8/08/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験⓷

 園田英雄さん 消えない戦争の記憶⓷

狙われた大分 空襲 九州最多の20回



 前回の「園田英雄さん 消えない戦争の記憶②」では、
エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳の「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(みすず書房刊)にある園田英雄さん(故人)の証言を見ました。

 今回もこの本を下敷きにしながら、他の資料も参照して昭和20(1945)年の大分市の空襲被害について見ていきたいと思います。

 都市別の空襲回数は大分県立図書館にあった「建設省編 戦災復興誌第1巻」(計画事業編)から引用しました。この本は1959(昭和34)年3月に財団法人都市計画協会から発行されています。

 この本は簡単に言えば、空襲で焦土と化した国土の復興の記録です。空襲による被害は全国で120余の都市に及び、罹災面積は1億9千万坪(約62,700ha)、罹災戸数約230万戸、罹災人口970万人に上った、と戦災復興誌は書いています。

 都市という都市は軒並み米軍の標的となり、空襲に遭わなかった都市が例外的と言えるほど、米軍の攻撃は徹底したものでした。

 大分市も米軍の空襲を逃れられるはずはありませんが、筆者にとって意外だったのは大分市が受けた空襲の回数でした。20回は地方都市としては際立つ多さです。

 なぜ、大分市は他都市以上に米軍の空爆の標的となったのでしょうか。

 ※総務省のホームページにある「大分市における戦災の状況」には、大分市は初空襲から終戦までに22回の空襲を受けたと書かれています。実は「建設省編 戦災復興誌第6巻」(都市編Ⅲ)にも空襲回数22回と書いてあります。

 とりあえず他都市との比較をするために「戦災復興誌第1巻」に記載された数字を使うことにします。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)


 前回の「園田英雄さん 消えない戦争の記憶②」でも書きましたが、大分市が初めて空襲を受けたのは3月18日でした。このとき、攻撃の主要目標となったのは大分、宇佐、佐伯の航空基地でした。

 沖縄侵攻 九州の「特攻基地」を叩け


 大分工業学校の生徒だった園田英雄さんが学徒動員されて第十二海軍航空廠で働き始めて1週間でした。

 この時、英雄さんは米戦闘機のパイロットの顔が見えたと、聞き手のエドガー・A・ポーター立命館アジア太平洋大学教授(インタビュー当時)に話しています。

 この時の空襲の状況について「大分県警察史第1巻」には、次のように書かれています。

 8時50分、県下に空襲警報発令。この日、県下を襲ったのは、カーチスSB20ヘルダイバー艦上爆撃機とグラマンF6Fヘルキャット戦闘機で、主要目標は大分、宇佐、佐伯の航空基地であったが、基地以外でも浅海井(あざむい)、幸崎、杵築などで日豊本線の列車に銃撃が加えられ、19日も空襲が続いた。


「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」には3月18日の空襲について以下のような背景説明がありました

 大分周辺の学生たちが軍需工場へと駆り出されていた頃、アメリカの爆撃機は東京や名古屋などの大都市以外にも攻撃目標を広げていた。1945(昭和20)年3月半ば、カーティス・ルメイ将軍は司令部から九州の都市を爆撃する許可を得た。これはアメリカが日本本土に侵攻する前に、第一歩として沖縄を攻撃しようという計画によるものだ。

 九州には海軍や陸軍の基地がたくさんあるので、地の利を生かしてアメリカ軍に攻撃を仕掛けてくるだろう。ルメイの攻撃目標のリストには鹿屋、宮崎、大刀洗、新田原、大村、大分、佐伯が載っていた。攻撃が始まると、ここに宇佐も加えられた。爆撃は終戦まで断続的に続けられた。
 
 右の本「写真が語る日本空襲」は、米国の国立公文書館に保管された米軍の写真などを使って、米国が日本に対して行った攻撃(空襲)について詳しく解説したものです。
 
 右上の地図は本の中から引用したものです。米軍が4月1日に予定した沖縄上陸作戦のために攻撃目標とした基地のリスト。九州の特攻隊が沖縄に出撃できないよう、その基地を破壊する作戦でした。宇佐はこのブログの筆者が書き加えました。

 焦土作戦 市街地に降る焼夷弾の「雨」


 沖縄戦の終局が近づくと、米軍は日本本土の攻撃で新たな手を打ってきました。「写真が語る日本空襲」から引用します。

 1945(昭和20)年6月15日の白昼には、大阪・尼崎に対する空襲があり、これは大都市に対する最後の空襲であった。ところがその直後、6月17日に、21爆撃機集団の司令部は、野戦命令87号を発して、麾下の航空団に対して、6月17日夜から18日未明にかけて、それぞれ一つずつ目標都市を割り当て、一夜に4都市を焼き払うという試みの第1回を始めた。

 4都市とは鹿児島、大牟田、浜松、四日市でした。

 左は6月19日付の大分合同新聞の記事です。読み取りが難しいのですが①B29約100機が17日夜11時頃から18日午前4時頃にかけて来襲②一部は関門地域に向かい、主力は大牟田市で焼夷弾攻撃を行った⓷火災が発生したが、朝6時頃までに消し止め、重要施設の被害は小さかった、という内容のようです。

 「写真が語る日本空襲」によると、地方都市の空爆は梅雨対策だったということです。この時期、天候が悪く、爆撃が妨げられることが予想されるが、攻撃の手を緩めたくない。そこで、レーダー爆撃が可能ならば、工業市街地に夜間空襲をかけることにした、とこの本は解説しています。


 地方都市への夜間空襲の2回目は豊橋市、福岡市、静岡市でした。「写真が語る日本空襲」によると、福岡が目標都市の中では大きかったから、福岡には第73と第313の両航空団を割り当て、一夜に焼かれる都市は3都市になった、という経過があったようです。

 この夜の空襲について、総務省のホームページに「福岡市のおける戦災の状況」がまとめられています。

 6月19日、マリアナ基地を発進したB29は
福岡市の工場、港湾、鉄道などを攻撃目標として、九州南部より分散北上し、有明海から佐賀県、背振山地を越えて西南部方面から本市上空に侵入した。
 221機といわれるB29の反復攻撃は、午後11時10分頃から翌20日午前1時頃まで続き、約2時間にわたる空襲で、繁華街をはじめ、主要な地域は殆ど焦土と化した。

 新聞によると、福岡市を襲ったB29は約60機となっています。わざとなのか計算ミスなのか。軍はかなり不正確な数字を発表していたことが分かります。

 米軍機 日本の空を縦横無尽に駆ける


 焼夷弾投下によって中小都市を焼き払う作戦はさらに続きます。3回目の標的となったのは岡山、佐世保、門司、延岡の4市でした。

 米軍の攻勢は続きます。「写真が語る 日本空襲」によると、7月1日から2日の夜間攻撃では呉、熊本、宇部、下関の4市、続く7月3、4日では高松、高知、姫路、徳島の4市がそれぞれリストアップされました。

 中小都市への空襲は連日のように行われました。「写真が語る 日本空襲」によると、7月6、7日が千葉、明石、清水、甲府の4都市で、7月9、10日が仙台、堺、和歌山、岐阜の4都市でした。この攻撃リストを見ていくと、日本が米側に制空権を握られ、米軍機が日本の空を縦横無尽に飛び回っていることがよく分かります。

 攻撃計画はさらに続きます。7月12、13日は宇都宮、一宮、敦賀、宇和島の4都市、そして、7月16,17日は大分、沼津、桑名、平塚の4都市が標的となりました。大分の空襲についてはあとで少し詳しく紹介します。

 次いで7月19、20日は福井、日立、銚子、岡崎の4都市、7月26、27日は松山、徳山、大牟田(再)の3都市でした。大牟田が再び狙われたのは、最初の焼夷攻撃の効果が小さかったと判断され、攻撃のやり直しが計画されたということだそうです。

 7月28,29日には津、青森、宇治山田、大垣に加えて一宮、宇和島が2回目の攻撃対象となっています。

 8月に入ると、1、2日が八王子、富山、長岡、水戸の4都市。5、6日が佐賀、前橋、西宮、今治の4都市。さらに、8日は八幡を白昼に空襲し、9日は福山を夜間空襲。14、15日は熊谷、伊勢崎の2都市が標的となっていました。

 「写真が語る 日本空襲」が掲載した攻撃リスト以外にも空襲を受けた都市があります。8月10日に大分市や熊本市などが攻撃を受けています。まさに米軍のやりたい放題といった状況が見て取れます。

 大分市街地 2度の焼夷攻撃で灰燼に

 
 大分市は7月16日夜から17日未明の空襲に加え、8月10日にも大規模な空襲を受け、市街地は灰塵に帰しました。

 大分県警察史第1巻」に空襲の状況がまとめられていますので、それを引用してみます。

 7月16日午後9時半に空襲警報発令。警報発令のサイレント同時に1機で飛来したB29が照明弾を投下し、市内が真昼のように明るくなった。

 続いてB29127機の大編隊は「親」焼夷弾100個、790トンを投下した。「親」焼夷弾は落下途中ではじけ、(「子」にあたる)小型焼夷弾が無数に飛び散り、市街地に降り注いだ。

 B29の波状攻撃はまず大分市の周辺部から徐々に中心部に向けられ、大分川に向かって避難する市民の上に油と黄りんのまじった焼夷弾が火の玉のように降ってくる。全身火だるまになって水田に転げまわる者もいた。

 当時の新聞によると、B29の焼夷攻撃は17日午前零時10分頃から同1時50分頃まで続いたようです。


 17日の午前4時に空襲警報は解除され、恐怖の一夜が明けると、大分市は駅から新川の海岸が一目で見渡せる焼野が原に変わっていた、と大分県警察史は書いています。

 ほぼ丸裸にされた大分市街地にとどめを刺したのが8月10日の空襲といえるでしょう。
 
 再び「大分県警察史」を引用します。
 
 8月10日午前11時30分、空襲警報発令。米軍資料によると、熊本を攻撃の第一目標にしたが、先発隊の攻撃による爆撃の爆煙で熊本市内の視界がきかなかったため、第二目標である大分市を爆撃。6号ナパーム弾532個を投下した。

 7月16日夜の空襲で焼け残った家屋も、この日の大空襲でほとんど灰燼に帰した。

 新聞によると、8月10日の米軍の攻撃は九州全土に及んでいます。見出しに「戦爆連合 全九州を行動」とあり、記事は、爆撃機や攻撃機、戦闘機の一団約210機が飛来し、九州各地の飛行場や交通施設、船舶などを銃爆撃したと伝えています。熊本市は午前10時頃から、大分市は同11時から白昼の焼夷攻撃にさらされ、午後2時頃まで続いたようです。

 これはもはや戦いとは言えないでしょう。優劣の差は明らかで、一方的に殴られ続けているようにしか見えません。むやみに犠牲者を増やすだけの不毛な戦いとしか思えません。

 大分はなぜ、米軍の攻撃を数多く受けたのか。既に明らかなように、米軍の標的があったからです。最初は大分海軍航空隊や第十二海軍航空廠などがそれです。そして、米軍の攻撃対象が大分市内の軍関連施設から、市全体になっていきました。


  【追記】

 大分の空襲回数が他都市に比べて多かったのは、狙いやすかったからだったとしたら、どうでしょう。このブログの筆者の勝手な想像ですが、「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」を読んでいて、ふと思い付きました。

 この本の第11章「町そのものを消滅させる」に以下のような証言がありました。

 「毎日毎晩空襲警報が出ていました。B29が南のほうから豊後水道上空を飛んでくる。大分に爆弾を落とさなくても通り越して宇佐や福岡のほうで、あるいはちょうど目の前の空から遠ざかって山口や呉のほうで爆弾を落とす。行きすぎると警報は解除になって今日は何もなかった、大丈夫かな、なんて思っていたら、最後にばっさりやられましたね」

 最後にばっさりとは7月16日夜から17日未明の空襲を言っているようです。16日は午前10時50分に空襲警報が発令され、同11時34分に解除されており、この時は爆弾投下はなかったとの記録があります。

 狙いやすいとは、大分が米軍の飛行ルートの途中にあるため、攻撃する機会が他都市に比べて多いのではないか、という意味ですが、どうでしょう。まあ、思い付きの範囲は超えていませんね。
 



  

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