6/05/2026

小字あれこれ その⑥ 食い違う資料

編者は同じで異なる小字

二つの資料の違いに困惑



 
いいものを見つけたと思いました。大分県立図書館にあった「角川日本地名大辞典 44 大分県」(角川書店発行)です。

 都道府県ごとに出版されており、大分県が発行されたのは1980(昭和55)年11月とあります。

 辞典は全部で1318ページあり、分厚く重たいものです。

 「志手村」は407ページにありました。

 大辞典の説明ではまず「志手村<大分市> 江戸期~明治8年の村名」とあります。

 なぜ明治8(1875)年までかというと、このブログ「大分『志手』散歩」でも紹介しましたが、この年に志手村と椎迫村は太平寺村の一部を加えて合併し、三芳村になり、志手村がなくなったからです。

 ただ、通称として「志手」は残りました。そして今も生きていることは、このブログ「ふるさとだよりで知る志手のトリビア⑤『三芳』と『志手』 二つの住所」(2023年2月13日公開)で紹介しています。

 さて、この大辞典を読んで、このブログの筆者が喜んだのは「志手村」の説明が載っていたからではありません。


 
1173ページから始まる「小字(こあざ)一覧」で旧志手村の小字を見つけたからです。

 三芳村は1181ページにありました(上の資料)。太平寺、椎迫、志手の旧村ごとに小字が書いてあります。

 大辞典によると、志手村の小字は「クス亀」「札場」「売田」「フケ」「平」「辻」「屋敷」「後口平」となっています。

 これとこのブログの「小字シリーズ」で使ってきた字図を照合すれば、旧志手村がどのあたりで、どれくらいの広さだったのか、大体分かるのではないか。そう思ったのですが、そう簡単ではありませんでした。

 資料を照らし合わせると、食い違いがあり、どうも辻褄があわないようなところが出てきたのです。

 (このあとは下の「続きを読む」をクリックして下さい)



 このブログ「大分『志手』散歩」では「小字あれこれ」と題して志手やその周辺の歴史的な地名(小字・こあざ)について見てきました。

 志手の小字について書き進めていくため使った資料が幾つかあります。

 このブログの筆者が一番のよりどころとしたのが明治21(1988)年刊行とされる「村図大分郡三芳村」です。上の写真はその一部です。

 大分県立図書館で旧志手村と思われるところをコピーしました。


 この地図に書かれている小字が読み取りにくいので照合用に使ったのが上の資料です。

 「豊後国荘園公領史料集成五(上)豊後国荏隈郷・勝津留・笠和郷・賀来荘・阿南荘史料」にある小字一覧です。

 この本は別府大学付属図書館刊行で、編集は「渡辺澄夫」とあります。

二つの資料 編者は同じ渡辺澄夫さん


 渡辺澄夫さん。このブログの筆者も名前を聞いたことがあります。

 ただ、このブログの筆者が抱くイメージは大分県の歴史研究の大家といった漠然としたもので、詳しい業績は承知していません。

 ネットで検索してみると、別府大学のウェブサイトに渡辺さんの経歴がありました。

 その一部を引用させてもらうと、渡辺さんは大分師範学校から広島高等師範学校に進み、さらに広島文理科大学史学科に入学し、そこを卒業。大分師範に職を得て助教授、教授となります。

 戦後の学制改革で大分師範は大分大学と装いを変え、渡辺さんも大分大学教授となります。

 教育者、研究者としての歩みは長く、大分大を退いたあとは別府大学に教授として迎え入れられています。

 
 「大分県地方史研究会」の委員長、会長を長く務めており、その経歴からも大分の歴史研究の第一人者といえます。

 渡辺さんが亡くなった1997(平成9)年1月の新聞では「大分歴史研究の権威」と書いてありました。

 記事には大友氏の歴史を科学的に解明したとも書いてあります。

 大友氏と聞くとこのブログの筆者は「大友宗麟」ぐらいしか浮かびませんが、宗麟とその子に至る一族の歴史を科学的検証によって明らかにしたということでしょうか。

 こんなことを書いているうちに、このブログの筆者は渡辺澄夫著の「大分県の歴史」を読んだことがあったと思い出しました。

 ここまで渡辺澄夫さんを少し詳しく紹介してきたのは訳があります。

 このブログの最初に取り上げた「角川日本地名大辞典 44 大分県」の編集者も渡辺さんだからです。

 渡辺さんが編者としてかかわった二つの資料「豊後国荘園公領史料集成五(上)」と「角川日本地名大辞典 大分県」では、志手の小字(こあざ)に食い違いがあるのです。
 
 もっとも大辞典の編集者は渡辺さんひとりではなく、ほかに3人の名前があります。だから、渡辺さんが大辞典の隅から隅まですべてに目を通したわけではないかもしれません。


志手の小字 二つの資料で一致は4つだけ



 客観的に見れば、志手の小字といった些細なことに多少の食い違いがあっても、これらの書物の価値が減じるわけではありません。

 ただ、このブログ「大分『志手』散歩」のように特定の地域を見ている人間にはそうはいきません。困った事態になりました。

 違いを示すために「豊後国荘園公領史料集成五(上)」と「角川日本地名大辞典 大分県」の二つの資料を比較してみます。

 地名大辞典では志手の小字はクス亀札場売田フケ屋敷後口平があります。

 これを豊後国荘園公領史料集成五(上)にある三芳村の小字一覧と照らし合わせてみます。

 フケ後口平(あとくちだいら)はありますが、札場、売田、屋敷はありません。クス亀はこちらの資料のクス神のことでしょうか。

 二つの資料で共通する字(あざ)を「村図大分郡三芳村」で確認してみましょう。


 地図に書き込んでみると、上のようになりました。

 太字が二つの資料に共通する小字です。クス亀はクス神と考えて良さそうです。大辞典の「売田」は地図の「生田(なまだ)」でしょうか。

 地図には「前田」もありますが、大辞典では「前田」は椎迫村の小字の一つになっています。飛び地として椎迫村に入っていたのでしょうか。なんだか不自然で、ちょっと首をかしげたくなります。

 地図に入れた緑の線は駄原村との境界線です。村境にある井之迫、亀甲は大辞典にはありません。この辺りが大辞典にある「屋敷」でしょうか。


大辞典にあって地図にない「札場」「屋敷」


 大辞典にある小字一覧の最初に「東京大学史料編纂所に所蔵される明治15(1882)年の『大分県各町村小字取調書』をはじめ、県内に残る郡村史など同時期の小字資料によって編纂した」と説明書きがあります。

 きちんと調べて書いてあるのになぜ違いが出るのか。このブログ「大分『志手』散歩」の筆者にはよく分かりません。

 ただ「札場」「屋敷」という呼び名の場所はあったようです。

 このブログ「大分『志手』散歩」の「地図から消えた『毘沙門川』」(2023年9月25日公開)で紹介した園田九洲男著「私の故郷 『志手』風土記」の中に以下のような説明がありました。

 「〔こうさつば〕高札場であろう。儀(ぎ)いちゃんの前下である」

 「〔しもんやしき〕直ちゃんの焚き物置き場であったようである。もっと昔は立派な屋敷があったのかもしれない」

 このブログの筆者にははっきりした場所は分かりませんが、「札場」「屋敷」に通じる場所があったのは間違いないようです。
 
 ついでに言うと「フケ」とは「湿地」「湿田」を意味する古い言葉だそうです。

 「志手集会所」のあたりが「フケ」と呼ばれていたと教えてくれた人がいました。

 明治21年刊行の「村図大分郡三芳村」にある「フケ」の位置から考えても、この辺りと考えてよさそうです。

 「豊後国荘園公領史料集成五(上)」と「角川日本地名大辞典 大分県」。二つの資料のどちらが正しいのか。素人が無い知恵を絞っても答えは出ません。

 ただ、二つの資料の正誤に頭を痛めなくても志手村の範囲を掴むことはできそうです。

椎迫の小字から見えてくる志手との境界線


 このブログの筆者が志手村の小字を書き込んだ「村図大分郡三芳村」をもう1回見てみましょう。


 この地図にある小字が読みやすいようにこのブログの筆者がさらに小字名を書き込んでみます。

 すると以下のようになります。




 新たに書きだした小字が椎迫村であれば志手村と椎迫村の境界線を引くことができます。

 書き加えた小字を「角川日本地名大辞典 大分県」と照合してみます。

 大辞典では「堂ノ本」「壱反小」「九反田」「塔平」「五反田」「宮畑」「栗迫」「光政」が旧椎迫村の小字として書かれています。

 「下堂ノ本」「一町田」「鉾田」は一覧にありません。

 ちなみに「豊後国荘園公領史料集成五(上)」の三芳村小字一覧には「下堂ノ本」「一町田(一丁田)」「鉾田」はあります。

 ちょっと不明なところもありますが、大ざっぱに志手と椎迫の境界線は描けそうです。


 ということで境界線を入れた地図がこれです。臙脂(えんじ)の線が志手村と椎迫村の境界、緑の線が志手村と駄原村の境界です。

 資料の食い違いに戸惑いながらも、当初の目的だった志手村の範囲を見極めるという作業はほぼできたと思います。

◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 これでおしまいと思ったのですが、困った問題がまだありました。それが赤字で書いた「鉾田」です。

 志手の毘沙門堂にまつられている毘沙門天像がもともと置かれていた場所が椎迫の鉾田だったという言い伝えがあります。
 

 このブログ「大分『志手』散歩」の「毘沙門堂今昔その2 いまに生きる記録 郷土史家の功績」(2024年3月1日公開)で書いています。
 
 志手の毘沙門天像の由来が江戸時代に書かれた「豊府紀聞」に書かれています。
 
 毘沙門天の石像は椎迫の鉾田にあった。石像が安置されていた堂は壊れたままで再建されることもなく、石仏は風雨に晒されていた。石仏はその後志手村内に捨てられた。正保2年(1645年)に志手村の名主が藩主の許可を得て、お堂を建ててその石仏(毘沙門天像)を安置した。

 そんな話です。「鉾田」というのは江戸時代以前からある呼び名のようです。小字として使われていても不思議ではないと思いますが、どうなのでしょう。



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