4/24/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産⓵高崎山 細る客足

 地震、コロナで細る客足 高崎山

上田さん 今ならどうする?

 

 「大分『志手』散歩」というブログのタイトルからの脱線が続いています。前回までの大分市中心部から、今回は「高崎山自然動物園」に足を延ばしてみました(写真上)。高崎山といえばサル。サルの餌付けで一躍有名になり、大分を代表する観光地の一つとなりました。

 高崎山自然動物園は1953(昭和28)年3月に日本初の野猿公園として開園し、今年70周年を迎えたのだそうです。
 70周年記念誌が作られ、図書館などに寄贈されたというので大分市民図書館で借りてみました(左の写真)。

 ページをめくって、最初に目に飛び込んでくるのが「B群第18代第1位」の「ヤケイ」の写真です。「近年話題になったサルたち」とのタイトルで、「ヤケイ」は「高崎山史上最恐女子」と紹介されています。ヤケイは2021(令和3)年7月30日、メスザルで初めて「ボス」の座に就いたのだそうです。
 
 「ヤケイ」に続いて登場するのが「奇跡の母ザル」「マツバ」。自分の子に加えて、母親から離れてしまった子ザルの面倒も見るようになった。これは「高崎山の70年の歴史の中でも珍しい」と書いてあります。
 ヤケイ、マツバに続いて紹介されているのが、A群、B群、C群の歴代ボスザルです。
 

 入園者数(ヒト)とサルの推移をグラフにすると

 筆者が注目したのは70年記念誌にある二つのデータです。一つは高崎山でサルの餌付けを始めてからのサルの個体数の推移、もう一つは高崎山自然動物園の開園以来の年度別入園者数の推移です。

 それが下の二つのグラフです(データを基に筆者が作成)


 上がサルの数、下がヒトの数です。特に目を引くのが入園者数の推移。右肩下がりです。昭和40年代(1965~1974)には150万人を超えていた入園者ですが、昭和50(1975)年度に145万1773人と150万人を割り込み、昭和54(1979)年度には99万9683人と100万人を下回りました。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

4/12/2023

大分まち歩き⑤住居表示番外編⑤府内町

新町名誕生60年⑤府内の賑わい

 目立つ空き店舗の貼り紙

 

 大分市中心部で新たな住居表示が実施され、新たな町名として中央町、都町、府内町が生まれて60年になります。
 筆者が住む「志手」のことを調べているうちにそんなことを知りました。それがちょっとした発見に思えて、町名の由来などを調べる気になりました。
 そして書いたのが「新町名誕生60年」シリーズです。1回目で「中央町」を取り上げ、2~4回は都町をテーマにしました。今回は「府内町」です。

 
 府内町には「ふるさと大分の百貨店トキハ」の本店があります(上の写真の左側の建物)。大分銀行本店もあります。地元紙の大分合同新聞社本社もあります。大分県庁舎の別館もあります。大分の「都心」と言える地域なのですが、ぶらぶら歩いてちょっと意外な発見がありました。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

4/04/2023

桜ケ丘聖地の桜

 春爛漫 桜ケ丘聖地




 「大分地方気象台のさくら(そめいよしの)の満開を 本日4月3日に観測しました。平年(4月4日)より1日早く、昨年(4月1日)より2日遅い満開となりました」。気象台のウェブサイトをのぞいたら「桜満開宣言」が出ていました。

 上の写真は志手の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)で4月2日に撮影したものです。桜ケ丘聖地も満開でした。桜の下には大きなブルーシートが敷かれ、花見の準備が行われていました。



 1945(昭和20)年の終戦後、墓地は旧陸軍から大蔵省(現財務省)、さらに大分県へと引き継がれました。県が墓地を譲り受けたのは1955(昭和30)年で、その頃多くの桜が植えられたようです。



 桜の木々も大きくなり、桜が満開の時は、ちょっと大げさな表現をすると、上の動画のように墓地全体を覆うような感じになっていました。それが今はというと、随分すっきりした印象になっています。

 桜ケ丘聖地に手が入り、桜の老木などを伐ってツツジの若木を植えたりと再整備が少しずつ進んでいます。



 そのきっかけとなったのが、1人のドイツ人の墓参だったのですが、そのことについては、このブログの「志手界隈案内③変わる桜ヶ丘聖地、そのきっかけは?」(2021年9月16日公開)で少し書いています。

4/03/2023

大分まち歩き④住居表示番外編④都町Ⅲ

新町名誕生60年④都町その3 

アイデア市長とジャングル公園

 

 泥沼にはまり込んだ感じです。都町だけで3回も書くことになろうとは思ってもいませんでした。ちょっと「志手」を離れて大分市中心部をぶらぶらしてこようと思ったのが運の尽きで、ブログのタイトル「大分『志手』散歩」から離れていくばかりです。

 「新町名誕生60年①」の最初に書きましたが、大分に長く住んでいる人にとっては常識に思えることも、新参者には知って驚きということが結構あるものです。

 大分市中心部の「中央町」「都町」「府内町」「荷揚町」の町名・住居表示が60年前から始まったことを知り、ちょっとした発見に思えました。

 では、その前の町名は?新町名の由来は?などと疑問が湧き、調べるうちに新たな発見がいくつかありました。
 
 その一つが大分市長だった上田保氏。高崎山のサルの餌付けをして人気観光地にしたといった程度の知識はありましたが、それだけにとどまらない活躍、功績があったことを改めて知りました。

 「公園市長」とも呼ばれた上田氏が戦災復興計画に基づいて造ったのが、都町の「ジャングル公園」や中央町の「若草公園」などです。今回はジャングル公園などの名前の由来について考えてみたいと思います(※上田氏は上の写真の左側。右は木下郁氏。上田氏については改めて書きたいと思っています)。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

3/23/2023

大分まち歩き③住居表示番外編⓷都町Ⅱ

新町名誕生60年③都町その2 

鉄と石油と夜の街

     

 「新町名誕生60年②都町、栄町、そして」の続編です。

 1962(昭和37)年にできた住居表示に関する法律に基づき、大分市でも翌1963(昭和38)年に新住居表示・新町名の第一号が誕生しました。それが中央町であり、都町であり、荷揚町や府内町であることは前回までに書いています。
      
 前回は「都町」の名前の由来を探ったのですが、残念ながら中途半端な結果に終わってしまいました。

 今回はもう少し視野を広げて「都町誕生」当時の大分市について見てみたいと思います。前回のブログで最後に紹介した「夢町人の街 おおいた都町物語」(松尾健児著 西日本新聞社発行)の引用から今回は始めます。

 「おおいた都町物語」に当時の木下敬之助・大分市長が序文を寄せています。その書き出しの文章が“夜の街”としての都町の成り立ちを簡潔に説明しています。少し長くなりますが、引用してみます。

 序文の見出しは「都町、青春の日々」。「大分市都町は、新産都大分の建設とともに発展してきた歓楽街です。昭和38、39年頃、ネオンが灯り始め、新日鉄大分、昭電などの立地が進むとともに賑わいを増して、別府-大分間の電車が消えていった昭和47年頃は特に集中的に発展、現在(平成4年)の都町のたたずまいができていったと記憶します」

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

3/16/2023

大分まち歩き②住居表示番外編②都町Ⅰ

新町名誕生60年②都町、栄町、そして 

 
 

 新型コロナウイルスの大流行で「
都町」からすっかり足が遠のいてしまいました。外に出てお酒を飲むことも稀になりました。酒の勢いで店をはしごして散財するようなこともなくなり、財布には優しい生活を送っていますが、少々寂しい気分でもあります。

 さて、このブログ「大分『志手』散歩」を書くために久しぶりに都町(上の写真)を歩いてみました。大分一の歓楽街と言われる都町も昼は閑散として白々としています。

 住居表示に関する法律が1962(昭和37)年に作られ、大分市で新住居表示の第一号が誕生したのが翌63(昭和38)年6月1日だったことは「新町名誕生60年①」で書きました。

 第一号は大分市中心部の都町、中央町、荷揚町、府内町などで「新町名誕生60年①」では中央町を取り上げました。2回目は都町です。新町名誕生①でも書きましたが、中央町と都町は旧町名と縁もゆかりもなさそうな新町名が付きました。

 「なぜなのか」。そこに興味が湧きました。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

3/14/2023

大分まち歩き①住居表示番外編①中央町

 新町名誕生60年①中央町に残る竹町

 

 長く大分に住んでいる人にとっては常識であっても、新参者にとっては思わず「へぇー」と声を出して膝を打つような豆知識(トリビア)というものがあるものです。

 志手にはなぜ二つの住所「志手」と「三芳」があるのか。新参者には不思議に思えます。そこで、その関係を少し調べて書いてみたのが、このブログ「大分『志手』散歩」で2023(令和5)年2月13日公開した「ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤」でした。

 その時に大分市の住居表示についても調べていて、ちょっとした発見がありました。1962(昭和37)年にできた「住居表示に関する法律」に基づいて大分市で新住居表示・新町名の第一号が誕生したのが、翌63(昭和38)年6月1日でした。つまり今年で60年の還暦を迎えるわけです。

 だからどうだと言われても困りますが、節目の年に住居表示について改めて考えるのも面白いかなと思ったのです。

 大分市の新住居表示第一号はどこだったのでしょう。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

2/28/2023

2月26日 桜ケ丘聖地にて

2月26日 桜ケ丘聖地にて

 

 
 志手に「志豊会」という住民グループがあります。昔から志手に住む「園田」(※)さんたちが中心になって活動し、志手天神社の夏祭りや年越しの行事などには欠かせない存在です。
 
 ※このブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん その祖先を辿れば」もご参照ください(2023年1月公開)
 
 新型コロナウイルスの大流行で、地域の行事は軒並み中止となり、志豊会も活動の縮小を余儀なくされましたが、コロナ禍でも続けてきたことがあります。それが桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の清掃です。基本的には2月、5月、8月頃に草刈りや樹木の剪定、排水路の掃除などをします。

 かつては遺族会など関係者による清掃活動も行われていたようですが、遺族の高齢化などもあり、地元志手の住民が草刈りなどの作業の中心を担うようになりました。

 左の写真は志豊会による桜ケ丘聖地の清掃作業の記録の一部です。

 2月の清掃が26日に行われました。手元の記録を見ると、去年も26日でした。以前は必ずしも26日だったわけではありません。昨年は土曜日、今年は日曜日と休日で集まりやすかったこともありますが、もう一つ大きな理由があります。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

2/13/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤「三芳」と「志手」 二つの住所

 ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤

二つの住所「志手」と「三芳」 その由来は?



 左の写真は2018(平成30)年12月に撮影したものです。まだ新型コロナウイルスの大流行が起きる前です。
 志手天神社では、大晦日の深夜の参拝者に年越しのそばやお神酒、甘酒をふるまい、新年を祝う催しが恒例となっていました。
 年の瀬となると、写真の「初詣は志手天神社へ」と大きく書かれた案内板が町内のあちこちに掲げられたものでした。新型コロナの影響でここ数年、この新年行事が取りやめになっているのは少し残念なことです。

 さて、今回取り上げるのは天神社の初詣ではありません。写真で注目いただきたいのは「ここは大分市志手5組」と書かれた住所の表示板です。

 Googleマップでこの場所を探すと「大分市三芳」と出てきました。

 「志手」と「三芳」。どちらも住所として使えます。私に届く郵便物の中には「三芳志手」の表記もあります。

 「志手」と「三芳」。二つの住所表記がなぜあるのでしょうか。細かく言えば、志手も三芳も「住居表示に関する法律」に基づく住所ではありません。三芳は「地番」であり、「志手」は通称ということになります。
 
 「志手」は昔から「志手」の地名でした。江戸時代の資料(豊後国郷帳=写真右)にも「志手村」が出ています。石高78石余りの小さな村だったようです
。その歴史を踏まえれば「志手」という住所が正当な名称に見えますが、土地登記簿にある地番は「三芳」です。

 なぜ「三芳」と表記するようになったのでしょう。その由来は明治時代初期の町村合併にありました。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

1/25/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア④昔ながらの狭い道



 ふるさとだよりで知る志手のトリビア④

農村の風情残す 昔ながらの道

  

 今回も前回に引き続き園田逸雄さんの
「セピア色の思い出」からの引用です。1998(平成10)年7月の「ふるさとだより第2号」(志手老人クラブ共和会発行)に掲載されています。
 テーマは「昭和10年頃の志手郷」。当時の地図が添えられています。それが下の写真です。


 この地図を現代の地図と比較して、一つ面白いことに気づきました(志手に昔から住んでいる人には当然の常識といえるものなのですが)
 

  町の骨格となる道路が基本的に変わっていないのです。
 昔の地図に今の風景を重ね合わせると、

 上の写真のような感じになります。クルマがすれ違えないような狭い道があちこちにあります。

 志手が昔のままの農村集落であれば、道路も変わらないのも分かります。しかし、志手は住宅街として変貌を遂げ、住民も増えました。一つの町として大きく成長したのに、道路という骨格は昔のままです。

 うまく表現できませんが、子どもの頃の細い骨格のままに大きくなった、そんなアンバランスな印象を受けます。

 志手地区のマチづくりの旗振り役みたいな人がいたら、また違った姿になっていたかもしれません。町が大きく変わる。そんな転機のようなものがこれまでにあったのではないかとも思います。

 志手の町内をクルマで動き回るのは神経を使いますが、個人的にはこの細く曲がりくねったような道が嫌いではありません。クルマがなかった昔にタイムスリップしたようなノスタルジックな気持ちにもなります。


 志手の昔ながらの道を紹介する短い動画を作ってみました。




 




 




 

1/13/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア③柞原八幡宮との縁

ふるさとだよりで知る志手のトリビア③


古老が語った 柞原八幡宮との縁 


 前回の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁」の最後に、志手の地名の由来に関連して「片手の武士」説を紹介しました。

 このブログ「大分『志手』散歩」の3回目の「志手界隈案内➁天神社」と、5回目の「志手地名あれこれ①大昔、志手は海辺だった」でも、「志手」の語源について書いています。

 今回は「志手」の由来について書く4回目となります。

 それは園田逸雄さんが志手の古老から聞いたという「柞原八幡宮」と「志手」とのかかわりです。1998(平成10)年10月発行の「ふるさとだより第3号」にありました。



 ちなみに上の写真は私が2021(令和3)年10月に柞原八幡宮にお参りしたときに撮影したものです。

 

 さて、ふるさとだよりにある志手の由来は簡単なものです(左の資料)。園田逸雄さんは「ふるさとだより」の第1号から「セピア色の思い出」と題して、子どもの頃に見たり、聞いたり、体験したりしたことを連載しています。
 連載を始めた頃、逸雄さんは75歳ぐらいだったようです。
 連載3回目は「幼き日に聞いた古老の噺」です。
 志手の地名の由来について以下の話を聞いたそうです。

 「遠い昔のことぢゃ、この里は柞原さまの荘園ぢやったそうな、が、その日暮らしの貧しいこの里の人々、節季毎の上納の穀物に難渋して、話合いのうえ、労役による代納を申し出る。つまり『手』にての上納を『志』した。それからのこっちゃ志手の地名は」

 調べる手掛かりは「柞原八幡宮の荘園」です。

 柞原八幡宮に案内板があり、その歴史について書いてありました。案内板には、柞原八幡宮は天長4年(827)に延暦寺の僧金亀和尚が、宇佐八幡宮で千日間の修行を始め、同7年(830)に神告を得たことが契機となって八幡神が勧請されたことに起源すると伝えられている、と書かれていました。
 案内板にはさらに「その後、天皇の命で承和3年(836)に社殿が造営され、平安時代末期には豊後国一宮となりました」などとあります。

 古いお宮であることは分かります。しかし、それ以上の知識は私にはありません。「志手」の地名と関係があるなどとは思ってもみませんでした。
 園田逸雄さんが聞いた「古老の話」をきっかけとして柞原宮について少し勉強した方がいいのかもしれません。また一つ宿題が増えました。



1/03/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア②志手と言えば園田さん そのルーツは?

 ふるさとだよりで知る志手のトリビア②

 志手の園田さん その祖先を辿れば


 
 志手と言えば園田さん。昔から志手に住んでいる人たちの苗字です。志手の老人会「志手老人クラブ共和会」が発行していた「ふるさとだより」は2人の園田さん(英雄氏、逸雄氏)が中心になって作っていました。ふるさとだよりには他にも多くの園田さんが登場します。

 そもそも志手の老人クラブを作ったのは園田さんたちです。平成14(2002)年12月発行のふるさとだより13号にクラブ発足時の記録がありました。


 志手の老人クラブは昭和39(1964)年10月にできました。上の資料はその当時の役員名簿と事業計画書です。役員を見ると、会長の園田茂平さん以下副会長、監事、会計、世話人の全部で13人の名前があります。13人のうち12人が園田姓で、それ以外は1人だけでした。

 (注)ちなみに茂平さんはミカン作りの名人だったとか

 老人クラブが発足した約60年前から志手は随分と変わりました。以前にもこのブログ「大分『志手』散歩」で書きましたが、志手集落の周辺にあった田んぼやミカン畑が開発され、次々にアパートやマンション、戸建て住宅が建てられ、新たに志手に移り住む人たちも増えていきました。

  園田さんはあまり目立たなくなりましたが、地域の行事(志手天神社の夏祭りなど)では今も中心的な存在です。

 園田さんだけの祭りというものもあります。それが1月にある「先祖祭り」。志手の園田の祖先を供養する儀式ということでしょうか。先祖墓(下の写真)の前で行われます。

 この祠の中に御霊璽(ごれいじ・仏教の位牌にあたるもの)がまつられ、「園田御祖藤原高守安鎮座」と書かれているそうです。
 園田さんのご先祖は、飛鳥時代の藤原鎌足に遡る藤原氏一族ということなのでしょうか。


(興味がある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

11/29/2022

ふるさとだよりで知る志手のトリビア①「志手左官」の由来は?

 「ふるさとだより」で知る「志手」のトリビア①

「三佐 大工 上野 ペンキ屋 志手 左官」


 志手の歴史を知るのに良い資料があります。このブログ「大分『志手』散歩」の志手ポンカン連載1回目の「志手ポンカンは日本一⁉」でも紹介した「ふるさとだより」です。

 「ふるさとだより」は志手の老人クラブが発行していました。手元には平成10(1998)年4月発行の第1号から平成17(2005)年5月発行の17号「特集戦後60年」まであります。

 
 ふるさとだよりを読み返してみて、ちょっと面白いな思ったものがいくつかありました。それを紹介していきたいと思います。

 1回目は園田逸雄さん(故人)が書いた「郷土の先人 園田秀五郎翁をしのぶ」(第5号・平成11年4月発行)です。

 
 
副題は「志手左官の由来について」。文章の冒頭に見出しで紹介した「三佐大工、上野ペンキ屋、志手左官」という言葉が出てきます。
 第二次大戦前に大分で言われた(特に職人仲間では日常にいわれる)言葉だそうです。

 三佐、上野、志手は地名、大工、ペンキ屋、左官は職業です。大分市の三佐地区には大工が、上野地区には塗装業者が、志手には左官が多かったということでしょうか。

 府内城下町の昔の町名にある「塗師町」「大工町」といった感じでしょうか。では、なぜ志手は左官を仕事にする人が多かったのでしょう。

 そのカギを握る人物が園田秀五郎というわけです。上の写真は園田秀五郎翁の頌徳碑があったという場所です。今は頌徳碑はなく、碑があったであろう場所を黒く塗ってみました。

 園田逸雄さんの文章で秀五郎翁の足跡をたどりたいと思います。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

11/18/2022

志手ポンカン➃幻になる日も近い?

減る生産者 まぼろしになる日も近い⁉


 「志手ポンカン」連載の4回目です。1回目は志手ポンカンが世に出たいきさつ、2回目は新聞記事に見る志手ポンカン、3回目は志手ポンカンの特徴について、それぞれ簡単に書いてきました。
 今回は連載の締めくくりとして志手ポンカンの現状を見てみたいと思います。
 
 

 志手ポンカンは今どれくらい作られているのでしょうか?上は
2013(平成25)年2月1日付の大分合同新聞です。筆者が確認できた「志手ポンカン出荷」の最後の記事です。記事によると、この時は7軒の農家が合計約11トンを生産しています。最盛期の4分の1といったところでしょうか。今はこの時よりも少なくなっているのは間違いないでしょう。

 生産者が減り、農地が減り、「不知火(デコポン)」や「はるみ」などの登場でポンカンの魅力も相対的に低下しました。このままいくと志手ポンカンが「まぼろし」になる日も近いのかもしれません。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

11/08/2022

志手ポンカン③ポンカンの効用は

ビタミンCたっぷりの冬の味覚  

 

 秋の深まりとともに青々としていたポンカンの果実も徐々に黄色く色づいてきています。今年は色づきが早い方なのでしょうか。左の写真は11月7日に撮影したものです。

 ポンカンもいろいろあります。ウィキペディア(Wikipedia)によると、「高梢系」の「吉田」「今津」「薩州」と、「低梢系」の「太田」「森田」「興春」があるそうです。

 ちなみに高梢系は果実が腰高で大果になり、低梢系は果実がやや扁平で小果、種が少ないという特徴があると書いてあります。

 志手ポンカンはどっちの系統でしょうか。志手ポンカンは種が結構あります。ならば種が少ない低梢系でなく、高梢系でしょうか。では果実の大きさはと見ると、大きなのも小さなのもあったりします。素人にはよく分かりません。

 連載2回目の前回は、志手ポンカンに関する地元紙・大分合同新聞の記事を集めて紹介しました。地元紙の記事では志手ポンカンをどう説明したのでしょう。

 1993(平成5)年から2001(平成13)年までは9年連続で掲載された「志手ポンカンの出荷」の記事を改めて見直してみました。

 記事の書き出しを古い順に並べてみると、

 

甘い香りとビタミンCたっぷりの果実がおいしいと評判の(1993年)

 甘い香りと豊富なビタミンCで人気がある(1994年)

 冬の味覚(1995年)

 ビタミンCたっぷりの冬の味覚(1996年)

 フレッシュな冬の味覚(1997年)

 ビタミンCたっぷりの冬の味覚(1998年)

 ビタミンCたっぷりの冬の味覚(1999年)

 冬の味覚(2000年)

 ビタミンCたっぷりの冬の味覚(2001年)

 「ビタミンC」がキーワードのようです。ただ、これでは志手ポンカンが“何者か”を特定する材料にはなりません。

 一般にミカン類はビタミンCが豊富なイメージがあります。志手ポンカンの特徴を語っているようで語っていない「ビタミンCたっぷりの」という形容詞は何に由来するのでしょう。一つ心当たりがありました。

(興味がある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

11/03/2022

志手ポンカン➁いけるぞ!志手ポンカン

 いけるぞ!志手ポンカン 見出し躍る


 志手ポンカン連載1回目の前回は、温州ミカンから志手ポンカンへの転換の軌跡をたどりました。志手の生産者18人による共同出資で「志手柑橘生産組合」が作られ、共同出荷のための選果場が建てられました。志手ポンカンの生産・販売の体制が整う中で、地元の新聞やテレビにも話題として取り上げられるようになりました。

 
 私が見つけた一番古い新聞記事は、大分合同新聞の昭和57(1981)年2月21日付朝刊です。生産組合を作り、選果場を建設して最初のポンカン出荷が行われた時だと思われます。

 
 当時の大分市長を訪ね、志手ポンカン1箱を贈呈したという話です。記事には、志手ポンカンを本格的に生産・出荷し始めた最初の年とあります。
 もらったポンカンを試食した市長は「鹿児島などの本場のものより、味も香りも良い。“志手ポンカン”ではなく“大分志手ポンカン”として売り出してください」と言ったとか。記事にあります。
 そこで新聞の見出しも「いけるゾ『志手ポンカン』」「市長も試食 太鼓判」となかなか威勢の良いものになっています。

 志手ポンカンに関する大分合同新聞の記事はまだあります。もう少し紹介してみようかと思います。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

10/28/2022

志手ポンカン①志手ポンカンは日本一

 志手ポンカンは日本一⁉

 志手ポンカンを絶賛した著名人がいたそうです。

 その人とはキヤノン創業者で、大分県蒲江町(現佐伯市蒲江)出身の御手洗毅氏。同氏が大分市の大分文化会館で大分合同新聞の記者と食事をした際、デザートに出たポンカンが美味しいと言い、産地を尋ねた。
 そして、志手産であることを知り「大分県の一村一品で一番うまいのは志手のポンカンである」と言った。それが新聞記事となって志手ポンカンの評価を上げ、日本一とも評されるようになった。

 そんな話があるようです。「大分キヤノン」が設立されたのが1982(昭和57)年と言いますから、御手洗氏の来県と記者との懇談はその前後ではないか。そう考えて新聞記事を探してみましたが、残念ながら見つけられませんでした。

 御手洗氏の逸話があったのは、志手地区の老人会が発行していた「ふるさとだより」に掲載された「日本一うまい志手ポンカンの話」の中です。まずはそれを紹介しましょう。

 
 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

10/20/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記⑥ミカンは神代の昔から?

 ミカンは神代の昔から?

 
 
 志手に残る農村風景を紹介するためにミカンの話を書き始めましたが、書き進めるうちに主客が入れ代わってしまいました
志手の農村風景はどこかに引っ込んでしまい、ミカンだけが表舞台に立っている感じです。

 筆者が当初考えていた展開とは違ってきましたが、志手ポンカンにつなげるまでミカンの話を続けたいと思います。

 さて、大分ミカンの先駆者として岩田丑太郎を紹介しましたが、大分県内では岩田翁の取り組みの遥か以前からミカン栽培が行われていたということです。

 では、始まりはいつ頃なのか。「大分みかんのあゆみ」と題した年表があります。その最初に「神武天皇 皇登山(水晶山)に登らせ給い、土民ミカン献上する」とあります。

 

 水晶山というのは大分県津久見市にあった水晶山でしょうか。とすれば大分では「神代の昔」からミカンが栽培されていたことになります。にわかに信じがたい話ですが、当時の資料でも残っているのでしょうか。

 もっと現実的なものとして紹介されているのが「尾崎先祖木」です。私が年表に線を引きました。保元2年(西暦1159年)に又四郎蔵富住、松川より柑橘樹移植する。これが尾崎先祖木と呼ばれるもので、国の天然記念物に指定されているのだとか。ただ、このミカンは現在の私たちがよく食べている温州ミカンとはちょっと違うようです

(「大分みかんのあゆみ」には「寛永18年(1641)蔵富、茶屋本に温州を植える」とあります)。

 ともかくも随分昔から大分県内ではミカン栽培が行われてきたことは間違いないようです。ただ、ミカン生産が激増するのは太平洋戦争後の昭和30~40年代です。その結果、生産過剰による価格の暴落が起き、減反(生産調整)政策が実施されることになります。

 そのあたりのことを昭和46(1971)年に発行された冊子「大分みかん」を基に振り返ってみようと思います。ちなみに年表の「大分みかんのあゆみ」はこの冊子にあります。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

10/15/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記⑤ハイキングコースで売り出す

ミカン山でハイキングはいかが? 

 
 「大分ミカンの先駆者」である岩田丑太郎の頌徳碑が昭和31(1956)年に建てられたことは前回紹介しました。この年の大分市報にはミカンに関する話題がもう一つありました。こちらも書いておきたいと思います。
 
 右の写真は
昭和31(1956)年9月17日付の大分市報245号です。「蜜柑山は大豊作」と主見出しがあり、その横に「家族で楽しめるハイキングコース」とあります。

 市報に掲載された写真に白い線を引いたのは私です。これがミカン山のハイキングコースでしょう。岩田丑太郎の頌徳碑が建つ丸尾台地から志手、椎迫へとつながっています。

 当時の大分市のミカン生産の中心地です。「イケイケどんどん」といった感じで、ミカン栽培は拡大の一途をたどっていた時期のようです。大分ミカンの黄金期ともいえます。その勢いに乗ってミカン山をハイキングコースとして売り出し、農業と観光の振興の一石二鳥を狙ってはどうか。そんなアイデアを思い付いた人が市役所にいたようです

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

10/06/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➃先駆者・岩田丑太郎の碑

 高台から街を眺める岩田翁の頌徳碑


 
「大分ミカンの創始者」である岩田丑太郎についても一言触れておく必要があるでしょう。大分県立図書館で「大分今昔」とは別の資料を見つけました。それが右の写真です。

 大分市西部地区の史跡紹介マップです。東は大分市中心部に近い春日神社や西新町天満社から、西は別府市寄りの高崎山周辺まで22の史跡を紹介しています。その中に3人の先達が含まれています。それが右の表紙の3人。右端が岩田丑太郎です。

 (興味ある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

10/02/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記③大分連隊がきっかけに

  なぜ、ミカン?「大分今昔」に解説が

 
 
 大分合同新聞社から「大分今昔」という本が出ています。
 昭和39(1964)年に初版発行、昭和58(1983)年に再版が出ています。大分県立図書館には再版本があります。左の写真がその中表紙と目次です。
 目次を見ると「昭和通りかいわい」から「桃園かいわい」まで大分市内の25の“町”が出ています。この中の15番目の「王子町かいわい」に志手でミカン栽培が始まった経緯が出てきます。

 (興味ある方は「続きを読む)をクリックしてください)

9/30/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➁栽植記念の石碑残る

 ミカンづくりの始まりは?

 
 志手地区でミカン作りはいつ始まったか。最初に答えを言ってしまえ明治44年です。証明するものがあります。その一つが右の写真です。

 園田官造さんがミカン栽培を始めた記念に作ったそうです。官造さんの子孫にあたる人が持っていました。

(興味ある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

9/29/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記①ミカンの銘産地・志手

初心に戻って まちを歩けば


 気が付けば1年ほど休眠しておりました。久しぶりにBloggerにログインしてみると、「志手界隈案内➃桜ケ丘聖地その5」が書きかけのままになっておりました。
 去年はちょっと力が入りすぎて、息切れしたようです。そこで今回は無理せず、ぼちぼちとやっていくことを第一とすることにしました。

 再開第一弾のテーマは「志手に残る農村風景」です。初回のブログ「志手はどこにある?」の冒頭に「どこか残る『村』の風情」と見出しを入れました。そして「町内を歩くと昔の『名残り』といったものを発見できます」と書きました。この昔の名残りをあらためて紹介したいと思います。

 その一つがポンカンです。初回の「志手はどこにある?」でも書きましたが、志手は「ミカンの産地」として知られていました。中でも有名となったのが志手ポンカンです。
 
 冒頭の写真は志手地区のすぐ後ろにある丘陵に実るポンカンと大分市街地です。志手でミカン、ポンカンを生産する人は少なくなりました。ミカン畑も注意して探さないと、どこにあるか分からないほどです。

 左の写真は住宅地の中にある数少ないミカン園地です。こちらもポンカンが実を付けています。ほかに温州ミカンや不知火(デコポン)も植えられているようです。
 さて、次回以降に志手のミカンの歴史や志手ポンカンにまつわるエピソードなどを少しづつ紹介していきたいと思います。




 





志手ぶらぶら路上観察記⑧キオビエダシャク

  やたら目につくこの蝶は  やたらと目に付くチョウがいると思ったら、チョウではありませんでした。ガ(蛾)でした。ネットでちょっと調べてみたら「キオビエダシャク」という名前が分かりました。  マキノキの下の雑草を刈る作業をし ていたら、このガがあちこちで見つかりました(左の写真)...