3/14/2023

大分まち歩き①住居表示番外編①中央町

 新町名誕生60年①中央町に残る竹町

 

 長く大分に住んでいる人にとっては常識であっても、新参者にとっては思わず「へぇー」と声を出して膝を打つような豆知識(トリビア)というものがあるものです。

 志手にはなぜ二つの住所「志手」と「三芳」があるのか。新参者には不思議に思えます。そこで、その関係を少し調べて書いてみたのが、このブログ「大分『志手』散歩」で2023(令和5)年2月13日公開した「ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤」でした。

 その時に大分市の住居表示についても調べていて、ちょっとした発見がありました。1962(昭和37)年にできた「住居表示に関する法律」に基づいて大分市で新住居表示・新町名の第一号が誕生したのが、翌63(昭和38)年6月1日でした。つまり今年で60年の還暦を迎えるわけです。

 だからどうだと言われても困りますが、節目の年に住居表示について改めて考えるのも面白いかなと思ったのです。

 大分市の新住居表示第一号はどこだったのでしょう。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)


 大分市のホームページに住居表示実施地区一覧表があります(上の表)。町ごとに実施年月をチェックしていくと、アイウエオ順に「寿町」
「末広町」「勢家町」「高砂町」「中央町」「千代町」「中春日町」「荷揚町」「西春日町」「東春日町」「府内町」「都町」が、1963(昭和38)年の実施第一号だったことが分かります。

 大分市中心部から新しい住居表示が実施されていきました。第一号の中で面白いのは「中央町」と「都町」です。従来の町名とは縁もゆかりもなさそうな町名が選ばれています。なぜでしょう。

 中央町と名前を変える前の地図があります。1956(昭和31)年発行の「大分市史下巻」に掲載された大分市の地図です。


 現在の中央町周辺をちょっと拡大してみました。地図から「竹町」「桜町」「中柳町」「本町」「大工町」「相生町」「京町」「上柳町」「清忠寺町」「西町」「西新地」「東上市町」「名ヶ小路」「中上市町」「西上市町」「鍛冶屋町」「笠和町」「西新町」の18の町名が読み取れます。

 1997(平成9)年4月発行の「大分市・消えた地名―その由来と暮らし」(加藤貞弘著 大分合同新聞社)には、中央町の誕生とともに消えた町名として、西新地と相生町を除く上記の16町に加えて「室町」「上紺屋町」をあげています。

 この中では「竹町」と「本町」に注目したいと思います。竹町は江戸時代から商業で栄えた町だったそうです。というのも竹町が府内の中と外をつなぐ道に面していたからです。



 「笠和口(上の地図の左の赤丸)という府内城下町の玄関が繁盛するに従い(軍用道路が)府内商業の中心路に転身し、商店街となって竹町が誕生する」と、前述の加藤貞弘著「大分市・消えた地名」は書いています。

 ちなみに「竹町」の由来について加藤貞弘著の「大分市・消えた町名」には以下のような解説があります。
 「竹やぶがあった」「竹屋が並んでいた」「中堀の碩田橋への渡り道に竹を敷いていた」「竹矢来があった」など諸説あるが、「縁起が良い竹を旁示した佳名の町名である」と考えるのが適切だろう。 

 ※旁示とは榜示(ぼうじ)のことでしょうか。榜示は「領地、領田などの境界を示すために石、杭、札などを立てること、または立てたもの」「築垣」などとあります。

 要するに「大分市・消えた町名」の説明は「竹にあやかって町名を付けた」ということだと思います。

 さて府内の城下町にあっていち早く商業が発展した竹町に続いて本町でも商業が盛んになってきます。

 本町発展の大きな力となったのが1911(明治44)年の大分駅開業です。東西に伸びる竹町に対し、本町は南北に伸びる通りでした。本町の南端が大分駅に向かって開かれ、駅の乗降客を呼び込むのに適していました。

 再び加藤貞弘著「大分市・消えた町名」から引用します。
 本町の本来の区画は竹町と忠文堂の角までの間であるが、大正時代の終わりごろに本町商店街連合会が組織され、外堀から大工町に至る道筋を本町通の通称として、1丁目から5丁目まで区分けし、竹町と連結する商店街を形成した。

 駅の開業と鉄道の発展が本町商店街の成長を促しました。


 現在のセントポルタ中央町が旧本町通りとなるわけです。本町商店街は中央町の誕生とともにその名前を変えることになったのですが、なぜ竹町はそのまま残ったのでしょうか。

 これについても「大分市・消えた町名」に解説があります。「昭和38年新住居表示で中央町と変更されたとき、『竹町』を潰すのかと市民の反発を招き、市も『竹町商店街』と通称を認めざるを得なかった。最近では市の肝いりで『ガレリア竹町』と愛称するようになった」

 「本町」や「竹町」で町名を統一するのは異論があって難しい。妥協策として「中央町」が捻りだされた。そんな想像もできなくはありません。

 いずれにせよ、本町商店街は町名変更に伴って「セントポルタ中央町」と名前を変えたが、竹町が変えなかったということが分かりました。

 恥ずかしながら、これを調べるまでの筆者は竹町と旧本町を混同していました。アーケートがある通りが全部「竹町」なのかと思っていました。今回調べたことで大分市民としての常識を一つ得ることができました。


 余談ですが、「大分市・消えた町名」の受け売りをもう一つ。本町は幕末の文久2年(1862)に改称されたもので、慶長の府内城下の町割では「革屋町」(上の写真)であった。細工町、大工町と続く職人の町で皮革を扱っていた、ということです。
 
 



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