11/29/2022

ふるさとだよりで知る志手のトリビア①「志手左官」の由来は?

 「ふるさとだより」で知る「志手」のトリビア①

「三佐 大工 上野 ペンキ屋 志手 左官」


 志手の歴史を知るのに良い資料があります。このブログ「大分『志手』散歩」の志手ポンカン連載1回目の「志手ポンカンは日本一⁉」でも紹介した「ふるさとだより」です。

 「ふるさとだより」は志手の老人クラブが発行していました。手元には平成10(1998)年4月発行の第1号から平成17(2005)年5月発行の17号「特集戦後60年」まであります。

 
 ふるさとだよりを読み返してみて、ちょっと面白いな思ったものがいくつかありました。それを紹介していきたいと思います。

 1回目は園田逸雄さん(故人)が書いた「郷土の先人 園田秀五郎翁をしのぶ」(第5号・平成11年4月発行)です。

 
 
副題は「志手左官の由来について」。文章の冒頭に見出しで紹介した「三佐大工、上野ペンキ屋、志手左官」という言葉が出てきます。
 第二次大戦前に大分で言われた(特に職人仲間では日常にいわれる)言葉だそうです。

 三佐、上野、志手は地名、大工、ペンキ屋、左官は職業です。大分市の三佐地区には大工が、上野地区には塗装業者が、志手には左官が多かったということでしょうか。

 府内城下町の昔の町名にある「塗師町」「大工町」といった感じでしょうか。では、なぜ志手は左官を仕事にする人が多かったのでしょう。

 そのカギを握る人物が園田秀五郎というわけです。上の写真は園田秀五郎翁の頌徳碑があったという場所です。今は頌徳碑はなく、碑があったであろう場所を黒く塗ってみました。

 園田逸雄さんの文章で秀五郎翁の足跡をたどりたいと思います。

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11/18/2022

志手ポンカン➃幻になる日も近い?

減る生産者 まぼろしになる日も近い⁉


 「志手ポンカン」連載の4回目です。1回目は志手ポンカンが世に出たいきさつ、2回目は新聞記事に見る志手ポンカン、3回目は志手ポンカンの特徴について、それぞれ簡単に書いてきました。
 今回は連載の締めくくりとして志手ポンカンの現状を見てみたいと思います。
 
 

 志手ポンカンは今どれくらい作られているのでしょうか?上は
2013(平成25)年2月1日付の大分合同新聞です。筆者が確認できた「志手ポンカン出荷」の最後の記事です。記事によると、この時は7軒の農家が合計約11トンを生産しています。最盛期の4分の1といったところでしょうか。今はこの時よりも少なくなっているのは間違いないでしょう。

 生産者が減り、農地が減り、「不知火(デコポン)」や「はるみ」などの登場でポンカンの魅力も相対的に低下しました。このままいくと志手ポンカンが「まぼろし」になる日も近いのかもしれません。

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11/08/2022

志手ポンカン③ポンカンの効用は

ビタミンCたっぷりの冬の味覚  

 

 秋の深まりとともに青々としていたポンカンの果実も徐々に黄色く色づいてきています。今年は色づきが早い方なのでしょうか。左の写真は11月7日に撮影したものです。

 ポンカンもいろいろあります。ウィキペディア(Wikipedia)によると、「高梢系」の「吉田」「今津」「薩州」と、「低梢系」の「太田」「森田」「興春」があるそうです。

 ちなみに高梢系は果実が腰高で大果になり、低梢系は果実がやや扁平で小果、種が少ないという特徴があると書いてあります。

 志手ポンカンはどっちの系統でしょうか。志手ポンカンは種が結構あります。ならば種が少ない低梢系でなく、高梢系でしょうか。では果実の大きさはと見ると、大きなのも小さなのもあったりします。素人にはよく分かりません。

 連載2回目の前回は、志手ポンカンに関する地元紙・大分合同新聞の記事を集めて紹介しました。地元紙の記事では志手ポンカンをどう説明したのでしょう。

 1993(平成5)年から2001(平成13)年までは9年連続で掲載された「志手ポンカンの出荷」の記事を改めて見直してみました。

 記事の書き出しを古い順に並べてみると、

 

甘い香りとビタミンCたっぷりの果実がおいしいと評判の(1993年)

 甘い香りと豊富なビタミンCで人気がある(1994年)

 冬の味覚(1995年)

 ビタミンCたっぷりの冬の味覚(1996年)

 フレッシュな冬の味覚(1997年)

 ビタミンCたっぷりの冬の味覚(1998年)

 ビタミンCたっぷりの冬の味覚(1999年)

 冬の味覚(2000年)

 ビタミンCたっぷりの冬の味覚(2001年)

 「ビタミンC」がキーワードのようです。ただ、これでは志手ポンカンが“何者か”を特定する材料にはなりません。

 一般にミカン類はビタミンCが豊富なイメージがあります。志手ポンカンの特徴を語っているようで語っていない「ビタミンCたっぷりの」という形容詞は何に由来するのでしょう。一つ心当たりがありました。

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11/03/2022

志手ポンカン➁いけるぞ!志手ポンカン

 いけるぞ!志手ポンカン 見出し躍る


 志手ポンカン連載1回目の前回は、温州ミカンから志手ポンカンへの転換の軌跡をたどりました。志手の生産者18人による共同出資で「志手柑橘生産組合」が作られ、共同出荷のための選果場が建てられました。志手ポンカンの生産・販売の体制が整う中で、地元の新聞やテレビにも話題として取り上げられるようになりました。

 
 私が見つけた一番古い新聞記事は、大分合同新聞の昭和57(1981)年2月21日付朝刊です。生産組合を作り、選果場を建設して最初のポンカン出荷が行われた時だと思われます。

 
 当時の大分市長を訪ね、志手ポンカン1箱を贈呈したという話です。記事には、志手ポンカンを本格的に生産・出荷し始めた最初の年とあります。
 もらったポンカンを試食した市長は「鹿児島などの本場のものより、味も香りも良い。“志手ポンカン”ではなく“大分志手ポンカン”として売り出してください」と言ったとか。記事にあります。
 そこで新聞の見出しも「いけるゾ『志手ポンカン』」「市長も試食 太鼓判」となかなか威勢の良いものになっています。

 志手ポンカンに関する大分合同新聞の記事はまだあります。もう少し紹介してみようかと思います。

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10/28/2022

志手ポンカン①志手ポンカンは日本一

 志手ポンカンは日本一⁉

 志手ポンカンを絶賛した著名人がいたそうです。

 その人とはキヤノン創業者で、大分県蒲江町(現佐伯市蒲江)出身の御手洗毅氏。同氏が大分市の大分文化会館で大分合同新聞の記者と食事をした際、デザートに出たポンカンが美味しいと言い、産地を尋ねた。
 そして、志手産であることを知り「大分県の一村一品で一番うまいのは志手のポンカンである」と言った。それが新聞記事となって志手ポンカンの評価を上げ、日本一とも評されるようになった。

 そんな話があるようです。「大分キヤノン」が設立されたのが1982(昭和57)年と言いますから、御手洗氏の来県と記者との懇談はその前後ではないか。そう考えて新聞記事を探してみましたが、残念ながら見つけられませんでした。

 御手洗氏の逸話があったのは、志手地区の老人会が発行していた「ふるさとだより」に掲載された「日本一うまい志手ポンカンの話」の中です。まずはそれを紹介しましょう。

 
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10/20/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記⑥ミカンは神代の昔から?

 ミカンは神代の昔から?

 
 
 志手に残る農村風景を紹介するためにミカンの話を書き始めましたが、書き進めるうちに主客が入れ代わってしまいました
志手の農村風景はどこかに引っ込んでしまい、ミカンだけが表舞台に立っている感じです。

 筆者が当初考えていた展開とは違ってきましたが、志手ポンカンにつなげるまでミカンの話を続けたいと思います。

 さて、大分ミカンの先駆者として岩田丑太郎を紹介しましたが、大分県内では岩田翁の取り組みの遥か以前からミカン栽培が行われていたということです。

 では、始まりはいつ頃なのか。「大分みかんのあゆみ」と題した年表があります。その最初に「神武天皇 皇登山(水晶山)に登らせ給い、土民ミカン献上する」とあります。

 

 水晶山というのは大分県津久見市にあった水晶山でしょうか。とすれば大分では「神代の昔」からミカンが栽培されていたことになります。にわかに信じがたい話ですが、当時の資料でも残っているのでしょうか。

 もっと現実的なものとして紹介されているのが「尾崎先祖木」です。私が年表に線を引きました。保元2年(西暦1159年)に又四郎蔵富住、松川より柑橘樹移植する。これが尾崎先祖木と呼ばれるもので、国の天然記念物に指定されているのだとか。ただ、このミカンは現在の私たちがよく食べている温州ミカンとはちょっと違うようです

(「大分みかんのあゆみ」には「寛永18年(1641)蔵富、茶屋本に温州を植える」とあります)。

 ともかくも随分昔から大分県内ではミカン栽培が行われてきたことは間違いないようです。ただ、ミカン生産が激増するのは太平洋戦争後の昭和30~40年代です。その結果、生産過剰による価格の暴落が起き、減反(生産調整)政策が実施されることになります。

 そのあたりのことを昭和46(1971)年に発行された冊子「大分みかん」を基に振り返ってみようと思います。ちなみに年表の「大分みかんのあゆみ」はこの冊子にあります。

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10/15/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記⑤ハイキングコースで売り出す

ミカン山でハイキングはいかが? 

 
 「大分ミカンの先駆者」である岩田丑太郎の頌徳碑が昭和31(1956)年に建てられたことは前回紹介しました。この年の大分市報にはミカンに関する話題がもう一つありました。こちらも書いておきたいと思います。
 
 右の写真は
昭和31(1956)年9月17日付の大分市報245号です。「蜜柑山は大豊作」と主見出しがあり、その横に「家族で楽しめるハイキングコース」とあります。

 市報に掲載された写真に白い線を引いたのは私です。これがミカン山のハイキングコースでしょう。岩田丑太郎の頌徳碑が建つ丸尾台地から志手、椎迫へとつながっています。

 当時の大分市のミカン生産の中心地です。「イケイケどんどん」といった感じで、ミカン栽培は拡大の一途をたどっていた時期のようです。大分ミカンの黄金期ともいえます。その勢いに乗ってミカン山をハイキングコースとして売り出し、農業と観光の振興の一石二鳥を狙ってはどうか。そんなアイデアを思い付いた人が市役所にいたようです

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10/06/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➃先駆者・岩田丑太郎の碑

 高台から街を眺める岩田翁の頌徳碑


 
「大分ミカンの創始者」である岩田丑太郎についても一言触れておく必要があるでしょう。大分県立図書館で「大分今昔」とは別の資料を見つけました。それが右の写真です。

 大分市西部地区の史跡紹介マップです。東は大分市中心部に近い春日神社や西新町天満社から、西は別府市寄りの高崎山周辺まで22の史跡を紹介しています。その中に3人の先達が含まれています。それが右の表紙の3人。右端が岩田丑太郎です。

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10/02/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記③大分連隊がきっかけに

  なぜ、ミカン?「大分今昔」に解説が

 
 
 大分合同新聞社から「大分今昔」という本が出ています。
 昭和39(1964)年に初版発行、昭和58(1983)年に再版が出ています。大分県立図書館には再版本があります。左の写真がその中表紙と目次です。
 目次を見ると「昭和通りかいわい」から「桃園かいわい」まで大分市内の25の“町”が出ています。この中の15番目の「王子町かいわい」に志手でミカン栽培が始まった経緯が出てきます。

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9/30/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➁栽植記念の石碑残る

 ミカンづくりの始まりは?

 
 志手地区でミカン作りはいつ始まったか。最初に答えを言ってしまえ明治44年です。証明するものがあります。その一つが右の写真です。

 園田官造さんがミカン栽培を始めた記念に作ったそうです。官造さんの子孫にあたる人が持っていました。

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9/29/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記①ミカンの銘産地・志手

初心に戻って まちを歩けば


 気が付けば1年ほど休眠しておりました。久しぶりにBloggerにログインしてみると、「志手界隈案内➃桜ケ丘聖地その5」が書きかけのままになっておりました。
 去年はちょっと力が入りすぎて、息切れしたようです。そこで今回は無理せず、ぼちぼちとやっていくことを第一とすることにしました。

 再開第一弾のテーマは「志手に残る農村風景」です。初回のブログ「志手はどこにある?」の冒頭に「どこか残る『村』の風情」と見出しを入れました。そして「町内を歩くと昔の『名残り』といったものを発見できます」と書きました。この昔の名残りをあらためて紹介したいと思います。

 その一つがポンカンです。初回の「志手はどこにある?」でも書きましたが、志手は「ミカンの産地」として知られていました。中でも有名となったのが志手ポンカンです。
 
 冒頭の写真は志手地区のすぐ後ろにある丘陵に実るポンカンと大分市街地です。志手でミカン、ポンカンを生産する人は少なくなりました。ミカン畑も注意して探さないと、どこにあるか分からないほどです。

 左の写真は住宅地の中にある数少ないミカン園地です。こちらもポンカンが実を付けています。ほかに温州ミカンや不知火(デコポン)も植えられているようです。
 さて、次回以降に志手のミカンの歴史や志手ポンカンにまつわるエピソードなどを少しづつ紹介していきたいと思います。




 





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