7/18/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験②

 

園田英雄さん 消えない戦争の記憶②

空から火が 学徒動員の工場直撃


 
 エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳の「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(みすず書房刊)から、園田英雄さん(故人)の証言を見ていきます。

 この本については「米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験①」(2023年6月21日公開)で紹介しています。1930年代から1950年代にかけて戦争や占領を経験した大分の人たちの話を、立命館アジア太平洋大学(APU)の教授だった筆者らが聞き取り、まとめた本です。

 単純に証言を羅列したものではなく、日米の資料などを駆使して体系的にまとめられた貴重な本だと思います。

 この本に登場する証言者の一人が園田英雄さんです。英雄さんは志手老人クラブ共和会が発行していた「ふるさとだより」の編集者で、「ふるさとだより」にも自らの戦争体験を書き、平和の尊さを説いていました。

 昭和20年3月 海軍航空廠で働き始める


 英雄さんの脳裏から生涯消し去ることができなかった一番の記憶といえば1945(昭和20)年4月21日の出来事だったのではないでしょうか。
 
 大分工業学校2年生だった英雄さんは、この年の3月10日から第十二海軍航空廠の工場で働き始めました。大分市中心部とは大分川を挟んだ対岸に海軍航空廠はありました(地図上)。 

 英雄さんは飛行機の木製品を作る工場で働きます。「金属が不足していたから木製で代用できる部品を作っていました。飛行機の背中にあるアンテナの柱が木になり、操縦席の前の計器盤、これもベニヤ板になります」。教授らの聞き取りに対して英雄さんは当時を振り返りました。

 戦線の拡大とともに男たちが次々に戦場に送り出され、労働力不足が深刻になってきます。男たちの穴を埋める手段の一つが学徒の動員でした。

 この本によると、1944(昭和19)年4月時点で第十二海軍航空廠には12,000人の工員がおり、このうち8,000人は学生だったといいます。男女の勤労学徒は1945(昭和20)年の初めには16,000人に上ったそうです。

 英雄さんも勤労学徒の一人となります。そして、英雄さんは工場勤務を始めてすぐに初めての空襲を体験することになります。

 右は大分合同新聞1945(昭和20)年3月19日付。「敵艦上機九州南部」「東部に波状来襲」という見出しがあります。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)


 機銃掃射 パイロットの顔が見えた

 「3月18日、大分に初めて空襲がありました。私が軍需工場に働きだしてわずか1週間後のことでした」と英雄さんが話しています。

 「全員に避難命令が出て工場の外に出ると、もうすぐ近くに艦載機のグラマンが迫ってきていました。川岸の竹やぶの中に潜りこむと機銃掃射を受けて正面からパラパラと弾が降って来た。それはもう怖かったです。ふと見たらすぐ上を飛んでいて、パイロットの顔が見えました」

 空襲は翌日もあり、大分海軍基地や第十二海軍航空廠だけでなく、佐伯海軍航空基地も爆撃されたといいます。

 左は3月20日付の大分合同新聞。「B29百数十機名古屋夜襲」などと名古屋市が空襲を受けたことを報じています。

 米軍が日本本土の軍事基地や軍需工場を空爆によって叩こうとしたのは沖縄上陸・占領のためでした。米軍はじりじりと日本本土に迫っていました。

 右は1945(昭和20)年3月22日付の新聞です。硫黄島の玉砕が報じられています。

 
 そして、3月28日付の新聞で米軍の慶良間列島上陸が報じられました。記事は「沖縄本島に対する上陸の企図をいよいよ明白に露呈するに至った」と強い調子で書いています。

 同じ紙面には「B29約150機 白昼 九州北部に来襲」「大分飛行場を目標」という記事もあります。

 「戦時下、占領下の日常」の筆者は次のように解説しています。

 「アメリカ軍が大分県内の基地を爆撃してくるのは日本の軍用機を沖縄に行かせないためである」「アメリカ軍は大分や宇佐、九州各地の基地から飛んでくる『神風』特攻隊の攻撃を恐れていたので、基地への攻撃は容赦なく続けられた」

死者とおびただしい負傷者 地獄絵図

 
 軍需工場も当然標的になりました。そして、4月21日の惨劇が起きました。この日、米軍の爆撃機B29は大分地区に3回飛来し、攻撃を繰り返します。

 「戦時下、占領下の日常」から引用します。

 「大分市周辺の軍需工場で働いていた学生たちにとって、もっとも悲劇的な日として心に刻まれたのは1945年4月21日である」

 「朝6時18分にサイレンが鳴り響き、続いて聞きなれない轟音が聞こえた。空を見上げた人々は、空高く飛ぶB29の機影を見た。そして6時50分に雨あられのごとくに爆弾が落ち始めた。町の大部分が燃え上がり、大分駅周辺も破壊された。列車は使い物にならない状態だった。多数の家が焼け落ち、何十人もの死者が出た」

 「200発の爆弾を落として爆撃機は去り、サイレンは鳴りやんだ」
 
 英雄さんらが働く大分海軍航空廠は爆撃を免れ、稼働していました。そこにB29が1機現れます。21日正午過ぎでした。そして、英雄さんが働いていた第三工場に爆弾を落としました。

 英雄さんはその時のことを次のように語っています。

 「避難命令もなく機械はガンガン動いて作業中でした。たまたま私は爆弾が落ちたところから一番遠くにいたのでけがもなかったですが、そのときの惨状は爆弾テロ※そのものです」

 「倒れた機械の下敷きになって死んでいる。2階建ての工場で、上階で働いていた人たちがあちこちに放り出され、割れた頭からは脳みそが出ていました。大分工業の生徒もひとり死んでいます。私の同級生です」

 「もちろん死者以外にも重軽症者であふれていて、その地獄図絵のなかを残ったわれわれは後片付けするわけです。助けを求める女子工員の声が耳に焼き付いています」

 英雄さんが体験した惨劇は当時の新聞では報じられていません。ただ、何かものすごいことが起こったという噂が広がったといいます。

 英雄さんは「昭和20年4月21日の惨劇」と題して、志手老人クラブ共和会が発行していた「ふるさとだより13号」に、もう少し詳しい話を書いています(左の資料)。

 米軍の空爆は8月まで続き、その目的も変わっていきます。次回も「戦時下、占領下の日常」を基に「大分の空襲」について書いていきたいと思います。

 
 ※爆弾テロとは2001(平成13)年9月11日に米国で起きた同時多発テロのことです。テロリストがハイジャックした旅客機がニューヨークの超高層ビルに突っ込み、ビルが炎上している映像が今も頭に残っています。

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