8/12/2025

「長水」余話 現在の「町名」は?

 「長水」から「王子山の手」に

オシャレな名前はいつから?



 志手天神社は昔の志手村内ではなく、隣りの旧長水村の中にある。

 そんな話を、このブログ「大分『志手』散歩」の「天神社 志手村と長水村の関係は?」(2025年7月11日公開)で書いています。

 志手天神社の境内に石灯籠があり、その寄進者が隣村の長水村の人間だった。江戸時代のことです。それを不思議に思ったこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者が、志手村と長水村のことをちょっと調べてみました。

 筆者は、志手天神社の所在地が旧長水村内であることに気が付き、そこからああだ、こうだと考えてみました。でも昔のことで史料も見つからず、筆者は袋小路に突き当たってばかりでした。

 いまは「長水」の呼び名もバス停の「長水入口」に残っているぐらいで、現在の町名は「長水」ではありません。今の町名は何でしょう。


 答えは街の中にあります。例えば防災マップに町名が書いてあります。

 「王子山の手町」。それが昔の「長水」とその周辺の今の名前です。「山の手」と聞くと何となくおしゃれな感じがします。

 東京の「山の手」を連想するからでしょうか。「下町」に対して「山の手」。庶民の街よりちょっと高級な感じがします。

 実際は背後の丘陵につながる傾斜地だから「山の手」という意味だと思います。「王子山の手」。誰がいつ頃付けたのでしょう。折角ですからそんなことも少し調べてみたいと思います。

 このあとは下の「続きを読む」をクリックして下さい

7/31/2025

子ども神輿 志手天神社夏祭り

夏の風物詩 子ども神輿 

志手天神社で元気に舞う



 子ども神輿が志手天神社を出たのは午後6時前でした。そして、志手町内を巡ったお神輿が志手天神社に戻ってきたのは7時40分頃でした。


 神社を出発する頃はまだ残っていた夏の太陽の輝きは消え去り、神社に戻るお神輿は薄暮に包まれていました。

 日が落ちると暑さが一服したようにも感じます。

 そのせいでしょうか、子ども神輿は志手天神社に近づくにつれて元気が出てきたようにも見えました。

 ちなみに志手天神社の夏祭り当日(7月24日)の気温はどれくらいだったのでしょう。気象庁のデータを見ると、大分市では35.0℃を記録し、7月9日(最高気温35.3℃)に続く「猛暑日」となっていました。



 関係者が熱中症対策でこまめな休憩と水分補給を心掛けたこともあり、お神輿は順調に天神社に戻り、境内で何回も力強く舞いました。

 来年も多くの子どもたちが参加して元気に地域を練り歩いてくれればいいなと思います。


 子どもたちの神輿は来年7月24日までお宮で時を待つことになります。

 このブログ「大分『志手』散歩」では、これまでも志手天神社の夏祭りについて書いています。

 「志手天神社夏祭り当日」(2024年7月31日公開)
 「4年ぶりのお神輿登場 志手天神社」(2023年7月28日公開)

 

7/19/2025

もうすぐ夏祭り 志手天神社

    もうすぐ夏祭り 志手天神社


 志手天神社の夏季大祭は毎年7月24日に行われます。その準備作業が7月12日にありました。

 普段は仕舞われている祭り関連グッズがいろいろあります。のぼり(上の写真)もその一つ。境内で組み立てられて町内 各所に立てられました



 のぼり(幟)がはためているを見ると、祭りが近いことを実感します。


 7月12日はお囃子のチキリンの練習が行われる日でした。

 志手天神社の夏祭りのメイン行事といえば子ども神輿です。そして、このお神輿に欠かせないのが子どもたちによるお囃子です。

 今年も6月28日、7月5日、7月12日と3回練習が行われたようです。


 チキリンについては、このブログ「大分『志手』散歩」の「志手天神社夏祭り2024」(2024年7月14日公開)で説明しています。

 去年のブログのチキリンの説明は、一昨年の説明4年ぶりの夏祭り 志手天神社」(2023年7月3日公開)を引用したものです。今回も借用します。コピー&ペーストは簡単なのでついやってしまいます。


【チキリンについて】


 大分市役所のホームページに「『チキリンばやし』の紹介」があります。そこから、チキリンについての解説を引用します。

 チキリンとは、大分市内のお祭りに伝わる「鉦」(かね)を中心としたお囃子のことです。「鉦」(かね)は、真鍮製で丸くて平たい底がある形をしています。お祭りには太鼓と鉦が古くからよく使われていますが、大分の祭りには特に「鉦」が中心になり、太鼓がこれにそって響きます。
 

 チキリンの音を出すのには、竹を削った柄に3~4センチ位の長さに切った鹿の角を直角に取り付けた、叩く道具「撞木」を使います。

  撞木を縦にもち、立てて「コンコン」と鉦の底を叩き、次に寝かせて輪の内側を「チキリン、チキリン」と三回叩きます。早いリズムを体で調子を取って叩く「コンコン、チキリン、チキリン、チキリン」の鉦の音は、ずいぶん昔から大分の祭りばやしに伝わっているもので、全国的にも珍しいお囃子になります。

 ※正確に言えば、「コンコン」「チキリン」という鉦の音を中心としたお囃子を「チキリン」というのですが、志手ではこの鉦を「チキリン」と通称しています。


7/11/2025

天神社 志手村と長水村の関係は?

 志手村と長水村の関係は?

志手天神社 灯籠の不思議



 このブログで2025(令和7)年4月24日に公開した「
お大師様とお接待 志手天神社」の最後に予告めいたことを書きました。

 その時の予告めいた文章を以下に引用します。

「(五つの石造物のうち)左端の石造物については紹介しましたが、右端のものには触れていません。説明し始めると少し長くなりそうな事情がありますので、ここでは取り上げず次の機会に紹介しようと考えています」

 上の写真は志手天神社の境内にある石造物です。

 五つの石造物のうち、そこに刻まれた文字が読み取れるのは2基です。

 一つは写真左端のもの。4月24日公開の「お大師さまとお接待 志手天神社」では、写真左端の石造物について少し紹介しました。

 もう一つが右端の石造物です(右の写真)。表面に彫られた文字は読めるのですが、どう解釈すればいいのかちょっと分からないところがあります。

 それで「説明すると少し長くなりそうな事情がありますので」と「お大師さまとお接待 志手天神社」では言葉を濁して先送りにしました。

 よく分からないことの一つが右の写真にあります。

 正面には「奉寄進石燈籠」と彫られています。これは文字通り、石灯籠を寄進するということで、このブログの筆者にも分かります。

 その左側には「六月吉日」「大城吉右衛門」「藤原清房」と彫られています。日付は灯籠を寄進日でしょうか。吉右衛門さんは寄進者でしょう。

 よく分からないのは、そのあとの「藤原清房」です。

 ウィキペディアなどを見ると、平安時代に栄華を極めた藤原一族の一人に「藤原清房」という人物がいました。

 その人のことでしょうか。しかし、それがなぜ、この石灯籠に刻まれているのでしょう。謎です。
 
 さて、「奉寄進石燈籠」の右側にも何か文字が見えます。

 「正徳三年 癸巳 天 長水村施主」。正徳3年は西暦1713年。癸巳は干支で読みは「みずのとみ」。

 そのあとにある「天」がよく分かりません。「天長水村」でしょうか。しかし、志手村の隣り村で、昔このあたりにあったのは「長水村」です。

 この石灯籠は長水村の大城吉右衛門さんが寄進したと解釈できそうです。でも、なぜ長水村の住民が志手の天神社に寄進したのでしょうか。

 このあとは下の「続きを読む」をクリックして下さい

6/14/2025

ミカンとりんご➁ 志手ミカンの始まりは

官造さんと重平さん 

志手みかんの先駆者



 上の写真は志手のミカン畑※です。4年前に撮影した
この畑は今もありますが、周辺では宅地になったミカン畑もあります。

 ※正確に言えば温州ミカンではなく、志手ポンカンのようですが、ここでは「ミカン」と総称します。

 さて、前回のこのブログ「大分『志手』散歩」では、余話 ミカンとりんご 日本農業新聞より」(2025年6月9日公開)と題して同紙に掲載された2本の記事を紹介しました

 1本はミカン、もう1本はリンゴの記事です。いずれも2024(令和6)年の生産量について報じた記事です。

 農水省の統計を基にした記事で、データがある1973(昭和48)年以降でミカンは過去最低、リンゴは過去2番目の低水準だったとありました。

 そのデータを紹介するとともに、「志手とミカン」についてあらためて次回書いてみたいと前回予告しました。

 その予告に沿って志手のミカンの歴史について少し書こうと思います。

 「余話 ミカンとりんご 日本農業新聞より」でも触れましたが、このブログ「大分『志手』散歩」では以前に志手でのミカン栽培の始まりなどについて少し紹介しています。

 例えば志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➁栽植記念の石碑残る」(2022年9月30日公開)などです。

 その時に紹介した園田官造さんは志手でミカン栽培を始めた先駆者といっていいでしょう。

 明治44(1911)年の栽植記念碑を官造さんの子孫の方が持っていることを「志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➁栽植記念の石碑残る」(2022年9月30日公開)で紹介しました。

 志手でミカン栽培が始まるにあたって官造さんが大きな役割を果たしただろうことは想像ができます。

 ただ、官造さんがどこからどのようなミカンを入れて、どのくらい作っていたかなど、具体的なことになるとよく分かりません。

 一方、ミカン栽培に関してその功績がある程度分かる人物がいます。


 園田重平さんです。重平さんは1924(大正13)年に「篤農家精農家」の1人として大分県農会から表彰されています(上の資料)。

 表彰理由の一つがミカン栽培の普及に尽力したことです。

 官造さん、重平さんのほかにも志手のミカン栽培の先駆者といえる人がいたかもしれません。ただ、資料なども残っていないようです。

 ここではいまも残る資料を基に明治、大正、昭和初期の「志手みかん」について少し紹介しようと思います。

 ミカン栽培を思い立った官造さんは予想もしない大発見をすることになるのですが、これも最後の方で紹介しようと思います。 

この続きは下の「続きを読む」をクリックして下さい

6/09/2025

余話 ミカンとりんご 日本農業新聞より

ミカンとリンゴはどうなる?

記事と統計が示す危機的状況


 上の見出しは少し大げさかもしれません。日本農業新聞で気になる記事を2本見つけました。いずれも2025(令和7)年6月3日付です。

 一つはミカンの話。左の記事です。

 「ミカン初の60万トン割れ」という大きな見出しが出ています。

 記事は次のような書き出しで始まります。

 「2024年産のミカン生産量は前年比18%減の55万9600トンで、初めて60万トンを割ったことが農水省の作物統計で分かった」

 記事を読み進めるとまた数字があります。

 結果樹面積は前年比3%減の3万4500ヘクタール、出荷量は前年比17%減の51万900トンだった。

 結果樹面積、生産量、出荷量はいずれも、データのある1973(昭和48)年以降で過去最低となった。

 
 一方、リンゴの記事は右にあります。見出しは「リンゴ生産回復わずか」「過去最低前年並み」です。

 こちらも農水省の作物統計を基に書かれた記事です。

 記事の最初に、2024年産リンゴの生産量、出荷量はともに過去最低だった前年からの回復がわずかだったことが農水省の作物統計で分かった、と書いてあります。

 もう少し具体的に言うと、24年産リンゴの生産量は60万9200トン、出荷量は55万4900トンでいずれも前年比1%増だったそうです。

 前年の23年産はデータがある1973(昭和48)年以降では過去最低で、24年産は23年産に次ぐ過去2番目の低水準だった、と記事は書いています。

 「志手とミカン」については、このブログ「大分『志手』散歩」で何回か取り上げています。

 志手はかつては「ミカンの銘産地」として知られていました。そうしたことを2022(令和4)年9月から10月に「志手に残る農村風景 ミカン盛衰記」とのタイトルで6回に分けて書きました。

 例えば次のようなものです。「志手の残る農村風景 ミカン盛衰記①ミカンの銘産地・志手」(2022年9月29日公開)、「志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➁栽植記念の石碑残る」(2022年9月30日公開)。

 そんなわけでミカンと聞くと他人事とは思えません。

 リンゴもこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者にとってはなじみ深いものです。リンゴもミカンも昔は今のようには美味しくありませんでしたが、そんなリンゴやミカンを子どもの頃から食べてきました。

 馴染みのミカンやリンゴの生産が先細りになっていると聞くと心配になります。ミカンとリンゴの先行きは大丈夫でしょうか?

 ミカンの未来を案じつつ、次回のブログであらためて「志手とミカン」について少し書いてみたいと思います。

 その前に日本農業新聞の記事の基になった統計も紹介して、とりあえずこの回を終えようと思います。

 この続きは下の「続きを読む」をクリックして下さい

5/30/2025

志手天神社の御神木

御神木の伐採 志手天神社



 上の写真は5月3日と5月
 25日の志手天神社です。

 3日の写真にはあったものが、25日の写真ではなくなっています。

 それは鳥居の上に見える樹です。この樹は5月10日に地元の住民グループ「志豊会」によって伐採されました。



 伐採された樹は地元では「御神木」とされていました。モチノキで樹齢は300年と聞きました。ただ、随分と弱ってきていたようです。

 上の写真のように根元のところは空洞になっています。このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が初めてこの「御神木」を見た頃も既にこうした空洞ができていました。


 枯れかけている樹をこのまましておいては危なかろうとのことで伐採することになったようです。

 しかし、神社の境内にある「御神木」を伐ると言ってもすぐにというわけにはいきません。

 大きな木ですからのこぎりで伐っていくのは無理です。チェーンソーは必須です。安全のために少しずつ伐っていきますので高所作業車が要ります。伐った部分を持ち上げて運ぶためのクレーンも必要でしょう。作業前にいろんな準備があります。

 さらに肝心なことは「御神木」の伐採にあたっては神社本庁の許可を得ないといけないようです。


 このブログの筆者はどのように準備が進められたか詳しくは知りませんが、実際の作業よりも準備の方が大変だったかもしれません。

 5月10日はつつがなく作業が進み、志手天神社の「御神木」は3時間ほどで伐採されてしまいました。

 ところで、モチノキをインターネットで検索すると、ウィキペディアに御神木として熊野系の神社の中にはナギの代用木として植えている場合がある」と書いてありました。

 誰がいつ、どんな目的でここにモチノキを植えたのか。資料は何も残っていないようです。

 伐採の記録はこのブログの筆者が残すことになったのですが、このデータも散逸してしまえばどうなるのでしょう。モチノキの「御神木」があったことも何もかも全てなかったことになるのでしょうか。

 世の中の多くのことは、こうして時の流れの中に埋もれていくことになるのでしょう。そんなことをあらためて思いました。

5/22/2025

余話 戦後80年 占領軍と野球

 建設特需に沸いた別府

ブルドーザーとモッコ


 随分昔にいただいた本を久しぶりに本棚から取り出してみました。それが左の写真の本です。

 題名は「球は転々宇宙間」。著者は赤瀬川隼氏。文藝春秋社から1982(昭和57)年7月25日に発行されています。

 43年前にもらった本でした。パラパラとページをめくっていると「火の玉投手荒巻」の話が出てきました

 大分県別府市に「星野組」という土木建設会社があって、荒巻はその野球チームの主力投手でした。

 荒巻について紹介した「球は転々宇宙間」の記述を以下に引用します。

 荒巻淳、快速球を武器にしたサウスポー、大分商業から大分経済専門学校を経てノンプロの別府星野組に入り、1949(昭和24)年に都市対抗野球で優勝。翌年、プロ野球の2リーグ分裂とともに新生球団毎日オリオンズ入り、26勝8敗で新人王。その年のリーグ優勝、日本シリーズ優勝に貢献。その後も長く活躍を続けた。

 この本を読んだ時、すごいピッチャーがいたもんだと思いながら、なぜ地方の小さな都市にある会社が全国制覇するような強豪チームを持てたのだろう、と疑問が頭を浮かんだことを覚えています。

 ただ、この本は「プロ野球の近未来小説」であり、過去の荒巻と星野組の話は物語を彩るエピソードの一つにすぎません。浮かんだ疑問はそのままにして本を読み進め、そのうち忘れてしまいました。


 当時は分からなかったことが、このブログ「大分『志手』散歩」を書き始めて少し分かってきました。

 敗戦直後のモノもカネもない時代に別府は建設特需に沸くことになります。

 戦勝国として大分に乗り込んできた米軍(占領軍)が別府に大規模なキャンプ(宿営地)を設けることになったのです。

 司令部や兵舎、宿舎などが突貫工事でつくられることになり、別府の街にヒト、モノ、カネが集まってきます。

 この特需によってキャンプ建設にかかわった建設業者は大いに潤います。

 右の写真の本「ドキュメント戦後史 別府と占領軍」(佐賀忠男著)にその辺のことが書いてあります。

 例えば「兵舎工事費5億円、宿舎建設費1億5,000万円という大工事だけに、土建業者はまさに『己が春』を謳歌し、『土建貴族』の名さえ起った」といいます。

 ちなみにこの本は大分県立図書館で借りました。編集・発行は「『別府と占領軍』編集委員会」とあり、1981(昭和56)年8月に出版されています。

 さて、ここで43年前に抱いた疑問に戻ります。なぜ、終戦直後の別府で野球の強豪チームが誕生したのか。

 いろいろな要素が考えられる中で、その一つがこの建設特需によるカネだったのだろう、とこのブログ「大分『志手』散歩」の筆者は考えます。

 特需の恩恵を受けた業者の懐にはカネがたんまりあり、野球チームにも気前よくカネを出したのではないか。そんなことを想像しました。

 さて、進駐軍のキャンプ(宿営地)建設は1946(昭和21)年の7月に始まり、夜も昼もない工事によって同じ年の12月に終了します。

 米軍は1956(昭和31)年中に別府からの撤収を進め、翌57(昭和32)年にはキャンプも閉じられたようです。別府と米軍との付き合いは10年以上に及びました。


 この間の別府について「ドキュメント戦後史 別府と占領軍」に序文を寄せた当時別府市在住の作家小郷穆子(おごう・しずこ 故人)さんは次のように書いています。

 「別府にキャンプが設営され、3千の米兵が常駐するようになると、基地化した別府の町は、異様な熱気の中に包まれた」

「キャンプ設営にからむ土建ブーム。闊歩する米兵にすがって生きる女と、米兵慰安作戦に狂奔する人々が作り上げた桃色特需ブーム」

 「その中で犯罪は多発し、庶民の飢餓は戦争中と少しも変わらなかったのだ」

この先は下の「続きを読む」をクリックして下さい

4/24/2025

お大師さまとお接待 志手天神社

「安永4年」の石造物が

志手天神社と毘沙門堂に



 タイトルの「お大師さまとお接待」にあるお接待は、「平成」の半ば頃までは志手で行われていた行事のことです。

 左の資料は志手老人クラブ共和会が1999(平成11)年4月に発行した「ふるさとだより5号」に掲載されたものです。

 このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その1」(2025年1月27日公開)でも、この資料を紹介しています。

 お大師さまとは弘法大師のことです。上の資料によると、志手では「お大師様保存会」があり、弘法大師の命日にちなんで毎年4月21日と9月21日に子どもたちに菓子を配る「おせったい」をしてきたそうです。

 「お大師さまとお接待 その1」では、いまはない志手のお接待について書いています。

 志手でお接待が始まったのはいつの頃なのか。このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その2」(2025年3月11日公開)で、それを突き止めようとしました。

 しかし、確かな材料に乏しく話は迷走気味になりました。毘沙門堂の境内に江戸時代につくられた石造物がありましたが、それは弘法大師とは関係がなさそうなものでした。

 弘法大師ゆかりの石造物は別の場所にありました。「お大師さまとお接待 その3」(2025年3月25日公開)で紹介したのが右の写真の石塔です。こちらも江戸時代につくられたようです。

 江戸時代の仏教事情はどうなっていたのか。毘沙門堂などにあった石造物に刺激されて少し調べてみようと思いました。

 そして、にわか知識で書いたのが「お大師さまとお接待 その4」(2025年4月2日公開)でした。

 それを書きながら思い出したことがありました。このブログを始めた頃に書いた「志手界隈案内➁志手天神社」(2021年7月21日公開)のことです。その中で確か天神社にあった石造物について触れています。

 
 「志手界隈案内➁志手天神社」を読み返してみると、写真とともに天神社にある石造物を紹介していました。

 そして、その石造物の建立年として刻まれていたのが「安永四年」でした。安永四年の石造物は毘沙門堂にもありました。

 「安永四年」(西暦1775年)に何か意味があるのか。それとも偶々同じ年に二つの石造物がつくられただけなのか。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者の乏しい知識では答えは出そうにもありません。

 と、結論めいたことだけ書いただけでは何となく芸がない気がします。

 そこで「志手界隈案内➁志手天神社」の文章を引用しつながら、天神社にある石造物についてもう少し見ていきたいと思います。

 この先は下の「続きを読む」をクリックして下さい

4/06/2025

「大分『志手』散歩」の手引き➁ 「過去」を学ぶ

 消えゆくものを記録に留めて

「大分『志手』散歩」手引き➁



 「
このブログには目次がないので、どんなことがどんな順序で書かれているのか、たまたま読んでみようと思われた方には分かりにくいと思います。そこで「大分『志手』散歩」の「手引き①」と題して、これまでブログの内容を1回整理してみようと考えました」

 以上のような書き出しで「大分『志手』散歩の手引き① 何が書いてある?」を公開したのが2024(令和6)年4月26日でした。

 手引き①を公開して1年がたちました。あらためてこのブログ「大分『志手』散歩」について簡単な説明をしておきたいと思います。

 最初の投稿「志手はどこにある」が2021(令和3)年7月17日公開でしたから、このブログ「大分『志手』散歩」もまもなく4年になります。

 途中ほぼ1年間の中断をはさみましたが、何とかここまで続けて来られて投稿数は80本を超えました。

 題材は基本的に「志手」にあるもの、関連するものですが、例外的に「志手」以外を取り上げたものもあります。

 昨年4月26日に公開した「大分『志手』散歩の手引き①」では「志手」を題材にした投稿リストをまとめて紹介しています。

 今回は志手以外を題材にした投稿を簡単に紹介しようと思います。

 2023(令和5)年3月から6月にかけて「大分まち歩き」シリーズとして書いたものがあります。

 一つは「住居表示番外編」で、もう一つは「アイデア市長の遺産」です。

 住居表示番外編では「中央町」「府内町」「都町」を取り上げています。

 この三つの町名は、1962(昭和37)年にできた「住居表示に関する法律」によって新たにできた町名でした。中央町などが誕生したのは翌63(昭和38)年6月1日。「中央町」「都町」「府内町」は昨年60年の還暦を迎えました。

 では、中央町や都町、府内町はその前は何と呼ばれていたのか。60年の節目に各町の昔を少し調べてみようと思って書いています。

 もう一つの「アイデア市長の遺産」のアイデア市長とは上田保氏(故人)です。

 上田さんの功績として知られる一つは高崎山の野生ザルの餌付けでしょう。

 サルを観光資源にしようと上田さんは苦心して「猿寄せ」に成功。高崎山のサルは大分市を代表する観光地になりました。

 上田さんは1947(昭和22)年4月から1963(昭和38)年3月まで4期16年間にわたり大分市長を務め、「アイデア市長」「公園市長」などと呼ばれました。1980(昭和55)年に86歳で亡くなっています。

 【住居表示番外編】 
 中央町「中央町に残る竹町」(2023年3月14日公開)
 都町Ⅰ「都町、栄町、そして」(2023年3月16日公開)
 都町Ⅱ「鉄と石油と夜の街」(2023年3月23日公開)
 都町Ⅲ「アイデア市長とジャングル公園」(2023年4月3日公開)
 府内町「目立つ空き店舗の貼り紙」(2023年4月12日公開)

 【アイデア市長の遺産】
 高崎山①「細る客足」(2023年4月24日公開)
 高崎山➁「猿口抑制」(2023年5月5日公開)
 高崎山③「存廃論議」(2023年5月14日公開)
 高崎山番外編「田ノ浦ビーチ」(2023年5月21日)
 遊歩公園Ⅰ「『大分の歴史』語る彫刻」(2023年6月9日公開)
 遊歩公園Ⅱ「公園改造構想」(2023年6月17日公開)

 このブログ「大分『志手』散歩」は、ちょっと格好をつけて言えば「消えてゆく記憶や記録を一時的にせよ留めておく作業」の積み重ねといっていいのかもしれません。

 このほかの「志手」関連の投稿は「大分『志手』散歩の手引き①」を見ていただいてもいいのですが、以下にこれまでの投稿リストを記しておこうと思います。よろしければご参照ください。

 この後は下の「続きを読む」をクリックしてください。

4/02/2025

お大師さまとお接待 その4

寺社巡りを楽しんだ庶民

江戸時代の仏教と旅事情





西國三拾三所當来救世観世音菩薩」(寛保三年・西暦1743年
➁「光明真言塔」(宝暦九年・西暦1759年)
③「奉順禮西國三十三所供養塔」(安永四年・西暦1775年)

 右の写真は志手の毘沙門堂です。左の写真の石造物は志手に昔から住む「園田」※さんたちの墓地にあります。

  ※志手の園田さんについてはこのブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん―そのルーツは?」(2023年1月3日公開)で紹介しています。

 ①から③の番号は年代の古い順です。偶然でしょうか、三つの石造物は16年間隔でつくられています。

 毘沙門堂の①と③は、このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その2」(2025年3月11日公開)で紹介しました。

 左の写真の「光明真言塔」については「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その3」(2025年3月25日公開)で紹介しています。

 この3基の石造物に関連はあるのか。「点」と「点」を結ぶ「線」が見えてくるか。あまり期待はできませんが、確認してみたいと思います。

 関連を調べるただ一つの手がかりは名前です。①に刻まれた名前と➁にある名前に「同名」があれば関連性が考えられます。

 毘沙門堂の①の「西國三十三所當来救世観世音菩薩」の台座(左の写真)には18人の名前が彫ってあります。

 この中に➁の「光明真言塔」の施主として刻まれた「次右衛門」と「十右衛門」の名前があるでしょうか。

 ざっと見たところ、「次右衛門」と「十右衛門」の2人の名前はありませんでした。

 西暦1743年と1759年で16年の隔たりがあります。その間に志手村の有力者が入れ替わった、世代交代したということもあるかもしれません。

 あるいは次右衛門と十右衛門は志手村の住人ではなく、近隣の村の人間で、その人たちがつくったものが、何かの偶然で志手の園田さんたちの墓地に持ってこられた。そうも考えられるかもしれません。

 手持ちの材料ではこれ以上のことは推測できません。
 

寺社巡りを楽しんだ江戸の庶民


 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者は考えました。「江戸時代の仏教事情について何も知らないでは話にならない」「とりあえず基礎知識を学べる本でもないか」。そう思って大分県立図書館に行ってみました。

この先は下の「続きを読む」をクリックして下さい

3/25/2025

お大師さまとお接待 その3

意外な場所にあった

弘法大師信仰の物証


 弘法大師の命日に志手の毘沙門堂を参った人に食べ物をふるまう「「お接待」という行事が行われていた。

 そんな話を、このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その1」(2025年1月27日公開)で紹介しました。

 「お大師さまとお接待 その2」(2025年3月11日公開)では、志手で行われていた「お接待」の始まりについて調べようとしました。


 「お大師さまとお接待」シリーズの3回目となる今回は志手に残る弘法大師ゆかりのものを探してみることにしました。

 長く「お接待」が行われていたという毘沙門堂には、弘法大師にかかわりがあると思えるものはありませんでした。

 ただ、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者には一つ心当たりがありました。そこは大分市街地が見渡せる眺めの良い墓地です。
 


 ここに古い墓石のようなものがあります(上の写真の右端)。


 その正面には梵字(サンスクリット語)が彫ってあり、「光明真言塔」の文字が刻まれていました。

 この先は下の「続きを読む」をクリックして下さい

3/11/2025

お大師さまとお接待 その2

お接待 始まりは江戸後期

毘沙門堂に残る手掛かりは



 志手の毘沙門堂で弘法大師の命日にちなんだ「お接待」という行事が行われていた。このブログ「大分『志手』散歩」の「お大師さまとお接待 その1」(2025年1月27日公開)で紹介しました。

 上の写真は志手の毘沙門堂です。弘法大師の命日にあたる旧暦の3月21日などに弘法大師像をまつり、お参りしてくれた人々に食べ物をふるまう。志手では長く毘沙門堂で「お接待」が行われていたそうです。

 「お接待」に限らず、今はなくなったこと、昔の話が地域には数多くあります。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が実際に見たことも経験したこともないことが多くて、話はどうしても伝聞調になってしまいます。

 「お接待」の風習は志手だけでなく、大分県内各地にみられ、今も続いている地域も少なくないようです。

 大分県内の「お接待」について広く調べてまとめた資料を大分県立図書館で資料を見つけました。タイトルは「大分県における『お接待』」。10年ほど前の大学生の卒業論文でした。

 表紙には「平成26年度卒業研究」「情報社会文化課程 社会文化コース」「岩尾成美」「指導教員 鳥井裕美子」と書いてあります。 

「情報社会文化課程 社会文化コース」というのは大分大学のウェブサイトにありました。

 この卒業研究の筆者は大分大学の学生だったようです。

 この論文の中に大分での「お接待」の始まり、源流について書いた部分があります。

 結論から言うと、筆者の岩尾さんは「江戸時代後期には(お接待は)成立していたと推測できる」と書いています。

 岩尾さんによると、大分県内でのお接待の最も古い記録は、国東市の国見町大熊毛区本谷地区の記録帳にあった天保6年1835年)3月で、1588人の参詣者があったと記されているそうです。

 では志手の毘沙門堂でも江戸時代の末頃には「お接待」がおこなわれていたのでしょうか。

 直接の証拠となるものは見つけられませんでしたが、江戸時代に造られたと思われる石碑が毘沙門堂の境内にあります。これが手掛かりを与えてくれるかもしれません。
 
 この先は下の「続きを読む」をクリックして下さい

「長水」余話 現在の「町名」は?

  「長水」から「王子山の手」に オシャレな名前はいつから?  志手天神社は昔の志手村内ではなく、隣りの旧長水村の中にある。  そんな話を、このブログ「大分『志手』散歩」の「 天神社 志手村と長水村の関係は? 」(2025年7月11日公開)で書いています。  志手天神社の境内に石...