6/27/2026

志手ぶらぶら路上観察記⑩桜ケ丘聖地の老木

老いていく樹々

 桜ケ丘聖地にて 



 今年の梅雨はよく雨が降ります。上の写真は6月26日早朝の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)です。この日は未明に雷の音で起こされ、ザァーザァーという雨の音が耳に入ってきました。雨の日にも少し飽きました。


 上の写真は6月20日の桜ケ丘聖地です。この日は朝から志手の住民でつくるまちおこしグループ「志豊会」が桜ケ丘聖地の草刈りをしました。

 8時から3時間ちょっとの作業でしたが、心配された雨はほとんどありませんでした。

 20日の午前中と翌21日の日曜日、さらに22日の月曜日午前中くらいでしょう。雨がほとんどなかったのは。あとは雨続きです。

 さて、旧陸軍墓地は丘の斜面に造られています。一番上に左の写真の記念堂があります。

 中にはシベリア出兵でロシアに派遣され、1919(大正8)年冬の現地の戦闘で命を落とした当時の大分連隊の資料などがあります。

 20日の朝、この記念堂の周囲の草刈りをしようと上がっていくと、記念堂の前に大きな木の枝が2本横たわっていました。草刈りの邪魔になるので端っこに動かしましたが、なぜ大きな枝がこんなところにあるのか不思議でした。


 聞いてみると、6月初めの台風6号に伴う強風で落ちたようです。あらためて6月26日に写真を撮りに行きました。



 記念堂の上を見ると、確かに途中で折れてしまったような形の木がありました。これでしょうか。

 桜ケ丘聖地ではここ数年、老木や大木の伐採が進み、随分と見晴らしが良くなりました。


 上の写真のように記念堂の周りにもかつては大きな木がありました。



 ドローンで撮った6年前の桜ケ丘聖地の全景が上の写真です。
上からみると記念堂の姿がすっぽりと覆われるような状態でした。

 ただ、木々も老てゆきます。枯れた木などを放置していては危険ではと心配した志手町内会などが県知事に要望書(右)を出しました。

 2019(令和元)年10月のことです。

 ちなみに旧陸軍墓地は1955(昭和30)年に国から大分県に払い下げられ、現在は県が管理者になっています。

 地元の要望を受ける形で最初に伐採されたのが記念堂の裏にあったメタセコイアでした。



 メタセコイアは2019年12月に伐採されました。このメタセコイアについては、このブログ「大分『志手』散歩」の「メタセコイアとラクウショウ➁大きくなり過ぎた木」(2024年8月30日公開)で紹介しています。

 その後も老木、大木の伐採が行われましたが、安心するのはまだ早いかもしれません。今年は台風6号に続き台風7号、8号もやってきました。

 台風シーズンはまだまだ続きますので、桜ケ丘聖地の木々の安全点検も一度やっておいた方がよさそうです。
 
 

6/21/2026

小字あれこれ 余話 AIも筆の誤り

AI先生も筆の誤り

小さなミス見つけた



 間違いではありませんが、少しだけ正確さに欠けるところがあるというのが正確でしょうか。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が「小字(こあざ)」についてあらためて調べてみようと思って、まずはGoogle検索してみました。すると、最初にAIによる概要説明が出てきました。それが下の資料です。


 簡潔にして明瞭で、これを読むだけで「小字」について分かったような気がしてきます。

 ただ、気になるところが一つあります。それが赤色で線を引いた「江戸時代の村の名残である『大字(おおあざ)』」という部分です。

 このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が住む志手の大字は「三芳」です。でも江戸時代は「志手村」でした。

 志手と三芳の関係についてはこのブログ「大分『志手』散歩」で何回か書いています。例えば「ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤『三芳』と『志手』 二つの住所」(2023年2月13日公開)で、少し詳しく説明しています。

 あらためて説明しますと、三芳
村は明治8(1875)年に志手村と椎迫村が太平寺村の一部を加えて誕生しました。

 そして三芳村は「明治の大合併」によって荏隈村、永興村、奥田村とともに新「荏隈村」になります。

 もっと正確に言うと、三芳村が荏隈村、永興村、奥田村と合併したのは明治17(1884)8月の県による改正で、この時は「永興村」となった。その後の明治の大合併で「永興村」は「荏隈村」に村名が変わったのだそうです。

 細かいことはともかく、ここではっきりとしていることは、志手、椎迫をひとくくりにした「大字三芳」の「三芳」は明治時代に生まれた村名であるということです。

 ついでにAIによる大字の説明も見ておきます。


 ここでは「明治の大合併」がキーワードになります。

 大字の由来として「明治時代の大合併により、複数の村がひとつの新しい村になった際、旧村の名前を残すために地名の前に『大字』と付けるようになりました」と説明されています。

 明治時代に大規模な町村合併が行われ、それによって消える村名が「大字」として残された。だから、志手や椎迫は古くからの村名である志手、椎迫ではなく、明治に入ってできた三芳村の「三芳」が大字になった。

 この説明は正確です。一方、江戸時代の村の名残りという説明は「三芳村」などの例外を考えればやや正確さに欠けると言わざるを得ません。

 AI先生も「筆の誤り」といったところでしょうか。

 なぜAIは「大字は江戸時代の村の名残」と書いたのでしょうか。あくまでも「概要」だから、わずかな例外があってもだいたい正しければいいという判断かもしれません。

 それとも参考にした資料を鵜呑みにしてしまったのでしょうか。住宅地図でおなじみのゼンリンのウェブサイトに「地理人コラム」というのがありました。


 そこで「大字と字」が取り上げられ、「大字」とは「江戸時代の村を継承した範囲・地名」と書かれています。

 AIはこれを読んで「江戸時代の名残」と書いたのかもしれません。コラムですからあまり細かいことを書いてもややこしくなるし、長々と書くことも難しいとなれば、ざっくりとした表現になることもあるでしょう。


 「確かだと思われる資料でも100%正解ではないかもしれない」。志手の小字名を調べる中で感じたことです

 右の角川日本地名大辞典の大分県編にあった旧志手村の小字リストのことです。

 前々回のブログ「小字あれこれ その⑥ 食い違う資料」(2026年6月5日公開)に書きました。

 大分県立図書館にある「村図大分郡三芳村」(明治21年刊行)などと照らし合わせてみると食い違いが出てきました。

 現段階ではこのブログの筆者は角川日本地名大辞典の大分県編に問題ありと考えています。大辞典にある志手村の小字リストは正確さに欠けていると思っています。

 細心の注意を払っても完璧なものは作りあげるのは難しいことです。大辞典も作れば終わりではなく、その後も調査研究を続けていくことで精度が高まっていくでしょう。

 AI先生も、このブログ「大分『志手』散歩」と「三芳村」を発見すれば、「江戸時代の名残」の注釈に「例外もある」などと書き加えてくれるかもしれません。

 

  
 

6/19/2026

ミカンとりんご③ 見出しは「面積最低」

目を引いた農業新聞の見出し

ミカンとリンゴは面積最低⁉

 


 このブログ「大分『志手』散歩」でミカンとリンゴのことを書いたのは1年前の6月でした。その時も日本農業新聞の記事に触発されて書いたのでしたが、今回も同じです。


 ちなみに「大分『志手』散歩」の1年前の投稿は「余話 ミカンとりんご 日本農業新聞より」(2025年6月9日公開)と「ミカンとりんご➁ 志手ミカンの始まりは」(2025年6月14日公開)です。

 さて、今回取り上げる記事は日本農業新聞の2026(令和8)年6月7日付のものです(上の写真)。大分県立図書館でコピーしました。

 記事の見出しは「リンゴ、ミカン面積最低」「生産基盤弱体化が顕著」です。「最低」「弱体化」「顕著」は言葉の響きが強く、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者の目に瞬間的に飛び込んできました。
 
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6/05/2026

小字あれこれ その⑥ 食い違う資料

編者は同じで異なる小字

二つの資料の違いに困惑



 
いいものを見つけたと思いました。大分県立図書館にあった「角川日本地名大辞典 44 大分県」(角川書店発行)です。

 都道府県ごとに出版されており、大分県が発行されたのは1980(昭和55)年11月とあります。

 辞典は全部で1318ページあり、分厚く重たいものです。

 「志手村」は407ページにありました。

 大辞典の説明ではまず「志手村<大分市> 江戸期~明治8年の村名」とあります。

 なぜ明治8(1875)年までかというと、このブログ「大分『志手』散歩」でも紹介しましたが、この年に志手村と椎迫村は太平寺村の一部を加えて合併し、三芳村になり、志手村がなくなったからです。

 ただ、通称として「志手」は残りました。そして今も生きていることは、このブログ「ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤『三芳』と『志手』 二つの住所」(2023年2月13日公開)で紹介しています。

 さて、この大辞典を読んで、このブログの筆者が喜んだのは「志手村」の説明が載っていたからではありません。


 
1173ページから始まる「小字(こあざ)一覧」で旧志手村の小字を見つけたからです。

 旧志手村を含む三芳村の小字リストは1181ページにありました(上の資料)。太平寺、椎迫、志手の旧村ごとに小字が書いてあります。

 大辞典によると、志手村の小字は「クス亀」「札場」「売田」「フケ」「平」「辻」「屋敷」「後口平」となっています。

 これとこのブログの「小字シリーズ」で使ってきた字図を照合すれば、旧志手村がどのあたりで、どれくらいの広さだったのか、大体分かるのではないか。そう思ったのですが、そう簡単ではありませんでした。

 資料を照らし合わせると、食い違いがあり、どうも辻褄があわないようなところが出てきたのです。

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志手ぶらぶら路上観察記⑩桜ケ丘聖地の老木

老いていく樹々  桜ケ丘聖地にて    今年の梅雨はよく雨が降ります。上の写真は6月26日早朝の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)です。この日は未明に雷の音で起こされ、ザァーザァーという雨の音が耳に入ってきました。雨の日にも少し飽きました。  上の写真は6月20日の桜ケ丘聖地です。この日は...