9/30/2024

メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議?

駄原総合運動公園の落羽松


 

「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。

 翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑地(三佐)、天神島公園(中島東)と平和市民公園にあります」

 駄原総合運動公園のラクウショウは誰が、いつ植えたものなのか。疑問に思って少し調べたことは、このブログ「メタセコイアとラクショウ①駄原総合運動公園」(2024年7月4日公開)で書きました。

資料なし 情報公開請求は空振り


 その時は結論が得られず、資料探しをもう少し続けることにしました。最初に思い付いたのは大分市に対して情報公開請求をすることでした。

 2019(令和元)年に開催されたラグビーワールドカップ日本大会に向けて駄原総合運動公園が大規模に改修されたことは、「メタセコイアとラクウショウ①駄原総合運動公園」(7月4日公開)で書きました。

 運動公園の改修計画が作られる中で、ラクウショウ(落羽松)の伐採でどんな議論があったのかを知りたい。そんな趣旨で公文書公開請求書を出したのは7月12日でした。

 伐採協議でラクウショウが植えられた経緯などに触れられていないか。それがあれば「誰がいつ植えたか」が分かるのではないか。そんなことを期待したのですが…。

 結果は「ラクウショウ(落羽松)等の伐採に関する協議記録はありません」ということで、7月25日に「公文書非公開決定通知書」を受け取ることになりました。

 決定書をもらう前に公園緑地課で改修計画に伴う伐採状況の説明を受け、改修前と改修後の航空写真ももらいました。

 その時の縁があって9月24日の電話になったのですが、今回の電話で少し事情が分かってきたような気がします。

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9/16/2024

日照りと大雨 気象台資料で見る8月

日照りと大雨 数字で見る8月 



 9月半ば過ぎても大分では暑い夏が続いています。最高気温は連日30℃を軽く超え、11日には34.9℃と「猛暑日」一歩手前まで行きました。

 この暑さいつまで続くのか。いい加減嫌になってきます。

 このブログ「大分『志手』散歩」の「今年の夏の暑さは? 最近10年のデータ比較」(2024年8月10日公開)で、今年の7月には最高気温が35℃以上の「猛暑日」が17日あった、と報告しました。

 では、8月の「猛暑日」は何日あったのか。大分地方気象台のホームページで9月5日に公表された「8月の大分県気象月報」でチェックすることにしました。

 気象月報のデータを見てみると、大分市の今年の8月は最近にはない特異なものであることが分かりました。

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8/30/2024

メタセコイアとラクウショウ➁大きくなり過ぎた木

 大きくなり過ぎた木 伐採の日



 
その大きな木があることに気づいたのは伐採の日が間近に迫った頃でした。上の写真は伐採された直後の2019(令和元)年12月16日朝に撮影したものです。写真奥の建物は桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の記念館です。


 志手とその周辺を歩いてみると、いろんなところから、その木を見ることができました。こんな大きな木なのに、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者の視界に入ってこなかったのは、植物に疎い筆者が関心を持たなかったからですが、伐り倒されることになって急に興味が湧きました。

 この大木の伐採が2019(令和元)年12月12日から始まると聞いて作業を記録することにしました。


 上の動画は2019(令和元)年12月12日、13日、16日の3日間で行われた伐採作業の記録を編集し、短くまとめたものです。

 この木がメタセコイアであることを知ったのも伐採作業のちょっと前くらいだったでしょうか。

 この木のことを思い出したのは、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が、駄原総合運動公園にある背の高い木々について何か書こうと考えたのがきっかけでした。

 このブログの筆者は駄原総合運動公園の木々がメタセコイアだと思い込んでいました。ブログ「メタセコイアとラクウショウ① 空に真直ぐ伸びる木々 落羽松」(2024年7月4日公開)を書くにあたって、念のために大分市公園緑地課に電話してみました。すると「ラクウショウ(落羽松)」との答えが返ってきました。 

 そこで、まずは総合運動公園のラクウショウについて書き、2回目にかつてあったメタセコイアの大きな木について書こうと考えました。それがこのブログになります。

 動画「大きくなり過ぎた木 メタセコイア伐採の日」の最後にテロップを入れましたが、大木が伐り倒される「最期」に立ち会いながら、この木の由来を何も知らないことに改めて思い至りました。

 「誰が、いつ植えたのか」。どうでもよいといえばどうでもよいことがですが、それが気になります。このブログの筆者の習性で、今回もこのメタセコイアの生い立ちを探ろうとしました。

 そのうち、このメタセコイアと関係ありそうだという一人の人物の名前を小耳にはさんだのですが……

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8/10/2024

今年の夏の暑さは? 最近10年のデータ比較

酷暑‼  元気なのはセミばかり?



 ポンカンの木でセミの抜け殻を見つけました(上の写真、8月7日撮影)。猛暑の中で元気なのはセミだけではないか。そう思いながらシャッターを切りました。

7月の猛暑日は17日 月の半分超える


 大分市では最高気温が35℃以上の「猛暑日」が続いています。

 左の表は気象庁のホームページにある「各種データ・資料」から拝借したものです。

 それによると、大分地方の最高気温は7月3日に35.8℃を記録して「猛暑日」となりました。

 それから一日あけて5日から9日まで5日間連続の「猛暑日」となりました。

 さらに実質的に「梅雨明け」したと思える17日以降では、18日から22日まで5日連続で「猛暑日」を記録するなど、31日までの15日間のうち11日で35℃以上の最高気温を記録しました。

 結局、7月の猛暑日は計17日に達しました。

最低気温 4日連続28℃超え 8月

 


 8月に入っても猛暑が続きます。最高気温が35℃を下回ったのは6日の34.5℃だけで、あとは35℃を超えています。

 暑さは夜になっても収まらず、最低気温が3日から6日まで4日連続で28℃超と寝苦しい夜が続いています。

 とはいっても最高気温が39℃や40℃になったというわけでもなく、せいぜい37℃台ですから全国的なニュースになるわけでもありません。このくらいの暑さはどこでもあることと一蹴されてしまいそうです。


 
ただ、大分市の今年の夏はいままでの夏と比べてどのくらい暑いか、大分市民の一人としては気になります。そこで、とりあえず最近10年ほどのデータを収集して比べてみることにしました。すると、今年は「酷暑の夏」として特筆するに値する年であることが分かりました。

※上の写真は7月16日撮影。この頃からセミの合唱が大きくなりました。

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7/31/2024

志手天神社夏祭り当日

 子ども神輿 まちを行く



 7月24日。夕暮れの町を子ども神輿がにぎやかに通り過ぎてゆきました。志手天神社夏祭りの子ども神輿です。

 新型コロナウイルスの大流行で中止となっていましたが、昨夏、4年ぶりに子ども神輿が復活しました。そして、今年も子ども神輿が志手町内を練り歩きました。

 4年ぶりに再開された昨夏は、それまでの神輿の巡行ルートの時間も距離も半分程度にした「短縮版」で試行的に実施されました。

 昨夏のルートはどうだったか。神輿の町内巡行を午後6時から8時までの2時間と見込んでいましたが、午後7時20分には神輿が町内を巡って志手天神社に戻ってきました。想定よりも早く終わって参加者にとっては少し物足りない結果だったといっていいでしょう。

 (注)昨夏の様子は、このブログ「大分『志手』散歩」の「4年ぶりのお神輿登場 志手天神社」(2023年7月28日公開)に書いています。


 そこで今年は巡行ルートが少し拡大されました。去年はルートになかった高台のマンションまで足を延ばすことになりました(上の写真)。

 ざっと見て前年比で3割ほど巡行ルートが延びた感じでしょうか。熱中症にならないように水分補給のための休憩時間も小まめに設けられました。神輿は昨年よりもゆっくりと町内を巡ったように思えました。

 巡行ルート延長の結果はどうだったでしょう。町内を一回りして志手天神社に神輿が戻ってきたのは午後7時40分過ぎでした。


 最後に天神社の境内で神輿を威勢よく回してフィナーレとなります。その後神輿に乗った神様をお宮に戻して町内巡行が無事に終わったのは午後8時ごろでした。

 昨年考えた午後6時から8時までの2時間のプランが今年は実現できたようです。短すぎず、長すぎずで、程よい感じの神輿の巡行ができたのではないでしょうか。

 

7/14/2024

志手天神社夏祭り2024

夏祭りの準備進む 志手天神社



 志手天神社の夏祭りは7月24日と決まっています。祭り当日に向けた準備作業が7月13日に行われました(上の写真)。


 新型コロナウイルスの大流行があり、2020(令和2)年、21(令和3)年、22(令和4)年と夏祭りは中止になっていましたが、昨年4年ぶりに夏祭りが再開されました。

 今年はここに来て新型コロナウイルスの感染者数が増えてきて注意が必要ですが、夏祭りは予定通りに実施されるということです。


 志手天神社の夏祭りのメーンイベントと言えば子ども神輿(みこし)です。そして、町内を練り歩く神輿行列に欠かせないものといえば、お囃子(はやし)の太鼓とチキリン(鉦)です。その練習が13日にありました。


 太鼓とチキリンの練習は13日が3回目です。6月29日に志手天神社の拝殿に太鼓とチキリンが並べられて1回目の練習が行われました。2回目の練習が7月6日にあり、13日が最後の練習になりました。

 3回の練習で流ちょうにリズムを刻むところまでになるのは難しいでしょうが、だいぶ慣れてきたのは間違いないでしょう。
 
 祭りの準備は着々と進んでいます。あとは当日の24日を待つばかりといったところです。


【チキリンについて】

 「大分『志手』散歩」の「4年ぶりの夏祭り 志手天神社」(2023年7月3日公開)で書いたものを再掲します。それが以下の内容です。関心のある方は下の「続きを読む」をクリックして下さい。

7/04/2024

メタセコイアとラクウショウ①駄原総合運動公園

空に真直ぐ伸びる木々 落羽松

誰が植えた?駄原総合運動公園



 空に真直ぐ伸びている木々があります。ちょっと高い所から志手周辺を眺めると、いつも目に入ります。上の写真では分かりにくいかもしれません。カメラを望遠にしてもう少し拡大してみましょう。

 

 背の高い木々があるのは駄原総合運動公園です。このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は最近まで「メタセコイア」だと思っていました。


 しかし、本当はどうなのだろう。ちょっと気になったので近くに行って見てみました。

 どうも葉っぱの形などが違う気がします。念のために運動公園を管理する大分市都市計画部公園緑地課に電話で聞いてみました。

 すると、メタセコイアではなく「ラクウショウ」(落羽松)との答えでした。「ラクウショウ?」。植物に疎いこのブログの筆者には予想もしない答えでした。


 こうした場合、手っ取り早く調べるにはインターネットです。「ラクウショウ」「九州」と入れて検索してみると、国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所九州支所のホームページがありました。

 それによると、ラクウショウはスギ科ヌマスギ属で、北アメリカ南部諸州からメキシコに天然分布し、世界各地で植栽されているそうです。

 ラクウショウは庭園や公園、川辺など湿気の多い所に植えられているのが多いようです。和名のラクウショウは「落羽松」の意味で、別名「ヌマスギ」とも言うとあります。

 ヌマスギは「沼杉」の意味で、この木が沼辺などに好んで生じ、スギに似ていることから名づけられたと書いてあります。

 ちなみにウィキペディアには、日本には明治初期に渡来し、関東南部以西に適し、湿気の多い公園、庭園、社寺境内などに植栽されている、とありました。

 それほど珍しい木というわけでもないようです。でも誰が、いつ、ここにラクウショウを植えたのでしょうか?それを知るために、駄原総合運動公園の成り立ちについて少し調べてみることにしました。

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6/09/2024

志手ぶらぶら路上観察記③天神社界隈

   桜ケ丘聖地 墓の隣りに高い壁 



 志手天神社の裏側で宅地造成が行われていることは、このブログ「大分『志手』散歩」の「志手ぶらぶら路上観察記➁志手天神社」(2023年10月14日公開)で一度紹介しました。



 去年の10月頃といえば造成が始まったばかりで、どんな風になるのやらと関心を持って見ていましたが、着工から8カ月ほど過ぎて、その形がだんだんと明らかになってきました。


 「志手ぶらぶら路上観察記➁志手天神社」でも紹介しましたが、志手天神社の裏側は、志手特産の「志手ポンカン」が植えられた畑でした。この畑だった場所の先に見える住宅地ももともと「ミカン畑」でした。

 志手はミカンの産地として名が知られていたのですが、大分市中心部に近いこともあり、「ミカン畑」は次第に「宅地」に姿を変えていきました。今もポツンポツンと残された畑地が少しずつ宅地に変わっています。

 ミカン作りの後継者がいないことも畑がなくなる一因です。


 ところで、桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の横に「壁」が造られ始めたのはいつだったか。気が付けば墓の横に大きな壁ができていました。
 
 冒頭の写真は5月26日に撮影しました。この日、志手の住民グループ「志豊会」による桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の草刈り作業が行われました。毎年この時期に実施されます。


 雑草が茂った墓地がきれいになるにつれて隣りにできた「壁」が際立ってきたようにも感じられました。

 以前にもこのブログで書きましたが、桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)とその周辺はここ数年で大きく変わりました。

 たまに定点観測のようにして写真を撮っていると、その変容がよく分かります。

 ただ、それにしてもな、と思うことがあります。人口が減る中で新築住宅が増えてもどうなのかなと素朴な疑問が湧いてきます。大分県内では一極集中を続けてきた大分市にも陰りが見えます。

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6/01/2024

毘沙門堂今昔 「室町」に始まる浄土真宗との縁その2

 毘沙門堂で教え説く2人の僧侶

「天然浄祐」と「円信」その2


 文明年間(1469~1487年)に毘沙門堂で説法をしたと伝えられる2人の僧侶「天然浄祐」「円信」をテーマにしたブログの2回目です。

 前回の「毘沙門堂今昔その3 『室町』に始まる浄土真宗との縁」(5月27日公開)は「天然浄祐」に焦点を当てました。天然浄祐について書いていくと話が長くなってしまったので、円信については別に書くことにしました。それが、この「『天然浄祐』と『円信』その2」です。


 上の2枚の写真はJR大分駅近くで建設中の高層マンションと光西寺を写したものです。大分駅周辺では区画整理や再開発が進み、街並みが随分と変わってきています。

 建設中の19階建てのマンションのところには大型家具店があったのではないかと記憶しています。

 「真宗大谷派 四極山光西寺」。円信が開いた寺と言われています。「雉城雑誌」によると、円信は光西寺ができる前は毘沙門堂に住んで、浄土真宗の教えを説き、「毘沙門堂円信」と称したそうです。

 ※雉城雑誌は、江戸末の天保年間に「豊府聞書」「豊府雑誌」「豊後国志」などの資料を引用する形で作られた「郷土誌」。「府内(大分)ガイドブック」のようなものです。

 雉城雑誌では、円信と光西寺、毘沙門堂について主に「豊府雑誌」を引用して「豊府聞書」「豊後国志」で補うような形で書いています。

円信は3人いる? 誰が本物⁉

 
 さて、話が少し複雑になってくるのはこれからです。円信についての資料は光西寺にもあります。光西寺に伝わる円信の出生と豊府雑誌、豊府聞書が伝える円信は微妙に違っています。

 「円信」と名乗る僧が複数いたのでしょうか。まずは、それぞれの資料が伝える円信の出生について見ていきたいと思います。

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5/27/2024

毘沙門堂今昔その3 「室町」に始まる浄土真宗との縁

毘沙門堂で教え説く2人の僧侶

親鸞没後200年 広がる浄土真宗


 志手の毘沙門堂に安置されている毘沙門天像はいつ頃つくられたものなのか。

 「志手歴史再発見クラブ橘会」(園田友三会長、略称「志手橘会」)が、大分市歴史資料館の植木和美館長の力を借りて、調べてみようとしたことは、このブログの「毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動」(2月22日公開)で紹介しました。

 毘沙門天像(左の写真)に残された制作年月日と見られる日付は「○○四年五月廿四日」。肝心の年号の部分が消えたようになっています。

 この薄くなった部分を読み取ってみようとしたのですが、結論をいえば判別できず、年号は分かりませんでした。

 毘沙門天像から毘沙門堂の始まりを探る試みはうまくいきませんでしたが、毘沙門堂の歴史をさかのぼるための手掛かりはまだあります。

文明年間の2人の僧 「天然」と「円信」

 
 それが文明年間(1469~1487年)の2人の僧侶です。「天然(浄祐)」と「円信」。この2人の僧が毘沙門堂で説法したとの言い伝えがあります。
 
 天然浄祐と円信は大分に浄土真宗をもたらし、広めた人物だそうです。

 「大分『志手』散歩」」の筆者にとって、これは予想外のことでした。

 浄土真宗の開祖といえば「親鸞」(1173年~1262年)であり、浄土真宗は、浄土宗や日蓮宗、時宗、臨済宗や曹洞宗とともに、鎌倉時代に生まれた宗派であることは知っています。

 だから、鎌倉時代のうちに大分にも浄土真宗が広まっていたのではないかと漠然と考えていました。実際は親鸞上人没後200年を経た室町時代後半に大分で浄土真宗が浸透していったということになります。

 このブログの筆者にとっては意外な事実の発見でした。

 志手の毘沙門堂を調べていてまた一つ勉強になりました。

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4/26/2024

「大分『志手』散歩」の手引き① 何が書いてある?

天神社、毘沙門堂、ミカン、それと

「大分『志手』散歩」の手引き①


 気がつけば「大分『志手』散歩」の投稿が60本近くになっていました。このブログには目次がないので、どんなことがどんな順序で書かれているのか、たまたま読んでみようと思われた方には分かりにくいと思います。

 そこで「大分『志手』散歩」の「手引き①」と題して、これまでブログの内容を1回整理してみようと考えました。

 

「大分『志手』散歩」の最初の記事は「志手はどこにある?」とのタイトルで2021(令和3)年7月17日に公開しています(写真上)。
 ※写真のQRコードでも記事をお読みいただけます。

 このブログは基本的に筆者が住んでいる大分市の「志手」について書いています。大分市志手といっても、そんなところは知らないという人が大多数でしょう。そこでブログの初回は「志手」という地域を簡単に説明することにしました。


 そして、2回目に書いたのが「志手界隈案内①志手の名所旧跡」(2021年7月21日公開)でした。
 ※写真に記事「志手の名所旧跡」のQRコードを付けました。


 左の地図は2回目の投稿に掲載した地図「志手の名所旧跡」に加筆したものです。

 「古宮古墳」や「亀甲山古墳」は厳密に言えば志手の隣りの「季の坂」になりますが、地図には「志手界隈」ということで加えてあります。

 2回目の「志手界隈案内①志手の名所旧跡」では主に古宮と亀甲山の二つの古墳について書きました。

 上の地図にある「志手天神社」「桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)」「毘沙門堂」「毘沙門川」についても順次、このブログで取り上げています。

 何をいつ書いたのか。主な記事を一覧にしてみます。

 【2021(令和3)年】
志手はどこにある        公開日2021年7月17日
志手界隈案内①志手の名所旧跡     2021年7月21日
志手界隈案内➁志手天神社       2021年7月31日
志手界隈案内③桜ケ丘聖地1      2021年9月16日
志手界隈案内➃桜ケ丘聖地その2    2021年10月5日

 ここまで頑張って書いてきたためか、突然にエネルギー切れを起こしてしまいました。「桜ケ丘聖地その5」を書きかけのまま1年以上休載することになりました。

 そして再開したのが2022(令和4)年9月でした。


 【2022(令和4】年】
★志手に残る農村風景 ミカン盛衰記
①ミカンの銘産地・志手         22年9月29日
②栽植記念の石碑残る          22年9月30日
③大分連隊がきっかけに         22年10月2日
④先駆者・岩田丑太郎の碑        22年10月6日
⑤ハイキングコースで売り出す      22年10月15日
⑥ミカンは神代の昔から?        22年10月20日

★志手ポンカン
①志手ポンカンは日本一         22年10月28日
➁いけるぞ!志手ポンカン        22年11月3日
③ポンカンの効用は           22年11月8日
④幻になる日も近い?          22年11月18日


★ふるさとだよりで知る志手のトリビア
           2023年1月3日
③柞原八幡宮との縁   23年1月13日
④昔ながらの狭い道   23年1月25日
            23年2月13日

 「ふるさとだより」は「志手老人クラブ共和会」が発行していたもので、このブログの筆者の手元には1995(平成10)年4月発行の第1号から2005(平成17)年5月発行の17号までのコピーがあります。
 
 「ふるさとだより」には志手の歴史や昔の志手の思い出などが掲載されています。その中で、このブログの筆者が興味を持ったものを「ふるさとだよりで知る志手のトリビア」と題して連載しました。

 「ふるさとだよりで知る志手のトリビア」の第2回から2023(令和5)年になります。
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4/04/2024

毘沙門堂今昔 番外編その2 図書館で読める市場直次郎の著作

 市場氏の著作は何冊あるか?

図書館の蔵書を検索すると


 明治・大正・昭和・平成を生きた郷土史家の市場直次郎についてちょっと調べたことを、このブログ「大分『志手』散歩」の前回(「毘沙門堂今昔 番外編 郷土史家・市場直次郎」)で報告しました。

 前回の最後に「市場直次郎の名前とその功績がもう少し大分でも知られていてもいいのではと思います」と書きました。ただ、そういうだけでは仕方ないので、市場直次郎の足跡、業績を知るための手掛かりを提供しようと思いました。

 それが図書館が所蔵する市場直次郎の著作リストです。大分県立図書館と大分市民図書館のそれぞれのウェブサイトで「市場直次郎」と入れて検索してみました
 
 大分市民図書館には1冊ありました。

 市民図書館にあったのは市場直次郎著「郷土趣味雑話」。1932(昭和7)年に「大分あづさ会」から出版されました。

 ラジオ放送で市場氏が語ったものを本にまとめたようです。誰かが市民図書館に寄贈したのでしょうか。「豊後伝説集」や「豊後方言集」ではなく、「郷土趣味雑話」の1冊だったことが、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者には予想外のことでした。

 大分県立図書館はどうでしょう。こちらは結構ありました。

 大分県立第一高等女学校(現大分上野丘高校)時代の豊後伝説集、豊後方言集、豊府紀聞のほか、大分から離れた後の著作もあります。

 「豊国筑紫路の伝説」(1973年)「筑紫路の絵馬」(1974年)「九州・沖縄地方の民具」(1983年)「ふるさと扇面譜」(1987年、冒頭の写真)「西日本民俗文化考説」(1988年)などです。


 県立図書館(写真上)の蔵書リストには佐賀県文化財調査報告書の第9集(1960年)、第12集(1963年)もありました。

 それぞれ市場直次郎の調査報告があります。第9集には「肥前における田楽の伝承-川久保田楽を中心として」、第12集には「竹崎の鬼祭」について書いています。

 大分県立図書館には市場直次郎関連の資料は20冊ほどあるようです。県立図書館には市場直次郎の著作が思ったより多い。これがこのブログの筆者の素直な感想でした。

 市場直次郎の著作と足跡について、もう少し詳しく見てみようと思います。この先は「続きを読む」をクリックして下さい。

3/26/2024

毘沙門堂今昔 番外編 郷土史家・市場直次郎

 昭和を生き抜いた男 市場直次郎

 
 このブログのタイトルは筆者の勘違い、思い込みに由来しています。と言っても、何のことか分からないと思いますので、順を追って説明していきたいと思います。

 前回のブログ「毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績」の冒頭で、「豊後伝説集全」に収められた「志手の毘沙門天像」にまつわる言い伝えを紹介しました。

 薩摩の島津氏が大友氏の豊後国に攻め入り、大友氏の本拠地である府内は戦火に見舞われた。志手の毘沙門堂も焼かれ、安置されていた毘沙門天像は野に打ち捨てられた。後にそれを見つけて志手の村人が新たに御堂を建ててまつった。それが今の志手の毘沙門堂の始まりという話でした。


 この言い伝えが載っている「豊後伝説集全」。1932(昭和7)年6月に発行されたこの本の編者が「市場直次郎」となっています。

 「豊後伝説集全」は、市場直次郎が勤めていた大分県立第一高等女学校(現大分上野丘高校)の生徒たちに材料を求めて、大分県内に残るさまざまな言い伝え、伝説をまとめたものです。

 大分県立図書館の蔵書リストを見ると、市場直次郎は1933(昭和8)年、1936(昭和11)年に「豊後方言集」を発表するなど、この時期、民間伝承の調査研究に精力的に取り組んでいたことがうかがえます。

 前回の「毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績」にも書いた通り、このブログの筆者は、伝説集や方言集などを作った市場直次郎、十時英司、波多野宗喜とはどういう人たちだったのか、そこに興味を持ち、もう少し詳しく調べようとしてみました。

 ところが、このあとは「大分」「豊後」などをタイトルにした市場直次郎の著作が見当たりません。それで筆者は勘違いしてしまいました。市場直次郎が郷土史家として活躍したのは昭和初期から10年代までぐらい、いわゆる「戦前」の人だろうと思ってしまったわけです。

 もちろんこれは勝手な思い込み。明らかな間違いでした。

 市場直次郎は研究者として「昭和」を生き抜き、さまざまな成果と資料を残していました。

 「市場直次郎」とネットで検索すると、佐賀大学附属図書館貴重書アーカイブの「市場直次郎コレクション」が出てきます。

 市場直次郎は戦前は佐賀師範教授、戦後は佐賀県内の高校長や福岡の大学教授を務めながら、数多くの小説類など和書と文人の書画を集めたのだそうです。

 佐賀大学では市場直次郎のコレクションを購入し、それを整理して、ネットで閲覧できるようにしてあります。

 ところで「佐賀」の市場直次郎は「大分」の市場直次郎と同一人物なのだろうか。誰もが抱く当然の疑問です。

 「市場直次郎コレクション目録」という本が出版されていました。この中には市場直次郎の略歴もあるはずです。調べてみると、佐賀県立図書館、福岡県立図書館、福岡市総合図書館にこの本があるようです。

 大分県立図書館を通じて貸し出しを受けようと、県立図書館に行くと、大分大学付属図書館にもあるとのこと。早速大分大の図書館から借りるための手続きをしました。

 そして、佐賀と大分の市場直次郎は同一人物と確認できました

 上が目録にあった市場直次郎の経歴です。

 大分県立図書館の所蔵リストを見ると、市場直次郎の最後の著作は「西日本民俗文化考説」(九州大学出版会)で、出版年は1988(昭和63)年12月となっています。昭和天皇の崩御とともに翌1989年1月に元号は「昭和」から「平成」に改められました。

 市場直次郎はまさに民俗学者として昭和を生き抜いたといえます。

 雑誌「まつり」の1998(平成10)年7月号に「市場直次郎先生追悼」の記事があり、それによると、市場直次郎氏は1996(平成8)年7月18日に92歳で亡くなったそうです。

 記事によると、氏が大分から佐賀に移ったのは1936(昭和11)年ということでした。大分には90年も100年近くも前にいた人物ということで、忘れ去られるのも自然かもしれません。しかし、市場直次郎の名前とその功績がもう少し大分でも知られていてもいいのではと思います。

 

3/01/2024

毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績

橋の下の毘沙門天 すくってお堂に 




 志手の毘沙門堂については上のような言い伝えがあります。


 ウィキペディアを見ると、上の言い伝えにある島津氏と大友氏の戦いは「豊薩合戦」と呼ばれ、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行われたとあります。

 ちなみに大友氏は豊薩合戦以前にも島津氏と戦って大敗(耳川の戦い)しており、その力は急速に衰えていったようです。そのため、島津氏の豊後国侵入を許し、本拠地の府内も戦火に見舞われることになりました。

 その様子が江戸時代に書かれた「豊府紀聞」にあります。
 

 漢字だけの文章は難解ですが、「府内に島津家久が入って」などと書かれていることは読み取れます。

 「豊府紀聞」には志手の毘沙門さまと毘沙門堂の由来についても記述があります。これは後ほど紹介するとして、ここで注目していただきたいのは、上の二つの「豊後伝説集全」「豊府紀聞」に共通するものです。

 上の写真の豊府紀聞の復刻版が出版されたのは1930(昭和5)年9月です。復刻版は限定55部の非売品で、発行所は「郷土史蹟伝説研究会」。そうです。「豊後伝説集全」を出したのも郷土史蹟伝説研究会でした。

 1932(昭和7)年6月に出版された豊後伝説集全には市場直次郎、波多野宗喜、十時英司の3人の名前があります。豊府紀聞(復刻版)には市場、十時両氏の名前がありました。

 郷土史蹟伝説研究会は十時氏や市場氏が中心になって作ったのでしょう。さまざまな形で大分の歴史を記録しておこうという十時氏らの強い意欲が感じられます。

 十時氏については、このブログ「大分『志手』散歩」の「毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動」で、少し紹介しました。

 十時氏は1940(昭和15)年6月の豊州新報に「大分市郊外 志手の毘沙門堂物語」を連載しています。

 その中でお堂の毘沙門天像を調査し、造られたのが南北朝時代の「正平」年間(1346~1370年)ではないか、との推理しています。
 
 十時氏らが残した資料はこのブログの筆者にはとても貴重なものです。志手の歴史の一端を知る手掛かりになっています。

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