あるはずが、“幻”だった志手遺跡
前回のブログ(10月21日付「あったはずが 消えた志手遺跡」)の最後に「残念ながら本格的な調査はなされないまま『志手遺跡』の名前は大分県の遺跡リストからは外されることとなりました」と書きました。
ところが、その後、意外な話を耳にしました。
「遺跡調査が行われたが、何も出てこなかった」というのです。
それが本当なら、「志手遺跡」はもともとなかったということになります。
このブログの筆者が志手遺跡を知ったのは、大分県立図書館にある1955(昭和30)年発行の「大分市史」を見たからです。
つまり、1955(昭和30)年以前に志手遺跡を“発見”した人がいたということです。今となっては、どんな人が何を見つけたのか、ちょっと調べようがないのですが、ぜひとも知りたいところです。
遺跡発見の謎を調べることは現段階では難しいですが、発掘調査が行われたという年月を特定することはできそうです。カギは「アパートが建設された年」です。
「調査したが、何も出なかった」と話してくれた人は「かなり昔のことだから」と言い、その年月までは覚えていませんでした。
アパートの有無をチェックするのは「ゼンリンの住宅地図」でできそうです。毎年のように出版されていますから古い順から見て行けば、“遺跡”のところにアパートが建った年が特定できる、と考えました。
前回のブログ「あったはずが消えた 志手遺跡」を書く際に、1967(昭和42)年と1975(昭和50)年に発行された「全国遺跡地図(大分県)」(文化財保護委員会編)に「志手遺跡」があることを確認しています。
1975(昭和50)年に発行された「全国遺跡地図(大分県)」には、「埋蔵文化財包蔵地は、県教委が昭和46(1971)年度に実施した分布調査の成果をもとに若干の補正を加え」などと書かれています。
ということは、大分県教育委員会が調査した1971年頃にはアパートは建っていなかったと考えられます。念のために1969(昭和44)年のゼンリンの住宅地図を見てみました。
ここから順を追ってゼンリンの住宅地図を調べて行けば志手遺跡が“幻”と消えた時期が分かる。
そう思って大分県立図書館に行ったのですが、ことは思うように運びません。かえって別の迷路に入り込んだような展開になってしまいました。
(このあとは「続きを読む」をクリックして下さい)
住宅地図に突如登場した志手遺跡
以前のアパートが建てられたのはいつだったのか。大分県教育委員会が調査をしたという1971(昭和46)年の翌年の住宅地図を見てみました。
さらに1974(昭和49)年、77年(昭和52)年、78(昭和53)年と住宅地図を調べてみましたが、変化はありませんでした。
アパートではなく、戸建て住宅ではないのか?
遺跡があると思われる場所の一角に戸建て住宅をつくることになり、その時に発掘調査が行われたのではないか?
このブログの筆者にそんな考えが浮かびました。
1969(昭和44)年の地図では田んぼだった場所に72年(昭和47)年の地図では住宅が建っているように見えます。
戸建てができる時に調査されたのではないか。「アパートが建った時」というのは記憶違いではないか。そんな気がしてしてきた時でした。
1981(昭和56)年のゼンリンの住宅地図に、それまでの住宅地図にはなかった「志手遺跡」が突然現れました。
※(注)このブログの住宅地図には筆者が「志手遺跡」などの表示を加えています。分かりやすくするためです。
さらに1982年、83年、85年、86年、88年、89年、90年と見ていくと、どの地図にも「志手遺跡」があります。
ちょっと面倒くさいと思ったのですが、91年、92年、93年、94年、95年、96年の住宅地図も確認しました。
それにしても、なぜ1981年版の住宅地図から「志手遺跡」が掲載されるようになったのでしょう。
すると、発掘調査が行われたのは1998(平成10)年から99(同11)年頃ということになるのでしょうか。
住宅地図と遺跡地図の食い違い
残念ながら、それはありえません。というのも大分県教育委員会が1993(平成5)年に発行した「大分県遺跡地図」に既に「志手遺跡」はないからです。
大分県遺跡地図には「昭和48(1973)年に県下19市町村にわたる『埋蔵文化財一覧』を刊行し、昭和56(1981)年度から全県下の遺跡詳細分布調査を継続して実施しており、遺跡の所在や範囲等の周知に努めてまいりました」などとあります。
※(注)この文章にある昭和48(1973)年に発行された大分県内の「埋蔵文化財一覧」について、このブログの筆者は大分県立図書館では見つけることができませんでした。大分県教育委員会に問い合わせる必要がありそうです。これは次の宿題とします。
大分県遺跡地図を発行した大分県教育委員会は1981(昭和56)年度から遺跡詳細分布調査を開始し、遺跡地図を出版する1993(平成5)年までには「志手遺跡はなかった」と結論づけているわけです。
すると、1981年から1993年の間に志手遺跡に関する調査が行われたことになります。「アパートの建設」と遺跡調査は関連してなかったということになりそうです。
しかし、大分県教委の調査で「遺跡はない」と分かったのに、住宅地図には「志手遺跡」と記載され続けたのはなぜでしょう。
毘沙門川の時もそうでした(このブログの「地図から消えた『毘沙門川』」も参照ください)。毘沙門川とも住吉川とも呼ばれていた川を大分県が「住吉川」と呼び名を統一した時も、住宅地図にはしばらく「毘沙門川」と書かれてありました。
住宅地図はどこにどんな建物があり、どんな人が住んでいるかを示すのが主目的です。だから、その他の部分は変化がなければそのままでいいと考えた、神経を尖らせてなかったとも考えられます。
空き地にアパートが建つとなれば、住宅地図を書き換えなければいけませんが、そうでなければ前年を踏襲して「志手遺跡」と書いたとも解釈できます。遺跡地図と住宅地図。地図の使用用途によって食い違いが出たということでしょう。
気になる!なぜ1981年の住宅地図に?
面白い証言を聞き込んだと思ったのですが、今回も志手遺跡の“謎”に迫ることはできず、かえって迷路にはまり込むような結果に終わってしまいました。
このブログの途中でも書きましたが、なぜ1981(昭和56)年の住宅地図から「志手遺跡」が記載されることになったのかも、よく分かりません。
リーフレットにある「住吉川流域図」に「志手遺跡」の記載がありました。住吉川の改修工事が完了したのは1982(昭和57)年度で、それを記念してリーフレットが作られたようです。
つまり、リーフレットにある地図は1981年版のゼンリンの住宅地図と同時期のものと考えてよさそうです。
この頃に「志手遺跡」で何かあり、それで改めて地図に載せられるようになったのでしょうか?よく分かりません。「謎が謎を呼ぶとり天せんべい」のようです(大分でやっているお土産品のコマーシャルです)
上の写真はカモの親子が泳ぐ毘沙門川(住吉川)です。
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