9/25/2023

地図から消えた「毘沙門川」

地図から消えた毘沙門川 そのわけは? 


 
 今回は「毘沙門川」について書いてみたいと思います。志手に「毘沙門堂」があり、その横を流れる小さな川が「毘沙門川」(上の写真)です。

 橋の欄干に川の名前が表示されています。読んでみると「住吉川」。あれ⁉「毘沙門川」ではありません。

 しかし、この川がかつて「毘沙門川」と呼ばれていたことは間違いありません。そして、それが由緒正しい川の名前であったことも。 
 

 「私の故郷 『志手』風土記」という本があります。著者は園田九洲男さん(故人)。志手に生まれ育った著者が少年時代の思い出をつづったものです。

 この本の「あとがき」で「できるだけ昭和20年頃の『志手』の様子を書いたつもりである」と著者は記しています。今から80年ほど前の志手の暮らしと風景が描かれているわけです。

 その中に次のような回想があります。

 「としんかみ(歳の神、志手、椎迫の境・毘沙門川の上流)で水遊びをすますと、村堤(かんがい用の溜池)で泳ぐ資格ができる」

 「毘沙門川の流れも『としんかみ』といっていた。小さな子どもたちの恰好の水遊び場で、ハエがたくさん泳いでいて、水もきれいであった」


 「としんかみ」と呼ばれた場所が冒頭の写真のあたりではないかと思われます。現在は大分市消防団大道分団西部の建物などがあります。

 志手の住民がこの川を毘沙門川と呼んでいたからといって、それが正式な名称だとは限りません。地元だけで使われる通称でしかないこともありえます。

 そこで地図を見てみました。大分県立図書館に収蔵されている昔の「大分市街図」です。
 

 宗像地図店(現ムナカタ地図店)という大分市の会社が発行しています。左が1963(昭和38)年発行で、右が1971(昭和46)年発行のものです。赤い枠で囲ったのが河川名です。

 左の地図では「毘沙門川」、右の地図は「住吉川」となっています。なぜか川の名前が変わっています。この間に何があったのでしょうか。

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9/04/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験④

園田英雄さん 消えない戦争の記憶④

進駐軍は隣り組 米兵が土足で家に 



 前回の「園田英雄さん 消えない戦争の記憶⓷」では、大分市が受けた空襲被害について少し書いてみました。

 今回は日本が降伏し、米軍の占領が始まる頃の大分がテーマです。

 米軍の大分進駐と同時に、園田英雄さん(故人)は米兵2人がいきなり自宅に踏み込んで来るという経験をしました。

 「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(エドガー・A・ポーター ランイン・ポーター著 菅田絢子訳 みすず書房)に、その証言があります。

 10月13日、到着した進駐軍が兵舎の西大分駄原の陸軍少年飛行兵学校(※)に入ってまもなく兵士がふたりやってきました。武器を隠してないか一軒一軒調べていたのです。押入れを開けたり箪笥を開けたり。作業は鄭重なものでした。ただ腹が立ったのは靴履きで上がってきた!(笑)

 ※大分連隊が宮崎県都城市に移り、そこに1943(昭和18)年秋に少年飛行兵を養成する学校ができ、終戦とともに閉校になりました。

 大分にやって来た米軍は当面の宿舎として、終戦で閉校となった大分陸軍少年飛行兵学校(その前は大分連隊)の兵舎を使うことになりました。

 左は1921(大正10)年の大分市の地図の一部です。昔の地図を見ると志手の集落と大分連隊の位置関係がはっきりします。園田英雄さんが住んでいた志手は、大分連隊の“隣り組”になります。駐屯にあたり米兵は周囲に危険がないか調べに来たというわけです。

 ※ちなみに冒頭の写真は大分連隊跡とその周辺の現在の様子です。兵舎跡には大分大学教育学部付属小・中学校などができ、練兵場跡には大分市営駄原総合運動公園や大分県立大分西高校などがあります。


カービン銃を携えた米軍、緊張の顔合わせ

 

 米軍の大分進駐について1988(昭和63)年発行の「大分市史 下」(大分市史編さん委員会)から少し引用してみようと思います。

 連合軍=米軍による大分の占領が始まったのは昭和20年10月4日である。この日、米第5海兵師団(佐世保)所属のH・E・ベーカー大尉ら4人が先遣隊として列車で大分駅に到着、その足で県庁を訪ね、中村知事ら県終戦事務連絡委員会と占領軍受け入れについての打ち合わせを始めた。

 打ち合わせといっても、カービン銃を携え、拳銃を卓上に置いてのことで、時には気色ばみ、荒い声も出したというから、一方的な命令に終始したのだろう。

 大分市史では、日米関係者による緊張した初顔合わせの様子を上のように書いています。

 米軍を迎える大分県民は米兵に不安、恐怖心を抱いていましたが、米側も日本側の抵抗を警戒し、不信感、不安感がぬぐえずにいたのでしょう。

 大分市史は、ベーカー大尉は県外務課に、大分合同を含む新聞4紙の全紙面を毎日英文に翻訳して提出せよと無理難題をもちかけたが「殺されてもできん」と蹴ったこともある、というエピソードも紹介しています。

 相互不信による緊張も徐々に緩和されていくのですが、大分市史にはもう一つ興味深い話が載っていました。

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8/18/2023

志手の盆火 ガータリ

火の玉が宙を舞う 志手の盆火 ガータリ

  言葉で説明するより実物を見てもらった方が早いだろうと思って、数年前の写真などを使って短い紹介動画を作ってみました。8月13日の志手の夜の恒例行事が「ガータリ」です。今年も火の玉が宙を舞いました。

 
 火の玉の正体は麦わらです。右の写真は麦わらの球にフジカズラ(藤のつる)を結び付けているところ。カズラを持って火のついた麦わらを回します。

 ガータリは13日に行われるので「盆の迎え火」と言われます。ただ、昔は13、14、15と3日間続けてやっていたと言う人もいます。

 ガータリが行われる場所は、志手の住宅街の背後にある小高い丘の中腹です。志手に昔から住む「園田」※さんたちの墓があるところです。


 
 墓所の手前に少し広い「踊り場」のような空間があります。
 13日夜にあらかじめ作っておいた麦わらの球などがここに運び込まれます。「チキリン」と呼ぶ鉦もガータリのお囃子として欠かせません。 

 ここで麦わらの球の作り方を簡単に紹介しておきます。

 

 最初の写真は麦わらを縦横に交互に重ね合わせ、ワイヤーでしっかりと固定しているところです。わらは縦、横、縦、横と2回重ねます。

 



 ばらけないようにしっかり縛ったら、わらの先を内側に折り込んでいきます。少しずつ丁寧に折り込んでいくと、きれいな球ができます。

 見ていると、単純な作業のようですが、やってみると、きれいな球形にするのはなかなか難しいことです。

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8/08/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験⓷

 園田英雄さん 消えない戦争の記憶⓷

狙われた大分 空襲 九州最多の20回



 前回の「園田英雄さん 消えない戦争の記憶②」では、
エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳の「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(みすず書房刊)にある園田英雄さん(故人)の証言を見ました。

 今回もこの本を下敷きにしながら、他の資料も参照して昭和20(1945)年の大分市の空襲被害について見ていきたいと思います。

 都市別の空襲回数は大分県立図書館にあった「建設省編 戦災復興誌第1巻」(計画事業編)から引用しました。この本は1959(昭和34)年3月に財団法人都市計画協会から発行されています。

 この本は簡単に言えば、空襲で焦土と化した国土の復興の記録です。空襲による被害は全国で120余の都市に及び、罹災面積は1億9千万坪(約62,700ha)、罹災戸数約230万戸、罹災人口970万人に上った、と戦災復興誌は書いています。

 都市という都市は軒並み米軍の標的となり、空襲に遭わなかった都市が例外的と言えるほど、米軍の攻撃は徹底したものでした。

 大分市も米軍の空襲を逃れられるはずはありませんが、筆者にとって意外だったのは大分市が受けた空襲の回数でした。20回は地方都市としては際立つ多さです。

 なぜ、大分市は他都市以上に米軍の空爆の標的となったのでしょうか。

 ※総務省のホームページにある「大分市における戦災の状況」には、大分市は初空襲から終戦までに22回の空襲を受けたと書かれています。実は「建設省編 戦災復興誌第6巻」(都市編Ⅲ)にも空襲回数22回と書いてあります。

 とりあえず他都市との比較をするために「戦災復興誌第1巻」に記載された数字を使うことにします。

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7/28/2023

4年ぶりのお神輿登場 志手天神社

子ども神輿 4年ぶりに町内練る




 7月24日朝。志手天神社では夏祭りの準備が行われていました。この日の夕方、子ども神輿が4年ぶりに町内を練り歩くことになっています。

 祭りの準備は15日と24日の2回に分けて行われました。久しぶりの祭りということで、長年祭りの準備に携わってきた人でも少し勝手が違うといった感じもみられましたが、ほぼ予定通りに準備が完了。あとは神輿の本番を待つだけとなりました。

 これで心配なのは雨だけ。天気予報によると、午後から雨。夕方はそれなりに降るようで、雨量によっては25日に順延になるとのことでした。


 幸い5時以降はパラパラと降る程度で、子ども神輿は予定通りに実施することになりました。神輿に御神体を移し、神輿が拝殿を出たのは5時40分。境内で少し神輿を担ぐ練習をした後で、お宮を後にしました。


 例年なら、
町内のあちこちに設けられた休憩所で水分補給したり、休んだりしながら町内を一回りするのですが、今年の巡行は短縮版。いつもの半分で、練り歩く時間も午後6時から8時が予定されていました

 しかし、実際に町内を回り始めると、想定したよりもペースが速く、さささっと一巡りしてしまいそうな感じにみえました。例年と違う巡行路、初めてのルートということで、ここでも少し勝手が違ったようです。

 

 子どもたちに担がれて神輿が志手天神社前まで戻ってきたのが7時20分頃でした。境内で最後に神輿を回し、拝殿に神輿をあげて、御神体は戻されました。

 全部が終わったのは、まだ少し明るさが残る、もうちょっと練り歩いてもよさそうな、そんな時間帯でした。

 準備したり、後片付けしたり、裏方で祭りを支えている関係者は大変ですが、地域の恒例行事が復活することは嬉しいことです。来年はもっと多くの子どもたちが参加して、さらに賑やかなものになればと思います。
 

7/18/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験②

 

園田英雄さん 消えない戦争の記憶②

空から火が 学徒動員の工場直撃


 
 エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳の「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(みすず書房刊)から、園田英雄さん(故人)の証言を見ていきます。

 この本については「米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験①」(2023年6月21日公開)で紹介しています。1930年代から1950年代にかけて戦争や占領を経験した大分の人たちの話を、立命館アジア太平洋大学(APU)の教授だった筆者らが聞き取り、まとめた本です。

 単純に証言を羅列したものではなく、日米の資料などを駆使して体系的にまとめられた貴重な本だと思います。

 この本に登場する証言者の一人が園田英雄さんです。英雄さんは志手老人クラブ共和会が発行していた「ふるさとだより」の編集者で、「ふるさとだより」にも自らの戦争体験を書き、平和の尊さを説いていました。

 昭和20年3月 海軍航空廠で働き始める


 英雄さんの脳裏から生涯消し去ることができなかった一番の記憶といえば1945(昭和20)年4月21日の出来事だったのではないでしょうか。
 
 大分工業学校2年生だった英雄さんは、この年の3月10日から第十二海軍航空廠の工場で働き始めました。大分市中心部とは大分川を挟んだ対岸に海軍航空廠はありました(地図上)。 

 英雄さんは飛行機の木製品を作る工場で働きます。「金属が不足していたから木製で代用できる部品を作っていました。飛行機の背中にあるアンテナの柱が木になり、操縦席の前の計器盤、これもベニヤ板になります」。教授らの聞き取りに対して英雄さんは当時を振り返りました。

 戦線の拡大とともに男たちが次々に戦場に送り出され、労働力不足が深刻になってきます。男たちの穴を埋める手段の一つが学徒の動員でした。

 この本によると、1944(昭和19)年4月時点で第十二海軍航空廠には12,000人の工員がおり、このうち8,000人は学生だったといいます。男女の勤労学徒は1945(昭和20)年の初めには16,000人に上ったそうです。

 英雄さんも勤労学徒の一人となります。そして、英雄さんは工場勤務を始めてすぐに初めての空襲を体験することになります。

 右は大分合同新聞1945(昭和20)年3月19日付。「敵艦上機九州南部」「東部に波状来襲」という見出しがあります。

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7/03/2023

4年ぶりの夏祭り 志手天神社

チキリン、太鼓に子どもみこし

4年ぶり夏祭り準備 志手天神社



 
7月1日夕方の志手天神社。久しぶりに太鼓とチキリン(鉦)の音が聞こえてきました。子どもたちが集まって太鼓やチキリンをたたいています。この日、天神社の夏祭りに向けた練習が始まりした。

 志手天神社の夏祭りは7月24日と決まっています。祭り当日は夕方から夜にかけて、子ども神輿(みこし)がチキリンと太鼓のお囃子(はやし)とともに町内を練り歩きます。

 新型コロナウィルスの大流行があって、志手でもよそと同じように祭りなどの地域行事を取りやめてきました。

 夏祭りは2019(令和元)年7月以来になります。

 左の写真は4年前の夏祭り。お旅所で休憩中にチキリンをたたく子どもたちです。

 コロナの流行も完全に収まったとは言えませんので、念のために今年は神輿が練り歩く時間と距離を従来のほぼ半分に短縮するそうです。

 地域の行事はいったん途絶えると、復活させるのはなかなか難しいことです。季節の風物詩ともいえる行事がなくなるのは寂しいことなので、ともかくも夏祭りが再開することは嬉しい話です。

 子どもたちの太鼓の練習を始める2日前の6月29日。薄っすらとほこりをかぶっていた太鼓とチキリンが引き出されて、小さな拝殿に据えられました。

 太鼓は7台、チキリン(鉦)は5個。一緒にほこりをまとっていた扇風機も出され、それぞれきれいに拭かれて所定の場所へ。それが右の写真です。
 
 写真で五つ並んだチキリン一番右のものが古く、明治時代かそれ以降か、随分と昔のものだといいます。

 夏祭りの子ども神輿がいつごろから始まったのでしょう。はっきりしたことは分からないそうです。

 

 志手天神社についてはこのブログの「志手界隈案内➁志手天神社」(2021年7月31日公開)で紹介しています。


 【追記】

 最後にチキリンについて。大分市役所のホームページに「『チキリンばやし』の紹介」があります。そこから、チキリンについての解説を引用します。

 チキリンとは、大分市内のお祭りに伝わる「鉦」(かね)を中心としたお囃子のことです。「鉦」(かね)は、真鍮製で丸くて平たい底がある形をしています。お祭りには太鼓と鉦が古くからよく使われていますが、大分の祭りには特に「鉦」が中心になり、太鼓がこれにそって響きます。
 

 チキリンの音を出すのには、竹を削った柄に3~4センチ位の長さに切った鹿の角を直角に取り付けた、叩く道具「撞木」を使います。

 撞木を縦にもち、立てて「コンコン」と鉦の底を叩き、次に寝かせて輪の内側を「チキリン、チキリン」と三回叩きます。早いリズムを体で調子を取って叩く「コンコン、チキリン、チキリン、チキリン」の鉦の音は、ずいぶん昔から大分の祭りばやしに伝わっているもので、全国的にも珍しいお囃子になります。

 ※正確に言えば、「コンコン」「チキリン」という鉦の音を中心としたお囃子を「チキリン」というのですが、志手ではこの鉦を「チキリン」と通称しています。

 

6/27/2023

ドイツ大佐 離日前の墓参り 桜ケ丘聖地

離日前の墓参り、桜ヶ丘聖地

キーゼヴェッター大佐夫妻



 6月24日昼前に桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)を訪れると、二つの墓の前にドイツの国旗をあしらった献花がありました。

 ここに眠るのはユリウス・パウル・キーゼヴェッタ―とリヒャルト・クラインの2人のドイツ人。2人は第一次世界大戦で日本の捕虜となり、大分の収容所で病死しました。

 花を手向けたのは、駐日ドイツ大使館付武官のキーゼヴェッタ―大佐。ユリウス・パウル・キーゼヴェッタ―は大佐の曽祖父の弟になります。

 大佐が墓のことを知り、念願だった墓参を果たしたのは2019(令和元)年暮れでした。翌年、次の年と大佐はここを訪れています。そして、今回は大使館での任期を終えて日本を離れる前の最後の墓参となりました。


 ※1914(大正3)年7月に始まった大戦に、日本は日英同盟を理由に参戦。中国・青島にあったドイツの要塞などを攻め、
4700人を超えるドイツなどの将兵を捕虜にしました。捕虜は大分や福岡など全国12カ所に設けられた収容所に移送されました。のちに収容所は整理・再編されて6カ所に集約されます。

 ※クラインは1916(大正5)年4月に、キーゼヴェッタ―は1917(大正6)年5月にそれぞれ亡くなっています。


 100年の時を超えたキーゼヴェッタ―大佐の墓参については、このブログの「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)で少し詳しく紹介しています。

 キーゼヴェッタ―大佐の墓参で桜ケ丘聖地が随分と変わりました。管理する大分県が桜の老木や大きな樹を伐採したことで、鬱蒼とした小さな森のようだった墓所が、ござっぱりして明るい場所に変わりました。
 
 2020(令和2)年11月の大佐の墓参は駐日ドイツ大使館主催行事に位置付けられ、大分県はこれに合わせて桜(ジンダイアケボノ)の記念植樹を行いました。

 2021(令和3)年3月の大佐の墓参では「日独友好の桜」の案内板(写真左)の除幕式が行われました。

 地元住民も忘れかけていた、あるいは知らなかった「ドイツ人の墓」が、大佐とその友人たちによって再発見されたことで、桜ヶ丘聖地に変化が生じました。

 大佐らによって植えられた桜も順調に育っているようです。2021年3月に撮影した写真と6月24日の写真とを並べてみると、その違いがよく分かります。


 記念植樹の際、キーゼヴェッタ―大佐は「木を植えることは未来を信じることです」と言いましたが、植えられた2本の木が過去を現在、さらに未来につないでいると感じます。
 
 ドイツ大使館主催の慰霊行事と大分県が主催した記念植樹の様子は志手橘会の動画「試作版・日本とドイツを結ぶ墓参・慰霊・記念植樹」で見ることができます。


 

6/21/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験①

 園田英雄さん 消えない戦争の記憶①

「戦時下、占領下の日常」より



 2022(令和4)年9月に出版されていたとは。大分市内の書店で偶々見かけるまで半年以上も知りませんでした。それが上の写真の書籍。「戦時下、占領下の日常━大分オーラルヒストリー」(エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳、みすず書房発行)です。

 原著は「Japanese Reflections on World WarⅡ and The American Occupation」です。大分県立図書館に1冊あります。2017(平成29)年に出版された、この本のことは園田英雄さん(故人)の家族の方に教えてもらいました。

 園田英雄さんは「志手老人クラブ共和会」が発行していた「ふるさとだより」の編集者でした。

 ※「ふるさとだより」については、このブログで何回も題材に使わせてもらっています。例えば「ふるさとだよりで知る志手のトリビア①志手左官の由来は?」などです。


 この本に園田英雄さんが幼いころに描いた絵が使われているというので、この本が図書館にあることを確認して、見に行きました。それがこの本との出会いだったのですが、英語で書かれていますので、読もうという気になりません。

 この本の著者は立命館アジア太平洋大学(APU)教授でしたので、APU関係者が翻訳本を出してくれればいいがなどと漠然と思っていました。

 日本語で読みたいと思っていた、その本が書店の棚にあったので、すぐに購入しました。翻訳本でも園田英雄さんの絵がありました。

 その絵とともに園田英雄さんの言葉があります。ちょっと長いですが、そのまま引用します。

 私(園田英雄)が生まれたのは1931(昭和6)年で、その年に満州事変が起こっています。小学校1年の1937(昭和12)年には日中戦争が始まり、小学校5年の1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まった。そして中学2年の1945(昭和20)年に太平洋戦争が終わりました。私の青年期が戦後復興の時代だとすれば、幼少年期の15年は戦争の時代でした。
(「戦時下、占領下の日常」第3章「大分の男も戦争へ」より)


 そして、書類の中から大きな絵を取り出してポーター教授らに見せた。それが小学校3年の時に描いたという上の写真の絵です。日中戦争で日本の戦闘機が中国機を撃墜する様子が描かれています。

 園田英雄さんの世代は「戦時下」であることが日常であり、「軍国少年」であることが普通だったといえます。そして、戦後の「占領下」で、それまでと一八〇度変わった日常を体験した特異な世代ともいえます。

 この本の「はしがき」に「1930年代から50年代初めにかけて日本で戦争や占領を経験した人々の個人的な物語は時の経過とともに間もなく消えてしまうだろう。筆者たちはこのことを念頭に、できるだけ多くの口述による戦争の記憶を聞き書きしようと思い立った」と執筆の動機が述べられています。

 その結果、「インタビュー相手のリストは雪だるま式に増えていき、40人以上に上った」そうです。

 こうしたインタビューと資料の収集によって、本書では戦争期と米軍占領期の大分の暮らしや庶民の思いが丁寧に描かれていると思います。
 
 この本によって残された園田英雄さんの記憶をたどる前に、本書の構成について簡単に見ておきたいと思います。


 第1章の「すごい、ただもうそれだけ」という見出しは、
原著ではSomething Big Was Going to Happen(Saiki Goes to War Footing)となっているようです。「何かどでかいことが起きている。佐伯が戦争に進む足場、拠点になった」。ざっくり訳すとこんな感じでしょうか。

 日本が米ハワイの真珠湾攻撃の準備を進める際に大分県佐伯市が重要な拠点の一つとなったことを書いています。大分の人間にとっては原題の方が分かりやすいかもしれません。

 ※この本に佐伯市平和祈念館やわらぎの裏手にある石碑「連合艦隊機動部隊真珠湾攻撃発進之地」の写真もあります

  園田英雄さんの証言は「第3章 大分の男も戦争へ」「第6章 空から火が」「第9章 大きな代償」「第14章 負けたんじゃない、戦争が終わっただけ」「第15章 空腹、混乱、そして恐怖」「第16章 悪魔が上陸してきた」「第18章 占領が確立する」に出てきます。

 次回は園田さんの証言を見てみます。



 

6/17/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑥遊歩公園2

遊歩公園改造構想は立ち消えに

道路か公園か 軍配は道路に⁉

 

 「アイデア市長」と呼ばれた上田保氏(故人)の業績をたどって遊歩公園を訪ねました。前回の「大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑤遊歩公園1」では、上田さんが設置した彫刻について見てみました(左のイラスト参照)。

 今回は遊歩公園の大改造計画について書こうと思います。結論を言えば遊歩公園を大きく変えようという動きが一時盛り上がったようですが、そのうち立ち消えになりました。

 1945(昭和20)年の敗戦からの復興を進めた上田さんは、焼け野原となった大分市中心部に色んな公園を造りました。その公園が木下敬之助市長の時代に一新されました。

 木下市長といえば、このブログの「大分まち歩き/アイデア市長の遺産③高崎山Ⅲ 存廃論議」に登場しています。この時は、木下市長は一時「高崎山自然動物園」の廃園も検討したという新聞記事を紹介しました。

 ウィキペディアをみると、木下氏は1991(平成3)年から2003(平成15)年まで3期12年市長を務めています。木下市政は敗戦・復興から半世紀の節目を迎える中で、新たな時代(21世紀)を見据えて、色んなものが見直される時期だったともいえそうです。

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6/09/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑤遊歩公園1

 「大分の歴史」語る彫刻 遊歩公園 



 「アイデア市長の遺産」と題して、1947(昭和22)年から1963(昭和38)年まで4期16年にわたって大分市長を務めた上田保氏(故人)の遺したものを見てきました。

  野生のサルを餌付けして観光の目玉にする。上田さんのアイデアは「高崎山自然動物園」となって多くの観光客を集めました。高崎山のサルと上田さんは一躍有名になり、「アイデア市長」として名を馳せました。

 上田さんにはもう一つの異名がありました。それが「公園市長」です。米軍の空襲で焼け野原となった大分市中心部の復興計画に沿いながら、上田さんはユニークな公園を生み出しました。それが若竹公園、若草公園、ジャングル公園で、上野の墓地公園もそうです。

 ジャングル公園については「大分まち歩き④住居表示番外編④都町Ⅲ」で紹介しています。

 上田さんが造った代表的な公園にはもう一つ「遊歩公園」があります。どんな公園なのか。冒頭の短い動画にまとめてみました。

 上田さんにとって、遊歩公園に彫刻を据えることは晩年の大きな楽しみだったのではないかと思います。左のイラストにある彫刻はすべて上田さんが関わっています。

 「西洋音楽発祥記念碑」「西洋医術発祥記念像」「西洋劇発祥記念碑」「伊東ドン・マンショ像」(天正遣欧少年使節)…

 彫刻をながめ、横にある案内板を読むと、「西洋」と出会い、それを受け入れ、文化や貿易の先進地となった郷土の歴史を語る上田さんの顔が浮かんできそうです。

 上田さんは自分たちが生まれ育った大分にもっと誇りをもってほしいと思ったのかもしれません。




  上田さんは市長退任後、高崎山自然動物園の真ん前に「大分生態水族館『マリーンパレス』」を開館します。この時も上田さんのアイデアマンぶりが発揮されます。

 世界初の「回遊水槽」を造りました。ドーナッツ型の水槽の中に水の流れを作り、それに乗って魚が泳ぐ。斬新な仕掛けでした。

 マリーンパレスの開館前後のことは「大分まち歩き/アイデア市長の遺産⓵高崎山 細る客足」で少し紹介しています。

 このユニークな水族館も人気を呼び、収益を上げます。社長の上田さんは儲けの一部を地域に還元するという意味でしょう、毎年のように彫刻を大分市に寄贈しました。

 上のイラストの「健ちゃん」は1969(昭和44)年設置でマリーンパレス創業5周年を記念して寄贈したものです。

 続いて遊歩公園横の県庁前広場にある「西洋音楽発祥記念碑」は1971(昭和46)年でマリーンパレス創業7周年、「西洋医術発祥記念像」が1972(昭和47)年の創業8周年、「育児院と牛乳の記念碑」が1973(昭和48)年の創業9周年、「西洋劇発祥記念碑」が1974(昭和49)年の創業10周年、「伊東ドン・マンショ像」が1975(昭和50)年の創業11周年と次々に寄贈されています。

 中世の府内にキリスト教の宣教師とともに入ってきた西洋文化と当時の人々とのかかわりがテーマとなり、さまざまな「大分の歴史」が分かる彫刻の散歩道となっています。

 散歩しながら歴史も学べるユニークな公園なのですが、あまり歩いている人を見かけません。
 

 両側に2車線の道路が走り、その間の広い中央分離帯が遊歩公園になっています。その中央分離帯も一本につながっていればまだいいのですが、あちこち道路で分断されています(上のイラストを参照ください)。

 公園ができた1950(昭和25)年頃とはクルマの往来が天と地ほど違います。クルマは急増し、交通量は増し、道を横断するのも容易ではなくなりました。利用者が減るのも自然なことで、このままではもったいないと活性化策が探られることになります。それが26年前のことでした。

 26年前の遊歩公園改造の動きは次回に紹介します。


5/30/2023

志手ぶらぶら路上観察記①自販機

 ひと手間かけたピザの自販機



 コインランドリーの駐車場の片隅に自動販売機が2台据えられているのを見つけました。
 1台の自販機に「毎日お店で焼き上げた手作りパン販売機」「毎日直送」と書いてあったので、試しに買ってみることにしました。それが5月28日。上と右の写真はその時に撮影しました。

 購入したのはプレミアム食パン(3枚入り)で170円。ほかに黄金メロンパン180円、くるみぱん170円、あらびきウインナー170円など7種類が販売されています。

 隣の自販機にイラストを描いていた人が、パンは「伊三郎製ぱん」で、もう一方は別府の“かみん”のピザだと教えてくれました。

 あらためて自販機を見てみると「花民」「CAMIN」と描いてあります。

 自販機の上の方に「花民の冷凍ピッツァをご自宅で」と書いてありました。

 筆者は伊三郎パンは知っていましたが、花民のピザは知りませんでした。

 ネットで検索すると、例えば「食べログ」に「新窯ピッツァ&Gallery花民(カミン)」について「オススメ400度の窯で焼く本格的な石窯ピッツァを、くつろぎのアート空間で満喫」などとあります。

 さらに見ていくと、少し詳しい話が「BE BEPPU(ビーベップ)」の「新窯ピッツァ&Gallery花民」にありました。

 「押し花工房 花民」を出発点に、そ
こに人が集まり、お茶を出したりするうちに、本格的な「食とアートの空間」を目指すようになったとか。

 開店当初はスタッフを雇い、ピザやパスタを出していたが、オーナーが一念発起し、ピザづくりを学ぶために湯布院の「櫟の丘(くぬぎのおか)」に1年間修業に行った、とのエピソードもありました。

 筆者が知らないだけで、結構有名な店のようです。上の写真は5月29日撮影。自販機の装飾もそろそろ終わる頃のようです。自販機がオープンしたら、ピザも買ってみようと思っています。

 

5/21/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産④高崎山番外編 田ノ浦ビーチ

 田ノ浦ビーチ 絶滅免れた海浜 



 開園70周年を迎えた国立公園高崎山自然動物園から約1キロの田ノ浦ビーチに足を延ばしてみました(上の動画)。今回のタイトルに「アイデア市長の遺産④高崎山番外編」と付けたのは、前回のブログ「アイデア市長の遺産③高崎山Ⅲ 存廃論議」と関係しているからです。

 高崎山との関連はあとで述べるとして、ここでは「田ノ浦ビーチ」に関する筆者の“発見”について最初に書いておきます。というのも、このブログの目的は、長く住んでいる人には常識でも、新参者にはちょっとした発見に思えることを書き留めていくことだからです。

 
田ノ浦ビーチがオープンしたのが2000(平成12)年7月でした。直前の「市報おおいた」6月15日号(上)にお知らせがあります。

 大きな写真が2枚。1枚は田ノ浦ビーチの全景を写したものです。海に突き出た人工島が見えます。パームツリー(ヤシの木)があちこちに植えられ、南国ムードが漂う現在(下の写真)とは印象が異なり、いかにも出来立てという感じが出ています。


 筆者がちょっとした発見だと思ったのは、仕上げを待つ田ノ浦ビーチの無骨な外観ではなく、市報にあった一文です。「田ノ浦」は「大分市近郊に残された唯一の自然海浜」と書いてありました。逆に言えば、田ノ浦を除く大分市の自然海浜はすべてなくなってしまったということです。

 さらりと書かれている一文にちょっと驚かされたのですが、考えてみれば、大分市の海岸線が大規模に埋め立てられ、鉄と石油の一大工業地帯となったことは、このブログでも書いていました※。

 ※大分まち歩き③住居表示番外編⓷都町Ⅱの「鉄と石油と夜の街」(2023年3月23日公開)をご参照ください。

 「鉄と石油と夜の街」で使った写真「大分県の新工業地帯」に「田ノ浦ビーチ」を加えてみました(下)。


 飛び地になっている田ノ浦は埋め立てを免れました。海岸の埋め立ては大分市に限ったことではありません。全国各地で工場誘致や港湾整備、その他さまざまな目的で海辺がコンクリートなどで固められていきました。

 失われた海浜に代わるものとして人工的なビーチが造られる。これも大分市に限ったことではありません。

 経済成長を最優先する時代には海を埋め立てるメリットは大きなものでした。成長を遂げ、余暇を楽しめる時代になると埋め立てのデメリット、海浜を失ったことの大きさといったものを感じるようになります。

 遠い将来を見据えて物事のメリット、デメリットを勘案しながらいろんなことができれば理想でしょうが、神ならぬ身の人間ではそうもいきません。高崎山自然動物園もそうでした。

 野生のサルの餌付けに成功し、サルを身近に見ながらエサもやれる珍しさが人気を呼び、多くの観光客を集めました。やがて入園者が減少に転じる一方、サルは急増し、農作物被害や森林の食害が問題となってきます。

 前回の「高崎山Ⅲ 存廃論議」では、高崎山の廃園も一時検討されたという話を紹介しました。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

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