6/21/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験①

 園田英雄さん 消えない戦争の記憶①

「戦時下、占領下の日常」より



 2022(令和4)年9月に出版されていたとは。大分市内の書店で偶々見かけるまで半年以上も知りませんでした。それが上の写真の書籍。「戦時下、占領下の日常━大分オーラルヒストリー」(エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳、みすず書房発行)です。

 原著は「Japanese Reflections on World WarⅡ and The American Occupation」です。大分県立図書館に1冊あります。2017(平成29)年に出版された、この本のことは園田英雄さん(故人)の家族の方に教えてもらいました。

 園田英雄さんは「志手老人クラブ共和会」が発行していた「ふるさとだより」の編集者でした。

 ※「ふるさとだより」については、このブログで何回も題材に使わせてもらっています。例えば「ふるさとだよりで知る志手のトリビア①志手左官の由来は?」などです。


 この本に園田英雄さんが幼いころに描いた絵が使われているというので、この本が図書館にあることを確認して、見に行きました。それがこの本との出会いだったのですが、英語で書かれていますので、読もうという気になりません。

 この本の著者は立命館アジア太平洋大学(APU)教授でしたので、APU関係者が翻訳本を出してくれればいいがなどと漠然と思っていました。

 日本語で読みたいと思っていた、その本が書店の棚にあったので、すぐに購入しました。翻訳本でも園田英雄さんの絵がありました。

 その絵とともに園田英雄さんの言葉があります。ちょっと長いですが、そのまま引用します。

 私(園田英雄)が生まれたのは1931(昭和6)年で、その年に満州事変が起こっています。小学校1年の1937(昭和12)年には日中戦争が始まり、小学校5年の1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まった。そして中学2年の1945(昭和20)年に太平洋戦争が終わりました。私の青年期が戦後復興の時代だとすれば、幼少年期の15年は戦争の時代でした。
(「戦時下、占領下の日常」第3章「大分の男も戦争へ」より)


 そして、書類の中から大きな絵を取り出してポーター教授らに見せた。それが小学校3年の時に描いたという上の写真の絵です。日中戦争で日本の戦闘機が中国機を撃墜する様子が描かれています。

 園田英雄さんの世代は「戦時下」であることが日常であり、「軍国少年」であることが普通だったといえます。そして、戦後の「占領下」で、それまでと一八〇度変わった日常を体験した特異な世代ともいえます。

 この本の「はしがき」に「1930年代から50年代初めにかけて日本で戦争や占領を経験した人々の個人的な物語は時の経過とともに間もなく消えてしまうだろう。筆者たちはこのことを念頭に、できるだけ多くの口述による戦争の記憶を聞き書きしようと思い立った」と執筆の動機が述べられています。

 その結果、「インタビュー相手のリストは雪だるま式に増えていき、40人以上に上った」そうです。

 こうしたインタビューと資料の収集によって、本書では戦争期と米軍占領期の大分の暮らしや庶民の思いが丁寧に描かれていると思います。
 
 この本によって残された園田英雄さんの記憶をたどる前に、本書の構成について簡単に見ておきたいと思います。


 第1章の「すごい、ただもうそれだけ」という見出しは、
原著ではSomething Big Was Going to Happen(Saiki Goes to War Footing)となっているようです。「何かどでかいことが起きている。佐伯が戦争に進む足場、拠点になった」。ざっくり訳すとこんな感じでしょうか。

 日本が米ハワイの真珠湾攻撃の準備を進める際に大分県佐伯市が重要な拠点の一つとなったことを書いています。大分の人間にとっては原題の方が分かりやすいかもしれません。

 ※この本に佐伯市平和祈念館やわらぎの裏手にある石碑「連合艦隊機動部隊真珠湾攻撃発進之地」の写真もあります

  園田英雄さんの証言は「第3章 大分の男も戦争へ」「第6章 空から火が」「第9章 大きな代償」「第14章 負けたんじゃない、戦争が終わっただけ」「第15章 空腹、混乱、そして恐怖」「第16章 悪魔が上陸してきた」「第18章 占領が確立する」に出てきます。

 次回は園田さんの証言を見てみます。



 

6/17/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑥遊歩公園2

遊歩公園改造構想は立ち消えに

道路か公園か 軍配は道路に⁉

 

 「アイデア市長」と呼ばれた上田保氏(故人)の業績をたどって遊歩公園を訪ねました。前回の「大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑤遊歩公園1」では、上田さんが設置した彫刻について見てみました(左のイラスト参照)。

 今回は遊歩公園の大改造計画について書こうと思います。結論を言えば遊歩公園を大きく変えようという動きが一時盛り上がったようですが、そのうち立ち消えになりました。

 1945(昭和20)年の敗戦からの復興を進めた上田さんは、焼け野原となった大分市中心部に色んな公園を造りました。その公園が木下敬之助市長の時代に一新されました。

 木下市長といえば、このブログの「大分まち歩き/アイデア市長の遺産③高崎山Ⅲ 存廃論議」に登場しています。この時は、木下市長は一時「高崎山自然動物園」の廃園も検討したという新聞記事を紹介しました。

 ウィキペディアをみると、木下氏は1991(平成3)年から2003(平成15)年まで3期12年市長を務めています。木下市政は敗戦・復興から半世紀の節目を迎える中で、新たな時代(21世紀)を見据えて、色んなものが見直される時期だったともいえそうです。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

6/09/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑤遊歩公園1

 「大分の歴史」語る彫刻 遊歩公園 



 「アイデア市長の遺産」と題して、1947(昭和22)年から1963(昭和38)年まで4期16年にわたって大分市長を務めた上田保氏(故人)の遺したものを見てきました。

  野生のサルを餌付けして観光の目玉にする。上田さんのアイデアは「高崎山自然動物園」となって多くの観光客を集めました。高崎山のサルと上田さんは一躍有名になり、「アイデア市長」として名を馳せました。

 上田さんにはもう一つの異名がありました。それが「公園市長」です。米軍の空襲で焼け野原となった大分市中心部の復興計画に沿いながら、上田さんはユニークな公園を生み出しました。それが若竹公園、若草公園、ジャングル公園で、上野の墓地公園もそうです。

 ジャングル公園については「大分まち歩き④住居表示番外編④都町Ⅲ」で紹介しています。

 上田さんが造った代表的な公園にはもう一つ「遊歩公園」があります。どんな公園なのか。冒頭の短い動画にまとめてみました。

 上田さんにとって、遊歩公園に彫刻を据えることは晩年の大きな楽しみだったのではないかと思います。左のイラストにある彫刻はすべて上田さんが関わっています。

 「西洋音楽発祥記念碑」「西洋医術発祥記念像」「西洋劇発祥記念碑」「伊東ドン・マンショ像」(天正遣欧少年使節)…

 彫刻をながめ、横にある案内板を読むと、「西洋」と出会い、それを受け入れ、文化や貿易の先進地となった郷土の歴史を語る上田さんの顔が浮かんできそうです。

 上田さんは自分たちが生まれ育った大分にもっと誇りをもってほしいと思ったのかもしれません。




  上田さんは市長退任後、高崎山自然動物園の真ん前に「大分生態水族館『マリーンパレス』」を開館します。この時も上田さんのアイデアマンぶりが発揮されます。

 世界初の「回遊水槽」を造りました。ドーナッツ型の水槽の中に水の流れを作り、それに乗って魚が泳ぐ。斬新な仕掛けでした。

 マリーンパレスの開館前後のことは「大分まち歩き/アイデア市長の遺産⓵高崎山 細る客足」で少し紹介しています。

 このユニークな水族館も人気を呼び、収益を上げます。社長の上田さんは儲けの一部を地域に還元するという意味でしょう、毎年のように彫刻を大分市に寄贈しました。

 上のイラストの「健ちゃん」は1969(昭和44)年設置でマリーンパレス創業5周年を記念して寄贈したものです。

 続いて遊歩公園横の県庁前広場にある「西洋音楽発祥記念碑」は1971(昭和46)年でマリーンパレス創業7周年、「西洋医術発祥記念像」が1972(昭和47)年の創業8周年、「育児院と牛乳の記念碑」が1973(昭和48)年の創業9周年、「西洋劇発祥記念碑」が1974(昭和49)年の創業10周年、「伊東ドン・マンショ像」が1975(昭和50)年の創業11周年と次々に寄贈されています。

 中世の府内にキリスト教の宣教師とともに入ってきた西洋文化と当時の人々とのかかわりがテーマとなり、さまざまな「大分の歴史」が分かる彫刻の散歩道となっています。

 散歩しながら歴史も学べるユニークな公園なのですが、あまり歩いている人を見かけません。
 

 両側に2車線の道路が走り、その間の広い中央分離帯が遊歩公園になっています。その中央分離帯も一本につながっていればまだいいのですが、あちこち道路で分断されています(上のイラストを参照ください)。

 公園ができた1950(昭和25)年頃とはクルマの往来が天と地ほど違います。クルマは急増し、交通量は増し、道を横断するのも容易ではなくなりました。利用者が減るのも自然なことで、このままではもったいないと活性化策が探られることになります。それが26年前のことでした。

 26年前の遊歩公園改造の動きは次回に紹介します。


5/30/2023

志手ぶらぶら路上観察記①自販機

 ひと手間かけたピザの自販機



 コインランドリーの駐車場の片隅に自動販売機が2台据えられているのを見つけました。
 1台の自販機に「毎日お店で焼き上げた手作りパン販売機」「毎日直送」と書いてあったので、試しに買ってみることにしました。それが5月28日。上と右の写真はその時に撮影しました。

 購入したのはプレミアム食パン(3枚入り)で170円。ほかに黄金メロンパン180円、くるみぱん170円、あらびきウインナー170円など7種類が販売されています。

 隣の自販機にイラストを描いていた人が、パンは「伊三郎製ぱん」で、もう一方は別府の“かみん”のピザだと教えてくれました。

 あらためて自販機を見てみると「花民」「CAMIN」と描いてあります。

 自販機の上の方に「花民の冷凍ピッツァをご自宅で」と書いてありました。

 筆者は伊三郎パンは知っていましたが、花民のピザは知りませんでした。

 ネットで検索すると、例えば「食べログ」に「新窯ピッツァ&Gallery花民(カミン)」について「オススメ400度の窯で焼く本格的な石窯ピッツァを、くつろぎのアート空間で満喫」などとあります。

 さらに見ていくと、少し詳しい話が「BE BEPPU(ビーベップ)」の「新窯ピッツァ&Gallery花民」にありました。

 「押し花工房 花民」を出発点に、そ
こに人が集まり、お茶を出したりするうちに、本格的な「食とアートの空間」を目指すようになったとか。

 開店当初はスタッフを雇い、ピザやパスタを出していたが、オーナーが一念発起し、ピザづくりを学ぶために湯布院の「櫟の丘(くぬぎのおか)」に1年間修業に行った、とのエピソードもありました。

 筆者が知らないだけで、結構有名な店のようです。上の写真は5月29日撮影。自販機の装飾もそろそろ終わる頃のようです。自販機がオープンしたら、ピザも買ってみようと思っています。

 

5/21/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産④高崎山番外編 田ノ浦ビーチ

 田ノ浦ビーチ 絶滅免れた海浜 



 開園70周年を迎えた国立公園高崎山自然動物園から約1キロの田ノ浦ビーチに足を延ばしてみました(上の動画)。今回のタイトルに「アイデア市長の遺産④高崎山番外編」と付けたのは、前回のブログ「アイデア市長の遺産③高崎山Ⅲ 存廃論議」と関係しているからです。

 高崎山との関連はあとで述べるとして、ここでは「田ノ浦ビーチ」に関する筆者の“発見”について最初に書いておきます。というのも、このブログの目的は、長く住んでいる人には常識でも、新参者にはちょっとした発見に思えることを書き留めていくことだからです。

 
田ノ浦ビーチがオープンしたのが2000(平成12)年7月でした。直前の「市報おおいた」6月15日号(上)にお知らせがあります。

 大きな写真が2枚。1枚は田ノ浦ビーチの全景を写したものです。海に突き出た人工島が見えます。パームツリー(ヤシの木)があちこちに植えられ、南国ムードが漂う現在(下の写真)とは印象が異なり、いかにも出来立てという感じが出ています。


 筆者がちょっとした発見だと思ったのは、仕上げを待つ田ノ浦ビーチの無骨な外観ではなく、市報にあった一文です。「田ノ浦」は「大分市近郊に残された唯一の自然海浜」と書いてありました。逆に言えば、田ノ浦を除く大分市の自然海浜はすべてなくなってしまったということです。

 さらりと書かれている一文にちょっと驚かされたのですが、考えてみれば、大分市の海岸線が大規模に埋め立てられ、鉄と石油の一大工業地帯となったことは、このブログでも書いていました※。

 ※大分まち歩き③住居表示番外編⓷都町Ⅱの「鉄と石油と夜の街」(2023年3月23日公開)をご参照ください。

 「鉄と石油と夜の街」で使った写真「大分県の新工業地帯」に「田ノ浦ビーチ」を加えてみました(下)。


 飛び地になっている田ノ浦は埋め立てを免れました。海岸の埋め立ては大分市に限ったことではありません。全国各地で工場誘致や港湾整備、その他さまざまな目的で海辺がコンクリートなどで固められていきました。

 失われた海浜に代わるものとして人工的なビーチが造られる。これも大分市に限ったことではありません。

 経済成長を最優先する時代には海を埋め立てるメリットは大きなものでした。成長を遂げ、余暇を楽しめる時代になると埋め立てのデメリット、海浜を失ったことの大きさといったものを感じるようになります。

 遠い将来を見据えて物事のメリット、デメリットを勘案しながらいろんなことができれば理想でしょうが、神ならぬ身の人間ではそうもいきません。高崎山自然動物園もそうでした。

 野生のサルの餌付けに成功し、サルを身近に見ながらエサもやれる珍しさが人気を呼び、多くの観光客を集めました。やがて入園者が減少に転じる一方、サルは急増し、農作物被害や森林の食害が問題となってきます。

 前回の「高崎山Ⅲ 存廃論議」では、高崎山の廃園も一時検討されたという話を紹介しました。

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5/14/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産③高崎山Ⅲ 存廃論議

「廃園」を口にした市長

高崎山 22年前の岐路



 開園70周年を迎えた国立公園高崎山自然動物園について少し調べていくうちに、高崎山の「廃園」が一時検討されていたことを知りました。

 左は2017(平成29)年5月16日付の大分合同新聞夕刊の連載企画「岐路に立つ高崎山(上)」です。

 この中に2001(平成13)年、当時の木下敬之助・大分市長が「いつまで続けるか決まっておらず、廃園も視野に入れている」と発言したと書かれています。

 続けて記事には「周辺の農作物被害の増大や赤字体質を背景に、園職員に(市長の)廃園の意向が伝えられたという」とあります。

 木下市長はその後、廃園の意向を撤回したと記事は伝えます。
 
 振り返れば今から20年余り前に高崎山自然動物園は開園以来最大の岐路に立っていたことになります。この時、廃園を決断、実行していれば今頃はどうなっていたでしょうか。

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5/07/2023

志手ポンカン 白い花の咲く頃


蜜柑の花咲く頃 蜂の引っ越し

 

 志手の住宅地の背後は丘になっています。少し急な坂道を上ると、墓地があり、その横に志手ポンカンが植わっています。春になり、花が咲き始めると、いろんな虫が姿を見せます。

 写真に収めた虫たちを1枚のパネルにまとめてみました(下の写真)。

 ミツバチやクマバチはいつもいる常連組で、パネルの左下のハナムグリもよく見ます。ヒョウモンチョウやアゲハチョウも見かけることが多い方です。アサギマダラは今年は一度しか見かけませんでした。


 パネルの写真の中で白い文字で①と数字を入れたのは、墓地のそばにあるポンカンの木です。墓地のところからは大分の市街地が一望できます。

 この時期になれば毎年見られる、どこにでもいる虫ばかりですが、今年はちょっと珍しいものをみました。それが一番上の写真です。

 ポンカンの木の根元にハチが集まっているのを偶然見つけました。分蜂(ぶんぽう)、つまりミツバチの引っ越しの途中だったようです。

 一つの巣に新しい女王バチが生まれると、その巣にいた女王バチは巣から出ていき、新しい巣を作る。新しい巣が見つかるまで一時的に建物や木々に群がり休息する。インターネットで検索すると、こうやってミツバチが増えていくなどと解説されています。

 ミツバチの群れを撮影したのが4月18日。翌日行ってみると、群れは姿を消していました。


5/05/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産➁高崎山Ⅱ 猿口抑制

サルの災難 高崎山70年➁ 

減量 避妊 苦心の猿口抑制策

 
 


 「動物園の『内』と『外』 栗食うサル」というタイトルの2分足らずの動画を作ってみました(上)。この動画は、冒
頭に国立公園高崎山自然動物園のホームページにある映像を少し拝借し、それに監視カメラに映ったサルの映像をくっつけただけの簡単なものです。


 監視カメラの映像は、画面に表示された通りの2019(平成31)年9月12日午後4時半過ぎに撮影されました。場所は高崎山の麓。大分市上八幡の柞原八幡宮近くで、栗などが植えられた農地です。

 筆者はここでたまに農作業の手伝いをしますが、夏の終わり頃から冬にかけて時折サルが姿を見せます。ちなみに左の写真は昨年11月撮影のものです。

 4年前に話を戻すと、8月18日に栗が食われているのを発見、8月25日、9月4日と被害が続きました。業を煮やして監視カメラを仕掛けたのが9月9日。サルの群れはその3日後に現れました。

 このサルたちは一体どこの誰なのでしょう。

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4/24/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産⓵高崎山 細る客足

 地震、コロナで細る客足 高崎山

上田さん 今ならどうする?

 

 「大分『志手』散歩」というブログのタイトルからの脱線が続いています。前回までの大分市中心部から、今回は「高崎山自然動物園」に足を延ばしてみました(写真上)。高崎山といえばサル。サルの餌付けで一躍有名になり、大分を代表する観光地の一つとなりました。

 高崎山自然動物園は1953(昭和28)年3月に日本初の野猿公園として開園し、今年70周年を迎えたのだそうです。
 70周年記念誌が作られ、図書館などに寄贈されたというので大分市民図書館で借りてみました(左の写真)。

 ページをめくって、最初に目に飛び込んでくるのが「B群第18代第1位」の「ヤケイ」の写真です。「近年話題になったサルたち」とのタイトルで、「ヤケイ」は「高崎山史上最恐女子」と紹介されています。ヤケイは2021(令和3)年7月30日、メスザルで初めて「ボス」の座に就いたのだそうです。
 
 「ヤケイ」に続いて登場するのが「奇跡の母ザル」「マツバ」。自分の子に加えて、母親から離れてしまった子ザルの面倒も見るようになった。これは「高崎山の70年の歴史の中でも珍しい」と書いてあります。
 ヤケイ、マツバに続いて紹介されているのが、A群、B群、C群の歴代ボスザルです。
 

 入園者数(ヒト)とサルの推移をグラフにすると

 筆者が注目したのは70年記念誌にある二つのデータです。一つは高崎山でサルの餌付けを始めてからのサルの個体数の推移、もう一つは高崎山自然動物園の開園以来の年度別入園者数の推移です。

 それが下の二つのグラフです(データを基に筆者が作成)


 上がサルの数、下がヒトの数です。特に目を引くのが入園者数の推移。右肩下がりです。昭和40年代(1965~1974)には150万人を超えていた入園者ですが、昭和50(1975)年度に145万1773人と150万人を割り込み、昭和54(1979)年度には99万9683人と100万人を下回りました。

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4/12/2023

大分まち歩き⑤住居表示番外編⑤府内町

新町名誕生60年⑤府内の賑わい

 目立つ空き店舗の貼り紙

 

 大分市中心部で新たな住居表示が実施され、新たな町名として中央町、都町、府内町が生まれて60年になります。
 筆者が住む「志手」のことを調べているうちにそんなことを知りました。それがちょっとした発見に思えて、町名の由来などを調べる気になりました。
 そして書いたのが「新町名誕生60年」シリーズです。1回目で「中央町」を取り上げ、2~4回は都町をテーマにしました。今回は「府内町」です。

 
 府内町には「ふるさと大分の百貨店トキハ」の本店があります(上の写真の左側の建物)。大分銀行本店もあります。地元紙の大分合同新聞社本社もあります。大分県庁舎の別館もあります。大分の「都心」と言える地域なのですが、ぶらぶら歩いてちょっと意外な発見がありました。

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4/04/2023

桜ケ丘聖地の桜

 春爛漫 桜ケ丘聖地




 「大分地方気象台のさくら(そめいよしの)の満開を 本日4月3日に観測しました。平年(4月4日)より1日早く、昨年(4月1日)より2日遅い満開となりました」。気象台のウェブサイトをのぞいたら「桜満開宣言」が出ていました。

 上の写真は志手の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)で4月2日に撮影したものです。桜ケ丘聖地も満開でした。桜の下には大きなブルーシートが敷かれ、花見の準備が行われていました。



 1945(昭和20)年の終戦後、墓地は旧陸軍から大蔵省(現財務省)、さらに大分県へと引き継がれました。県が墓地を譲り受けたのは1955(昭和30)年で、その頃多くの桜が植えられたようです。



 桜の木々も大きくなり、桜が満開の時は、ちょっと大げさな表現をすると、上の動画のように墓地全体を覆うような感じになっていました。それが今はというと、随分すっきりした印象になっています。

 桜ケ丘聖地に手が入り、桜の老木などを伐ってツツジの若木を植えたりと再整備が少しずつ進んでいます。



 そのきっかけとなったのが、1人のドイツ人の墓参だったのですが、そのことについては、このブログの「志手界隈案内③変わる桜ヶ丘聖地、そのきっかけは?」(2021年9月16日公開)で少し書いています。

4/03/2023

大分まち歩き④住居表示番外編④都町Ⅲ

新町名誕生60年④都町その3 

アイデア市長とジャングル公園

 

 泥沼にはまり込んだ感じです。都町だけで3回も書くことになろうとは思ってもいませんでした。ちょっと「志手」を離れて大分市中心部をぶらぶらしてこようと思ったのが運の尽きで、ブログのタイトル「大分『志手』散歩」から離れていくばかりです。

 「新町名誕生60年①」の最初に書きましたが、大分に長く住んでいる人にとっては常識に思えることも、新参者には知って驚きということが結構あるものです。

 大分市中心部の「中央町」「都町」「府内町」「荷揚町」の町名・住居表示が60年前から始まったことを知り、ちょっとした発見に思えました。

 では、その前の町名は?新町名の由来は?などと疑問が湧き、調べるうちに新たな発見がいくつかありました。
 
 その一つが大分市長だった上田保氏。高崎山のサルの餌付けをして人気観光地にしたといった程度の知識はありましたが、それだけにとどまらない活躍、功績があったことを改めて知りました。

 「公園市長」とも呼ばれた上田氏が戦災復興計画に基づいて造ったのが、都町の「ジャングル公園」や中央町の「若草公園」などです。今回はジャングル公園などの名前の由来について考えてみたいと思います(※上田氏は上の写真の左側。右は木下郁氏。上田氏については改めて書きたいと思っています)。

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3/23/2023

大分まち歩き③住居表示番外編⓷都町Ⅱ

新町名誕生60年③都町その2 

鉄と石油と夜の街

     

 「新町名誕生60年②都町、栄町、そして」の続編です。

 1962(昭和37)年にできた住居表示に関する法律に基づき、大分市でも翌1963(昭和38)年に新住居表示・新町名の第一号が誕生しました。それが中央町であり、都町であり、荷揚町や府内町であることは前回までに書いています。
      
 前回は「都町」の名前の由来を探ったのですが、残念ながら中途半端な結果に終わってしまいました。

 今回はもう少し視野を広げて「都町誕生」当時の大分市について見てみたいと思います。前回のブログで最後に紹介した「夢町人の街 おおいた都町物語」(松尾健児著 西日本新聞社発行)の引用から今回は始めます。

 「おおいた都町物語」に当時の木下敬之助・大分市長が序文を寄せています。その書き出しの文章が“夜の街”としての都町の成り立ちを簡潔に説明しています。少し長くなりますが、引用してみます。

 序文の見出しは「都町、青春の日々」。「大分市都町は、新産都大分の建設とともに発展してきた歓楽街です。昭和38、39年頃、ネオンが灯り始め、新日鉄大分、昭電などの立地が進むとともに賑わいを増して、別府-大分間の電車が消えていった昭和47年頃は特に集中的に発展、現在(平成4年)の都町のたたずまいができていったと記憶します」

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3/16/2023

大分まち歩き②住居表示番外編②都町Ⅰ

新町名誕生60年②都町、栄町、そして 

 
 

 新型コロナウイルスの大流行で「
都町」からすっかり足が遠のいてしまいました。外に出てお酒を飲むことも稀になりました。酒の勢いで店をはしごして散財するようなこともなくなり、財布には優しい生活を送っていますが、少々寂しい気分でもあります。

 さて、このブログ「大分『志手』散歩」を書くために久しぶりに都町(上の写真)を歩いてみました。大分一の歓楽街と言われる都町も昼は閑散として白々としています。

 住居表示に関する法律が1962(昭和37)年に作られ、大分市で新住居表示の第一号が誕生したのが翌63(昭和38)年6月1日だったことは「新町名誕生60年①」で書きました。

 第一号は大分市中心部の都町、中央町、荷揚町、府内町などで「新町名誕生60年①」では中央町を取り上げました。2回目は都町です。新町名誕生①でも書きましたが、中央町と都町は旧町名と縁もゆかりもなさそうな新町名が付きました。

 「なぜなのか」。そこに興味が湧きました。

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3/14/2023

大分まち歩き①住居表示番外編①中央町

 新町名誕生60年①中央町に残る竹町

 

 長く大分に住んでいる人にとっては常識であっても、新参者にとっては思わず「へぇー」と声を出して膝を打つような豆知識(トリビア)というものがあるものです。

 志手にはなぜ二つの住所「志手」と「三芳」があるのか。新参者には不思議に思えます。そこで、その関係を少し調べて書いてみたのが、このブログ「大分『志手』散歩」で2023(令和5)年2月13日公開した「ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤」でした。

 その時に大分市の住居表示についても調べていて、ちょっとした発見がありました。1962(昭和37)年にできた「住居表示に関する法律」に基づいて大分市で新住居表示・新町名の第一号が誕生したのが、翌63(昭和38)年6月1日でした。つまり今年で60年の還暦を迎えるわけです。

 だからどうだと言われても困りますが、節目の年に住居表示について改めて考えるのも面白いかなと思ったのです。

 大分市の新住居表示第一号はどこだったのでしょう。

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2/28/2023

2月26日 桜ケ丘聖地にて

2月26日 桜ケ丘聖地にて

 

 
 志手に「志豊会」という住民グループがあります。昔から志手に住む「園田」(※)さんたちが中心になって活動し、志手天神社の夏祭りや年越しの行事などには欠かせない存在です。
 
 ※このブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん その祖先を辿れば」もご参照ください(2023年1月公開)
 
 新型コロナウイルスの大流行で、地域の行事は軒並み中止となり、志豊会も活動の縮小を余儀なくされましたが、コロナ禍でも続けてきたことがあります。それが桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の清掃です。基本的には2月、5月、8月頃に草刈りや樹木の剪定、排水路の掃除などをします。

 かつては遺族会など関係者による清掃活動も行われていたようですが、遺族の高齢化などもあり、地元志手の住民が草刈りなどの作業の中心を担うようになりました。

 左の写真は志豊会による桜ケ丘聖地の清掃作業の記録の一部です。

 2月の清掃が26日に行われました。手元の記録を見ると、去年も26日でした。以前は必ずしも26日だったわけではありません。昨年は土曜日、今年は日曜日と休日で集まりやすかったこともありますが、もう一つ大きな理由があります。

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2/13/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤「三芳」と「志手」 二つの住所

 ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤

二つの住所「志手」と「三芳」 その由来は?



 左の写真は2018(平成30)年12月に撮影したものです。まだ新型コロナウイルスの大流行が起きる前です。
 志手天神社では、大晦日の深夜の参拝者に年越しのそばやお神酒、甘酒をふるまい、新年を祝う催しが恒例となっていました。
 年の瀬となると、写真の「初詣は志手天神社へ」と大きく書かれた案内板が町内のあちこちに掲げられたものでした。新型コロナの影響でここ数年、この新年行事が取りやめになっているのは少し残念なことです。

 さて、今回取り上げるのは天神社の初詣ではありません。写真で注目いただきたいのは「ここは大分市志手5組」と書かれた住所の表示板です。

 Googleマップでこの場所を探すと「大分市三芳」と出てきました。

 「志手」と「三芳」。どちらも住所として使えます。私に届く郵便物の中には「三芳志手」の表記もあります。

 「志手」と「三芳」。二つの住所表記がなぜあるのでしょうか。細かく言えば、志手も三芳も「住居表示に関する法律」に基づく住所ではありません。三芳は「地番」であり、「志手」は通称ということになります。
 
 「志手」は昔から「志手」の地名でした。江戸時代の資料(豊後国郷帳=写真右)にも「志手村」が出ています。石高78石余りの小さな村だったようです
。その歴史を踏まえれば「志手」という住所が正当な名称に見えますが、土地登記簿にある地番は「三芳」です。

 なぜ「三芳」と表記するようになったのでしょう。その由来は明治時代初期の町村合併にありました。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

1/25/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア④昔ながらの狭い道



 ふるさとだよりで知る志手のトリビア④

農村の風情残す 昔ながらの道

  

 今回も前回に引き続き園田逸雄さんの
「セピア色の思い出」からの引用です。1998(平成10)年7月の「ふるさとだより第2号」(志手老人クラブ共和会発行)に掲載されています。
 テーマは「昭和10年頃の志手郷」。当時の地図が添えられています。それが下の写真です。


 この地図を現代の地図と比較して、一つ面白いことに気づきました(志手に昔から住んでいる人には当然の常識といえるものなのですが)
 

  町の骨格となる道路が基本的に変わっていないのです。
 昔の地図に今の風景を重ね合わせると、

 上の写真のような感じになります。クルマがすれ違えないような狭い道があちこちにあります。

 志手が昔のままの農村集落であれば、道路も変わらないのも分かります。しかし、志手は住宅街として変貌を遂げ、住民も増えました。一つの町として大きく成長したのに、道路という骨格は昔のままです。

 うまく表現できませんが、子どもの頃の細い骨格のままに大きくなった、そんなアンバランスな印象を受けます。

 志手地区のマチづくりの旗振り役みたいな人がいたら、また違った姿になっていたかもしれません。町が大きく変わる。そんな転機のようなものがこれまでにあったのではないかとも思います。

 志手の町内をクルマで動き回るのは神経を使いますが、個人的にはこの細く曲がりくねったような道が嫌いではありません。クルマがなかった昔にタイムスリップしたようなノスタルジックな気持ちにもなります。


 志手の昔ながらの道を紹介する短い動画を作ってみました。




 




 




 

1/13/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア③柞原八幡宮との縁

ふるさとだよりで知る志手のトリビア③


古老が語った 柞原八幡宮との縁 


 前回の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁」の最後に、志手の地名の由来に関連して「片手の武士」説を紹介しました。

 このブログ「大分『志手』散歩」の3回目の「志手界隈案内➁天神社」と、5回目の「志手地名あれこれ①大昔、志手は海辺だった」でも、「志手」の語源について書いています。

 今回は「志手」の由来について書く4回目となります。

 それは園田逸雄さんが志手の古老から聞いたという「柞原八幡宮」と「志手」とのかかわりです。1998(平成10)年10月発行の「ふるさとだより第3号」にありました。



 ちなみに上の写真は私が2021(令和3)年10月に柞原八幡宮にお参りしたときに撮影したものです。

 

 さて、ふるさとだよりにある志手の由来は簡単なものです(左の資料)。園田逸雄さんは「ふるさとだより」の第1号から「セピア色の思い出」と題して、子どもの頃に見たり、聞いたり、体験したりしたことを連載しています。
 連載を始めた頃、逸雄さんは75歳ぐらいだったようです。
 連載3回目は「幼き日に聞いた古老の噺」です。
 志手の地名の由来について以下の話を聞いたそうです。

 「遠い昔のことぢゃ、この里は柞原さまの荘園ぢやったそうな、が、その日暮らしの貧しいこの里の人々、節季毎の上納の穀物に難渋して、話合いのうえ、労役による代納を申し出る。つまり『手』にての上納を『志』した。それからのこっちゃ志手の地名は」

 調べる手掛かりは「柞原八幡宮の荘園」です。

 柞原八幡宮に案内板があり、その歴史について書いてありました。案内板には、柞原八幡宮は天長4年(827)に延暦寺の僧金亀和尚が、宇佐八幡宮で千日間の修行を始め、同7年(830)に神告を得たことが契機となって八幡神が勧請されたことに起源すると伝えられている、と書かれていました。
 案内板にはさらに「その後、天皇の命で承和3年(836)に社殿が造営され、平安時代末期には豊後国一宮となりました」などとあります。

 古いお宮であることは分かります。しかし、それ以上の知識は私にはありません。「志手」の地名と関係があるなどとは思ってもみませんでした。
 園田逸雄さんが聞いた「古老の話」をきっかけとして柞原宮について少し勉強した方がいいのかもしれません。また一つ宿題が増えました。



志手ぶらぶら路上観察記⑧キオビエダシャク

  やたら目につくこの蝶は  やたらと目に付くチョウがいると思ったら、チョウではありませんでした。ガ(蛾)でした。ネットでちょっと調べてみたら「キオビエダシャク」という名前が分かりました。  マキノキの下の雑草を刈る作業をし ていたら、このガがあちこちで見つかりました(左の写真)...