3/16/2023

大分まち歩き②住居表示番外編②都町Ⅰ

新町名誕生60年②都町、栄町、そして 

 
 

 新型コロナウイルスの大流行で「
都町」からすっかり足が遠のいてしまいました。外に出てお酒を飲むことも稀になりました。酒の勢いで店をはしごして散財するようなこともなくなり、財布には優しい生活を送っていますが、少々寂しい気分でもあります。

 さて、このブログ「大分『志手』散歩」を書くために久しぶりに都町(上の写真)を歩いてみました。大分一の歓楽街と言われる都町も昼は閑散として白々としています。

 住居表示に関する法律が1962(昭和37)年に作られ、大分市で新住居表示の第一号が誕生したのが翌63(昭和38)年6月1日だったことは「新町名誕生60年①」で書きました。

 第一号は大分市中心部の都町、中央町、荷揚町、府内町などで「新町名誕生60年①」では中央町を取り上げました。2回目は都町です。新町名誕生①でも書きましたが、中央町と都町は旧町名と縁もゆかりもなさそうな新町名が付きました。

 「なぜなのか」。そこに興味が湧きました。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)
 
 都町の料飲街の傍らに公園があります。公園の門柱というのでしょうか、公園を囲うように立っている柱に江戸時代の町名が書かれたプレートが貼ってあります。
 「塗師(ぬし)町」「寺町」「今在家町」「旧常妙寺」。常妙寺はこの公園の横にありました。常妙寺の隣りには本光寺がありましたが、この二つのお寺は随分前に移転したようです。
 塗師町のプレートにはいたずら書きのようなものがあります。酔客の仕業でしょうか。
 
 都町にはこのほかに「堀川町」「茶屋町」「魚町」「白銀町」「細工町」「西小路町」「下柳町」「下紺屋町」の旧町名のプレートがあります。こうした江戸時代の町名は新住居表示が実施される前まで残っていたようです。

 「新町名誕生60年①中央町」でも使った1956(昭和31)年の地図で都町を見てみましょう。この地図は同年に出版された「大分市史下巻」に掲載されています。
 

  地図を見ると「堀川町」「茶屋町」など江戸時代から続く町名がこの頃も引き継がれていることが分かります。


 それがなぜ、新住居表示の実施時に「都町」にすることになったのでしょう。都町の名前の由来は何なのでしょう。その経緯に少し触れた本がありました。1992(平成4)年に西日本新聞社から出された「夢町人の街 おおいた都町物語」(松尾健児著)です。

 都町の由来について、この本は次のように書いています。
 
 市が住民に対して町名変更を告げたのは昭和37年。市から提示された町名案は三つだった。将来の発展を期待して「都町」と「栄町」、そして、もう一つ。だが、それを知る住民はもういない。
 当然、反対する声も上がった。(略)住民の間でどんな話合いがなされたのか。いきさつは人々の記憶から消えた。市役所に「住民の総意により、異論なく都町と決定した」と記された決裁書類が残っているだけである。
 はたして市役所職員のだれが「都町」を発案したのか。それは当時の上田保市長だったのか。取材の度にいろんな人に尋ねてみたが判明しない。だが、「名付け親不明」もまた、都町の魅力なのである。

 最後の一文は取って付けたような感じがしないでもないですが、都町の由来を突き止められなかった以上、文章をこう結ぶしかなさそうです。

 このブログの筆者もこれ以上の材料を見つけられませんでした。



 
 
 


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