園田英雄さん 消えない戦争の記憶①
「戦時下、占領下の日常」より
2022(令和4)年9月に出版されていたとは。大分市内の書店で偶々見かけるまで半年以上も知りませんでした。それが上の写真の書籍。「戦時下、占領下の日常━大分オーラルヒストリー」(エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳、みすず書房発行)です。
原著は「Japanese Reflections on World WarⅡ and The American Occupation」です。大分県立図書館に1冊あります。2017(平成29)年に出版された、この本のことは園田英雄さん(故人)の家族の方に教えてもらいました。
園田英雄さんは「志手老人クラブ共和会」が発行していた「ふるさとだより」の編集者でした。
※「ふるさとだより」については、このブログで何回も題材に使わせてもらっています。例えば「ふるさとだよりで知る志手のトリビア①志手左官の由来は?」などです。
この本の著者は立命館アジア太平洋大学(APU)教授でしたので、APU関係者が翻訳本を出してくれればいいがなどと漠然と思っていました。
日本語で読みたいと思っていた、その本が書店の棚にあったので、すぐに購入しました。翻訳本でも園田英雄さんの絵がありました。
その絵とともに園田英雄さんの言葉があります。ちょっと長いですが、そのまま引用します。
私(園田英雄)が生まれたのは1931(昭和6)年で、その年に満州事変が起こっています。小学校1年の1937(昭和12)年には日中戦争が始まり、小学校5年の1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まった。そして中学2年の1945(昭和20)年に太平洋戦争が終わりました。私の青年期が戦後復興の時代だとすれば、幼少年期の15年は戦争の時代でした。
(「戦時下、占領下の日常」第3章「大分の男も戦争へ」より)
そして、書類の中から大きな絵を取り出してポーター教授らに見せた。それが小学校3年の時に描いたという上の写真の絵です。日中戦争で日本の戦闘機が中国機を撃墜する様子が描かれています。
園田英雄さんの世代は「戦時下」であることが日常であり、「軍国少年」であることが普通だったといえます。そして、戦後の「占領下」で、それまでと一八〇度変わった日常を体験した特異な世代ともいえます。
この本の「はしがき」に「1930年代から50年代初めにかけて日本で戦争や占領を経験した人々の個人的な物語は時の経過とともに間もなく消えてしまうだろう。筆者たちはこのことを念頭に、できるだけ多くの口述による戦争の記憶を聞き書きしようと思い立った」と執筆の動機が述べられています。
その結果、「インタビュー相手のリストは雪だるま式に増えていき、40人以上に上った」そうです。
こうしたインタビューと資料の収集によって、本書では戦争期と米軍占領期の大分の暮らしや庶民の思いが丁寧に描かれていると思います。
この本によって残された園田英雄さんの記憶をたどる前に、本書の構成について簡単に見ておきたいと思います。
第1章の「すごい、ただもうそれだけ」という見出しは、原著ではSomething Big Was Going to Happen(Saiki Goes to War Footing)となっているようです。「何かどでかいことが起きている。佐伯が戦争に進む足場、拠点になった」。ざっくり訳すとこんな感じでしょうか。
日本が米ハワイの真珠湾攻撃の準備を進める際に大分県佐伯市が重要な拠点の一つとなったことを書いています。大分の人間にとっては原題の方が分かりやすいかもしれません。
※この本に佐伯市平和祈念館やわらぎの裏手にある石碑「連合艦隊機動部隊真珠湾攻撃発進之地」の写真もあります
園田英雄さんの証言は「第3章 大分の男も戦争へ」「第6章 空から火が」「第9章 大きな代償」「第14章 負けたんじゃない、戦争が終わっただけ」「第15章 空腹、混乱、そして恐怖」「第16章 悪魔が上陸してきた」「第18章 占領が確立する」に出てきます。
次回は園田さんの証言を見てみます。
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