志手天神社へ」。数年前まで、そう書かれた案内板が町内のあちこちに見られました。
 左の写真は2018(平成30)年12月に撮影したものです。

 ここ数年、初詣の案内板を見ることができませんでした。残念ながら、今年の師走も、この案内板はありません。

 ご承知の通り新型コロナウイルスの大流行で人が集まるような行事はどこでも中止になりました。志手天神社の新年行事も例外ではなく、ここ数年行われていませんでした。

 今年はちょっと状況が変わってきましたが、志手天神社の迎春行事は今年も見合わせようとなったようです。 
 


 大晦日の深夜から元日未明の志手天神社はにぎやかでした。昔から志手に住んでいる「園田さん」を中心にした地域住民グループ「志豊会」が、初詣に来た人たちに熱いそばと熱々の甘酒、お神酒をふるまいます。

 上の写真は2019(令和元)年12月31日と2020(令和2)年1月1日に撮影したものです。

 真っ暗な志手天神社に明かりが灯るのは12月31日の夜10時前頃。参拝客を迎える準備が始まります。そして、午前零時を過ぎてしばらくすると抽選会が始まります。

 おみくじを買った参拝者には「松の○番」「竹の○番」といった抽選券が渡されます。抽選会前には狭い境内は人であふれるようになります。
 
 抽選会の景品は志豊会の会員が持ち寄ったものや新たに購入したものです。ユニークなのは「ふるさと賞」でしょう。志豊会にはミカン生産者がいます。その人たちがつくったミカンが景品として提供されていました。
 
 ※志手の「園田さん」については、このブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁「志手と言えば園田さん、そのルーツは?」をご覧ください。

 地域の人たちによる手作りの迎春行事は、住宅街の端にある小さなお宮、志手天神社にぴったりに思えました。

 ただ、志手天神社周辺にも大きな変化が起きていることは「志手ぶらぶら路上観察記②天神社界隈」で報告した通りです。



 

 今秋に天神社裏のミカン畑の造成が始まり、住宅地として形が少しずつ見えてきています。来年の今頃に見る志手天神社界隈は今年と随分変わっていそうです。

 
 


 

11/29/2023

「国民哀悼の日」と桜ケ丘聖地 

独大佐の献花と「国民哀悼の日」


 
 11月24日午前。桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の前を通りかかると、日本とドイツの国旗が掲げられていました。

 桜ケ丘聖地に2人のドイツ人の墓があることは、このブログで何回か紹介しています※。2人は第一次世界大戦で日本の捕虜となり、大分の捕虜収容所で病死しました。

 ※新しいものでは「ドイツ大佐 離日前の墓参り 桜ケ丘聖地」(6月27日公開)、古いものでは2021(令和3)年9月16日公開の「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」があります。

 第一次大戦から100年以上の時を経て、忘れ去られようとしていた2人の墓を再発見したのは、駐日ドイツ大使館付武官のカーステン・キーゼヴェッタ―氏でした。キーゼヴェッタ―氏は既に日本を離れ、その後任者がこの11月24日、桜ケ丘聖地の2人の墓に献花に訪れたのでした。

 駐日ドイツ大使館に赴任したカーステン・キーゼヴェッタ―大佐は、第一次大戦中に日本で亡くなったという曽祖父の弟の墓を探し、桜ケ丘聖地にあることを突き止めました。

 キーゼヴェッタ―大佐が最初にその墓を訪れ、献花したのは2019(令和元)年暮れのことだったそうです。上の写真は2020(令和2)年2月に撮影したものです。曽祖父の弟のユリウス・パウル・キーゼヴェッターの墓に供えたと思われるものがまだ残っていました。

 キーゼヴェッタ―大佐は2020(令和2年)11月に再び墓地を訪れました。その時はドイツ大使館主催の公式行事として墓参が行われました。

 公式行事としてなぜ11月に行ったのか。当時、ちょっと疑問に思ってドイツ大使館に問い合わせてみました。

 すると「大使館武官室では日本各地のドイツ兵の慰霊祭を『国民哀悼の日』にちなんでおこなっており、大分に伺いましたのもそのために11月でした」との回答を得ました。

 フリー百科事典「ウィキペディア」には、「国民哀悼の日」はドイツにおいて、戦没者ならびにナチ党の暴力支配の犠牲者を追悼する記念日である、とあります。1993年以来毎年11月の第3日曜日に大統領、政府閣僚、ベルリン駐在の各国外交団の臨席を得て式典が執り行われるそうです。

 ドイツ本国での慰霊行事に合わせて日本でも戦没者を追悼するということで、桜ケ丘聖地でも11月に献花式が行われたということになります。

 その様子はOBS(大分放送)とOAB(大分朝日放送)のニュースにありました。報道によると、
ドイツ大使館のラルフ・ベルジケ空軍大佐夫妻が桜ケ丘聖地を訪れ、2人の墓に献花し、追悼したとのことでした。

 ベルジケ大佐がキーゼヴェッタ―大佐の後任のようです。ベルジケ大佐は前日の23日に徳島県鳴門市の捕虜収容所跡を訪れています。

 NHK徳島放送局のニュースによると、鳴門市にあった「板東俘虜収容所」跡には、四国各地で亡くなったドイツ兵の慰霊碑があり、23日は慰霊碑前で献花式があったそうです。

 ベルジケ大佐は23日の徳島県鳴門市での献花式に出席後、大分市に足を延ばし、桜ケ丘聖地を訪れたということのようです。

 ちなみに第一次大戦の時に捕虜となったドイツなどの将兵の収容所は各地にありました。「ドイツ大佐 離日前の墓参り 桜ケ丘聖地」でも掲載した地図を再掲します。

 

 上の地図は千葉県習志野市教育委員会が発行した「ドイツ捕虜収容所ガイドブック『ドイツ兵たちの習志野』」からの引用です。

 駐日ドイツ大使館関係者は「国民哀悼の日」に合わせて徳島県鳴門市や大分市のほかに何カ所くらい慰霊に訪れているのでしょうか。機会があれば聞いてみたいところです。

 

  
 

11/21/2023

あったはずが消えた 志手遺跡その2

  あるはずが、“幻”だった志手遺跡

 
 前回のブログ(10月21日付「あったはずが 消えた志手遺跡」)の最後に「残念ながら本格的な調査はなされないまま『志手遺跡』の名前は大分県の遺跡リストからは外されることとなりました」と書きました。

 ところが、その後、意外な話を耳にしました。

 「遺跡調査が行われたが、何も出てこなかった」というのです。



 土地の所有者がアパートを建てることになって、調査が行われたそうです。土器や何やらが発掘されるだろうと地域の住民も期待していたら、何も出ずに驚いたという話を聞きました。

 それが本当なら、「志手遺跡」はもともとなかったということになります。

 すると、次なる疑問が生じます。「誰が、何のために志手遺跡を“発見”したのか?」

 このブログの筆者が志手遺跡を知ったのは、大分県立図書館にある1955(昭和30)年発行の「大分市史」を見たからです。

 つまり、1955(昭和30)年以前に志手遺跡を“発見”した人がいたということです。今となっては、どんな人が何を見つけたのか、ちょっと調べようがないのですが、ぜひとも知りたいところです。

 遺跡発見の謎を調べることは現段階では難しいですが、発掘調査が行われたという年月を特定することはできそうです。カギは「アパートが建設された年」です。

 「調査したが、何も出なかった」と話してくれた人は「かなり昔のことだから」と言い、その年月までは覚えていませんでした。

 アパートの有無をチェックするのは「ゼンリンの住宅地図」でできそうです。毎年のように出版されていますから古い順から見て行けば、“遺跡”のところにアパートが建った年が特定できる、と考えました。


 前回のブログ「あったはずが消えた 志手遺跡」を書く際に、1967(昭和42)年と1975(昭和50)年に発行された「全国遺跡地図(大分県)」(文化財保護委員会編)に「志手遺跡」があることを確認しています。

 1975(昭和50)年に発行された「全国遺跡地図(大分県)」には、「埋蔵文化財包蔵地は、県教委が昭和46(1971)年度に実施した分布調査の成果をもとに若干の補正を加え」などと書かれています。

 ということは、大分県教育委員会が調査した1971年頃にはアパートは建っていなかったと考えられます。念のために1969(昭和44)年のゼンリンの住宅地図を見てみました。

 志手遺跡があったといわれる場所は田んぼでした。

 ここから順を追ってゼンリンの住宅地図を調べて行けば志手遺跡が“幻”と消えた時期が分かる。

 そう思って大分県立図書館に行ったのですが、ことは思うように運びません。かえって別の迷路に入り込んだような展開になってしまいました。

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志手ぶらぶら路上観察記⑧キオビエダシャク

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