12/24/2023

志手天神社の初詣 おなじみの案内板は今年もなく

 賑い戻るのはいつ 志手天神社の初詣


 
「初詣は志手天神社へ」。数年前まで、そう書かれた案内板が町内のあちこちに見られました。
 左の写真は2018(平成30)年12月に撮影したものです。

 ここ数年、初詣の案内板を見ることができませんでした。残念ながら、今年の師走も、この案内板はありません。

 ご承知の通り新型コロナウイルスの大流行で人が集まるような行事はどこでも中止になりました。志手天神社の新年行事も例外ではなく、ここ数年行われていませんでした。

 今年はちょっと状況が変わってきましたが、志手天神社の迎春行事は今年も見合わせようとなったようです。 
 


 大晦日の深夜から元日未明の志手天神社はにぎやかでした。昔から志手に住んでいる「園田さん」を中心にした地域住民グループ「志豊会」が、初詣に来た人たちに熱いそばと熱々の甘酒、お神酒をふるまいます。

 上の写真は2019(令和元)年12月31日と2020(令和2)年1月1日に撮影したものです。

 真っ暗な志手天神社に明かりが灯るのは12月31日の夜10時前頃。参拝客を迎える準備が始まります。そして、午前零時を過ぎてしばらくすると抽選会が始まります。

 おみくじを買った参拝者には「松の○番」「竹の○番」といった抽選券が渡されます。抽選会前には狭い境内は人であふれるようになります。
 
 抽選会の景品は志豊会の会員が持ち寄ったものや新たに購入したものです。ユニークなのは「ふるさと賞」でしょう。志豊会にはミカン生産者がいます。その人たちがつくったミカンが景品として提供されていました。
 
 ※志手の「園田さん」については、このブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁「志手と言えば園田さん、そのルーツは?」をご覧ください。

 地域の人たちによる手作りの迎春行事は、住宅街の端にある小さなお宮、志手天神社にぴったりに思えました。

 ただ、志手天神社周辺にも大きな変化が起きていることは「志手ぶらぶら路上観察記②天神社界隈」で報告した通りです。



 

 今秋に天神社裏のミカン畑の造成が始まり、住宅地として形が少しずつ見えてきています。来年の今頃に見る志手天神社界隈は今年と随分変わっていそうです。

 
 


 

11/29/2023

「国民哀悼の日」と桜ケ丘聖地 

独大佐の献花と「国民哀悼の日」


 
 11月24日午前。桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の前を通りかかると、日本とドイツの国旗が掲げられていました。

 桜ケ丘聖地に2人のドイツ人の墓があることは、このブログで何回か紹介しています※。2人は第一次世界大戦で日本の捕虜となり、大分の捕虜収容所で病死しました。

 ※新しいものでは「ドイツ大佐 離日前の墓参り 桜ケ丘聖地」(6月27日公開)、古いものでは2021(令和3)年9月16日公開の「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」があります。

 第一次大戦から100年以上の時を経て、忘れ去られようとしていた2人の墓を再発見したのは、駐日ドイツ大使館付武官のカーステン・キーゼヴェッタ―氏でした。キーゼヴェッタ―氏は既に日本を離れ、その後任者がこの11月24日、桜ケ丘聖地の2人の墓に献花に訪れたのでした。

 駐日ドイツ大使館に赴任したカーステン・キーゼヴェッタ―大佐は、第一次大戦中に日本で亡くなったという曽祖父の弟の墓を探し、桜ケ丘聖地にあることを突き止めました。

 キーゼヴェッタ―大佐が最初にその墓を訪れ、献花したのは2019(令和元)年暮れのことだったそうです。上の写真は2020(令和2)年2月に撮影したものです。曽祖父の弟のユリウス・パウル・キーゼヴェッターの墓に供えたと思われるものがまだ残っていました。

 キーゼヴェッタ―大佐は2020(令和2年)11月に再び墓地を訪れました。その時はドイツ大使館主催の公式行事として墓参が行われました。

 公式行事としてなぜ11月に行ったのか。当時、ちょっと疑問に思ってドイツ大使館に問い合わせてみました。

 すると「大使館武官室では日本各地のドイツ兵の慰霊祭を『国民哀悼の日』にちなんでおこなっており、大分に伺いましたのもそのために11月でした」との回答を得ました。

 フリー百科事典「ウィキペディア」には、「国民哀悼の日」はドイツにおいて、戦没者ならびにナチ党の暴力支配の犠牲者を追悼する記念日である、とあります。1993年以来毎年11月の第3日曜日に大統領、政府閣僚、ベルリン駐在の各国外交団の臨席を得て式典が執り行われるそうです。

 ドイツ本国での慰霊行事に合わせて日本でも戦没者を追悼するということで、桜ケ丘聖地でも11月に献花式が行われたということになります。

 その様子はOBS(大分放送)とOAB(大分朝日放送)のニュースにありました。報道によると、
ドイツ大使館のラルフ・ベルジケ空軍大佐夫妻が桜ケ丘聖地を訪れ、2人の墓に献花し、追悼したとのことでした。

 ベルジケ大佐がキーゼヴェッタ―大佐の後任のようです。ベルジケ大佐は前日の23日に徳島県鳴門市の捕虜収容所跡を訪れています。

 NHK徳島放送局のニュースによると、鳴門市にあった「板東俘虜収容所」跡には、四国各地で亡くなったドイツ兵の慰霊碑があり、23日は慰霊碑前で献花式があったそうです。

 ベルジケ大佐は23日の徳島県鳴門市での献花式に出席後、大分市に足を延ばし、桜ケ丘聖地を訪れたということのようです。

 ちなみに第一次大戦の時に捕虜となったドイツなどの将兵の収容所は各地にありました。「ドイツ大佐 離日前の墓参り 桜ケ丘聖地」でも掲載した地図を再掲します。

 

 上の地図は千葉県習志野市教育委員会が発行した「ドイツ捕虜収容所ガイドブック『ドイツ兵たちの習志野』」からの引用です。

 駐日ドイツ大使館関係者は「国民哀悼の日」に合わせて徳島県鳴門市や大分市のほかに何カ所くらい慰霊に訪れているのでしょうか。機会があれば聞いてみたいところです。

 

  
 

11/21/2023

あったはずが消えた 志手遺跡その2

  あるはずが、“幻”だった志手遺跡

 
 前回のブログ(10月21日付「あったはずが 消えた志手遺跡」)の最後に「残念ながら本格的な調査はなされないまま『志手遺跡』の名前は大分県の遺跡リストからは外されることとなりました」と書きました。

 ところが、その後、意外な話を耳にしました。

 「遺跡調査が行われたが、何も出てこなかった」というのです。



 土地の所有者がアパートを建てることになって、調査が行われたそうです。土器や何やらが発掘されるだろうと地域の住民も期待していたら、何も出ずに驚いたという話を聞きました。

 それが本当なら、「志手遺跡」はもともとなかったということになります。

 すると、次なる疑問が生じます。「誰が、何のために志手遺跡を“発見”したのか?」

 このブログの筆者が志手遺跡を知ったのは、大分県立図書館にある1955(昭和30)年発行の「大分市史」を見たからです。

 つまり、1955(昭和30)年以前に志手遺跡を“発見”した人がいたということです。今となっては、どんな人が何を見つけたのか、ちょっと調べようがないのですが、ぜひとも知りたいところです。

 遺跡発見の謎を調べることは現段階では難しいですが、発掘調査が行われたという年月を特定することはできそうです。カギは「アパートが建設された年」です。

 「調査したが、何も出なかった」と話してくれた人は「かなり昔のことだから」と言い、その年月までは覚えていませんでした。

 アパートの有無をチェックするのは「ゼンリンの住宅地図」でできそうです。毎年のように出版されていますから古い順から見て行けば、“遺跡”のところにアパートが建った年が特定できる、と考えました。


 前回のブログ「あったはずが消えた 志手遺跡」を書く際に、1967(昭和42)年と1975(昭和50)年に発行された「全国遺跡地図(大分県)」(文化財保護委員会編)に「志手遺跡」があることを確認しています。

 1975(昭和50)年に発行された「全国遺跡地図(大分県)」には、「埋蔵文化財包蔵地は、県教委が昭和46(1971)年度に実施した分布調査の成果をもとに若干の補正を加え」などと書かれています。

 ということは、大分県教育委員会が調査した1971年頃にはアパートは建っていなかったと考えられます。念のために1969(昭和44)年のゼンリンの住宅地図を見てみました。

 志手遺跡があったといわれる場所は田んぼでした。

 ここから順を追ってゼンリンの住宅地図を調べて行けば志手遺跡が“幻”と消えた時期が分かる。

 そう思って大分県立図書館に行ったのですが、ことは思うように運びません。かえって別の迷路に入り込んだような展開になってしまいました。

 (このあとは「続きを読む」をクリックして下さい)

10/21/2023

あったはずが消えた 志手遺跡

 あるはずが 地図から消えた志手遺跡 


 
 大分市のホームページに「おおいたマップ地図情報」というサービスがあります。

 マップには「公共施設情報」「観光情報」「学校区情報」「医療施設情報」「文化財情報」などがあります。

 「文化財情報」では市内にある遺跡の場所を赤色で表示し、そこをクリックすると名称を表示します。上の地図は文化財情報のマップを、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が加工したものです。

 何のために文化財情報マップの加工をしたかというと、「志手遺跡」がマップに載っていないことを示すためです。

 さほど重要な遺跡ではないのでマップには記載しなかった。そういうこともあり得るので大分市教育委員会文化財課に電話して「志手遺跡」について問い合わせてみました。

 「志手遺跡の正確な場所が分かれば教えてほしい」と。すると、文化財課では志手遺跡について知らなかったようです。とりあえず調べてみるということで、問い合わせの翌日に受けた答えは「資料も何もないので分からない」でした。

 「志手遺跡」についての記載は1955(昭和30)年発行の「大分市史」にあります。市史にある地図が下の写真です。



 手書きの大雑把な地図なので、これでは正確な位置を知ることはできません。それで市の文化財課に電話してみたのですが、志手遺跡についての新たな手掛かりを得ることはできませんでした。

 実は、このブログの筆者は志手遺跡の場所が書かれた地図を持っています。「『地図』から消えた毘沙門川」(9月25日公開)で紹介した大分県土木建築部河川課大分土木事務所制作のリーフレット「住吉川」にある「住吉川流域図」。この縮尺1万分の1の地図に「志手遺跡」の文字がありました。

 大分市からは目ぼしい情報を得られなかったので、このリーフレットを作った大分県大分土木事務所に電話してみることにしました。



 結論を先に言えば、大分土木事務所でも期待した情報を得られませんでした。ただ、少し調べ回るうちに意外な事実が分かってきました。なぜ、志手遺跡は大分市の文化財情報マップにないのか。その理由と志手遺跡を地図から消し去った“犯人”が浮かび上がってきました。

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10/14/2023

志手ぶらぶら路上観察記②天神社界隈

消えるミカン畑 志手天神社界隈 


  
 右の写真は
2023(令和5)年10月4日に撮影した志手天神社の拝殿です。後方にオレンジ色の重機があるのがわかるでしょうか。
 天神社裏の造成が始まったようです。ミカン畑だったところが住宅地に変わるようです。
 1週間後の10月11日。場所を移動しながら造成作業を見てみることにしました。

 天神社から移動して、まずは立て看板を写真に収めました。敷地面積が約9,000㎡で、工期は令和7(2025)年7月までと書いてありました。結構広いですね。
 さらに、隣りの桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)に行き、坂を上って一番上の記念館のところから見ることにしました。
 
 記念館のところから隣りにカメラを向けると

 


重機が何台も動いていました。

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9/25/2023

地図から消えた「毘沙門川」

地図から消えた毘沙門川 そのわけは? 


 
 今回は「毘沙門川」について書いてみたいと思います。志手に「毘沙門堂」があり、その横を流れる小さな川が「毘沙門川」(上の写真)です。

 橋の欄干に川の名前が表示されています。読んでみると「住吉川」。あれ⁉「毘沙門川」ではありません。

 しかし、この川がかつて「毘沙門川」と呼ばれていたことは間違いありません。そして、それが由緒正しい川の名前であったことも。 
 

 「私の故郷 『志手』風土記」という本があります。著者は園田九洲男さん(故人)。志手に生まれ育った著者が少年時代の思い出をつづったものです。

 この本の「あとがき」で「できるだけ昭和20年頃の『志手』の様子を書いたつもりである」と著者は記しています。今から80年ほど前の志手の暮らしと風景が描かれているわけです。

 その中に次のような回想があります。

 「としんかみ(歳の神、志手、椎迫の境・毘沙門川の上流)で水遊びをすますと、村堤(かんがい用の溜池)で泳ぐ資格ができる」

 「毘沙門川の流れも『としんかみ』といっていた。小さな子どもたちの恰好の水遊び場で、ハエがたくさん泳いでいて、水もきれいであった」


 「としんかみ」と呼ばれた場所が冒頭の写真のあたりではないかと思われます。現在は大分市消防団大道分団西部の建物などがあります。

 志手の住民がこの川を毘沙門川と呼んでいたからといって、それが正式な名称だとは限りません。地元だけで使われる通称でしかないこともありえます。

 そこで地図を見てみました。大分県立図書館に収蔵されている昔の「大分市街図」です。
 

 宗像地図店(現ムナカタ地図店)という大分市の会社が発行しています。左が1963(昭和38)年発行で、右が1971(昭和46)年発行のものです。赤い枠で囲ったのが河川名です。

 左の地図では「毘沙門川」、右の地図は「住吉川」となっています。なぜか川の名前が変わっています。この間に何があったのでしょうか。

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9/04/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験④

園田英雄さん 消えない戦争の記憶④

進駐軍は隣り組 米兵が土足で家に 



 前回の「園田英雄さん 消えない戦争の記憶⓷」では、大分市が受けた空襲被害について少し書いてみました。

 今回は日本が降伏し、米軍の占領が始まる頃の大分がテーマです。

 米軍の大分進駐と同時に、園田英雄さん(故人)は米兵2人がいきなり自宅に踏み込んで来るという経験をしました。

 「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(エドガー・A・ポーター ランイン・ポーター著 菅田絢子訳 みすず書房)に、その証言があります。

 10月13日、到着した進駐軍が兵舎の西大分駄原の陸軍少年飛行兵学校(※)に入ってまもなく兵士がふたりやってきました。武器を隠してないか一軒一軒調べていたのです。押入れを開けたり箪笥を開けたり。作業は鄭重なものでした。ただ腹が立ったのは靴履きで上がってきた!(笑)

 ※大分連隊が宮崎県都城市に移り、そこに1943(昭和18)年秋に少年飛行兵を養成する学校ができ、終戦とともに閉校になりました。

 大分にやって来た米軍は当面の宿舎として、終戦で閉校となった大分陸軍少年飛行兵学校(その前は大分連隊)の兵舎を使うことになりました。

 左は1921(大正10)年の大分市の地図の一部です。昔の地図を見ると志手の集落と大分連隊の位置関係がはっきりします。園田英雄さんが住んでいた志手は、大分連隊の“隣り組”になります。駐屯にあたり米兵は周囲に危険がないか調べに来たというわけです。

 ※ちなみに冒頭の写真は大分連隊跡とその周辺の現在の様子です。兵舎跡には大分大学教育学部付属小・中学校などができ、練兵場跡には大分市営駄原総合運動公園や大分県立大分西高校などがあります。


カービン銃を携えた米軍、緊張の顔合わせ

 

 米軍の大分進駐について1988(昭和63)年発行の「大分市史 下」(大分市史編さん委員会)から少し引用してみようと思います。

 連合軍=米軍による大分の占領が始まったのは昭和20年10月4日である。この日、米第5海兵師団(佐世保)所属のH・E・ベーカー大尉ら4人が先遣隊として列車で大分駅に到着、その足で県庁を訪ね、中村知事ら県終戦事務連絡委員会と占領軍受け入れについての打ち合わせを始めた。

 打ち合わせといっても、カービン銃を携え、拳銃を卓上に置いてのことで、時には気色ばみ、荒い声も出したというから、一方的な命令に終始したのだろう。

 大分市史では、日米関係者による緊張した初顔合わせの様子を上のように書いています。

 米軍を迎える大分県民は米兵に不安、恐怖心を抱いていましたが、米側も日本側の抵抗を警戒し、不信感、不安感がぬぐえずにいたのでしょう。

 大分市史は、ベーカー大尉は県外務課に、大分合同を含む新聞4紙の全紙面を毎日英文に翻訳して提出せよと無理難題をもちかけたが「殺されてもできん」と蹴ったこともある、というエピソードも紹介しています。

 相互不信による緊張も徐々に緩和されていくのですが、大分市史にはもう一つ興味深い話が載っていました。

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8/18/2023

志手の盆火 ガータリ

火の玉が宙を舞う 志手の盆火 ガータリ

  言葉で説明するより実物を見てもらった方が早いだろうと思って、数年前の写真などを使って短い紹介動画を作ってみました。8月13日の志手の夜の恒例行事が「ガータリ」です。今年も火の玉が宙を舞いました。

 
 火の玉の正体は麦わらです。右の写真は麦わらの球にフジカズラ(藤のつる)を結び付けているところ。カズラを持って火のついた麦わらを回します。

 ガータリは13日に行われるので「盆の迎え火」と言われます。ただ、昔は13、14、15と3日間続けてやっていたと言う人もいます。

 ガータリが行われる場所は、志手の住宅街の背後にある小高い丘の中腹です。志手に昔から住む「園田」※さんたちの墓があるところです。


 
 墓所の手前に少し広い「踊り場」のような空間があります。
 13日夜にあらかじめ作っておいた麦わらの球などがここに運び込まれます。「チキリン」と呼ぶ鉦もガータリのお囃子として欠かせません。 

 ここで麦わらの球の作り方を簡単に紹介しておきます。

 

 最初の写真は麦わらを縦横に交互に重ね合わせ、ワイヤーでしっかりと固定しているところです。わらは縦、横、縦、横と2回重ねます。

 



 ばらけないようにしっかり縛ったら、わらの先を内側に折り込んでいきます。少しずつ丁寧に折り込んでいくと、きれいな球ができます。

 見ていると、単純な作業のようですが、やってみると、きれいな球形にするのはなかなか難しいことです。

 (この先は「続きを読む」をクリックしてご覧ください)

8/08/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験⓷

 園田英雄さん 消えない戦争の記憶⓷

狙われた大分 空襲 九州最多の20回



 前回の「園田英雄さん 消えない戦争の記憶②」では、
エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳の「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(みすず書房刊)にある園田英雄さん(故人)の証言を見ました。

 今回もこの本を下敷きにしながら、他の資料も参照して昭和20(1945)年の大分市の空襲被害について見ていきたいと思います。

 都市別の空襲回数は大分県立図書館にあった「建設省編 戦災復興誌第1巻」(計画事業編)から引用しました。この本は1959(昭和34)年3月に財団法人都市計画協会から発行されています。

 この本は簡単に言えば、空襲で焦土と化した国土の復興の記録です。空襲による被害は全国で120余の都市に及び、罹災面積は1億9千万坪(約62,700ha)、罹災戸数約230万戸、罹災人口970万人に上った、と戦災復興誌は書いています。

 都市という都市は軒並み米軍の標的となり、空襲に遭わなかった都市が例外的と言えるほど、米軍の攻撃は徹底したものでした。

 大分市も米軍の空襲を逃れられるはずはありませんが、筆者にとって意外だったのは大分市が受けた空襲の回数でした。20回は地方都市としては際立つ多さです。

 なぜ、大分市は他都市以上に米軍の空爆の標的となったのでしょうか。

 ※総務省のホームページにある「大分市における戦災の状況」には、大分市は初空襲から終戦までに22回の空襲を受けたと書かれています。実は「建設省編 戦災復興誌第6巻」(都市編Ⅲ)にも空襲回数22回と書いてあります。

 とりあえず他都市との比較をするために「戦災復興誌第1巻」に記載された数字を使うことにします。

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7/28/2023

4年ぶりのお神輿登場 志手天神社

子ども神輿 4年ぶりに町内練る




 7月24日朝。志手天神社では夏祭りの準備が行われていました。この日の夕方、子ども神輿が4年ぶりに町内を練り歩くことになっています。

 祭りの準備は15日と24日の2回に分けて行われました。久しぶりの祭りということで、長年祭りの準備に携わってきた人でも少し勝手が違うといった感じもみられましたが、ほぼ予定通りに準備が完了。あとは神輿の本番を待つだけとなりました。

 これで心配なのは雨だけ。天気予報によると、午後から雨。夕方はそれなりに降るようで、雨量によっては25日に順延になるとのことでした。


 幸い5時以降はパラパラと降る程度で、子ども神輿は予定通りに実施することになりました。神輿に御神体を移し、神輿が拝殿を出たのは5時40分。境内で少し神輿を担ぐ練習をした後で、お宮を後にしました。


 例年なら、
町内のあちこちに設けられた休憩所で水分補給したり、休んだりしながら町内を一回りするのですが、今年の巡行は短縮版。いつもの半分で、練り歩く時間も午後6時から8時が予定されていました

 しかし、実際に町内を回り始めると、想定したよりもペースが速く、さささっと一巡りしてしまいそうな感じにみえました。例年と違う巡行路、初めてのルートということで、ここでも少し勝手が違ったようです。

 

 子どもたちに担がれて神輿が志手天神社前まで戻ってきたのが7時20分頃でした。境内で最後に神輿を回し、拝殿に神輿をあげて、御神体は戻されました。

 全部が終わったのは、まだ少し明るさが残る、もうちょっと練り歩いてもよさそうな、そんな時間帯でした。

 準備したり、後片付けしたり、裏方で祭りを支えている関係者は大変ですが、地域の恒例行事が復活することは嬉しいことです。来年はもっと多くの子どもたちが参加して、さらに賑やかなものになればと思います。
 

7/18/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験②

 

園田英雄さん 消えない戦争の記憶②

空から火が 学徒動員の工場直撃


 
 エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳の「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(みすず書房刊)から、園田英雄さん(故人)の証言を見ていきます。

 この本については「米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験①」(2023年6月21日公開)で紹介しています。1930年代から1950年代にかけて戦争や占領を経験した大分の人たちの話を、立命館アジア太平洋大学(APU)の教授だった筆者らが聞き取り、まとめた本です。

 単純に証言を羅列したものではなく、日米の資料などを駆使して体系的にまとめられた貴重な本だと思います。

 この本に登場する証言者の一人が園田英雄さんです。英雄さんは志手老人クラブ共和会が発行していた「ふるさとだより」の編集者で、「ふるさとだより」にも自らの戦争体験を書き、平和の尊さを説いていました。

 昭和20年3月 海軍航空廠で働き始める


 英雄さんの脳裏から生涯消し去ることができなかった一番の記憶といえば1945(昭和20)年4月21日の出来事だったのではないでしょうか。
 
 大分工業学校2年生だった英雄さんは、この年の3月10日から第十二海軍航空廠の工場で働き始めました。大分市中心部とは大分川を挟んだ対岸に海軍航空廠はありました(地図上)。 

 英雄さんは飛行機の木製品を作る工場で働きます。「金属が不足していたから木製で代用できる部品を作っていました。飛行機の背中にあるアンテナの柱が木になり、操縦席の前の計器盤、これもベニヤ板になります」。教授らの聞き取りに対して英雄さんは当時を振り返りました。

 戦線の拡大とともに男たちが次々に戦場に送り出され、労働力不足が深刻になってきます。男たちの穴を埋める手段の一つが学徒の動員でした。

 この本によると、1944(昭和19)年4月時点で第十二海軍航空廠には12,000人の工員がおり、このうち8,000人は学生だったといいます。男女の勤労学徒は1945(昭和20)年の初めには16,000人に上ったそうです。

 英雄さんも勤労学徒の一人となります。そして、英雄さんは工場勤務を始めてすぐに初めての空襲を体験することになります。

 右は大分合同新聞1945(昭和20)年3月19日付。「敵艦上機九州南部」「東部に波状来襲」という見出しがあります。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

7/03/2023

4年ぶりの夏祭り 志手天神社

チキリン、太鼓に子どもみこし

4年ぶり夏祭り準備 志手天神社



 
7月1日夕方の志手天神社。久しぶりに太鼓とチキリン(鉦)の音が聞こえてきました。子どもたちが集まって太鼓やチキリンをたたいています。この日、天神社の夏祭りに向けた練習が始まりした。

 志手天神社の夏祭りは7月24日と決まっています。祭り当日は夕方から夜にかけて、子ども神輿(みこし)がチキリンと太鼓のお囃子(はやし)とともに町内を練り歩きます。

 新型コロナウィルスの大流行があって、志手でもよそと同じように祭りなどの地域行事を取りやめてきました。

 夏祭りは2019(令和元)年7月以来になります。

 左の写真は4年前の夏祭り。お旅所で休憩中にチキリンをたたく子どもたちです。

 コロナの流行も完全に収まったとは言えませんので、念のために今年は神輿が練り歩く時間と距離を従来のほぼ半分に短縮するそうです。

 地域の行事はいったん途絶えると、復活させるのはなかなか難しいことです。季節の風物詩ともいえる行事がなくなるのは寂しいことなので、ともかくも夏祭りが再開することは嬉しい話です。

 子どもたちの太鼓の練習を始める2日前の6月29日。薄っすらとほこりをかぶっていた太鼓とチキリンが引き出されて、小さな拝殿に据えられました。

 太鼓は7台、チキリン(鉦)は5個。一緒にほこりをまとっていた扇風機も出され、それぞれきれいに拭かれて所定の場所へ。それが右の写真です。
 
 写真で五つ並んだチキリン一番右のものが古く、明治時代かそれ以降か、随分と昔のものだといいます。

 夏祭りの子ども神輿がいつごろから始まったのでしょう。はっきりしたことは分からないそうです。

 

 志手天神社についてはこのブログの「志手界隈案内➁志手天神社」(2021年7月31日公開)で紹介しています。


 【追記】

 最後にチキリンについて。大分市役所のホームページに「『チキリンばやし』の紹介」があります。そこから、チキリンについての解説を引用します。

 チキリンとは、大分市内のお祭りに伝わる「鉦」(かね)を中心としたお囃子のことです。「鉦」(かね)は、真鍮製で丸くて平たい底がある形をしています。お祭りには太鼓と鉦が古くからよく使われていますが、大分の祭りには特に「鉦」が中心になり、太鼓がこれにそって響きます。
 

 チキリンの音を出すのには、竹を削った柄に3~4センチ位の長さに切った鹿の角を直角に取り付けた、叩く道具「撞木」を使います。

 撞木を縦にもち、立てて「コンコン」と鉦の底を叩き、次に寝かせて輪の内側を「チキリン、チキリン」と三回叩きます。早いリズムを体で調子を取って叩く「コンコン、チキリン、チキリン、チキリン」の鉦の音は、ずいぶん昔から大分の祭りばやしに伝わっているもので、全国的にも珍しいお囃子になります。

 ※正確に言えば、「コンコン」「チキリン」という鉦の音を中心としたお囃子を「チキリン」というのですが、志手ではこの鉦を「チキリン」と通称しています。

 

6/27/2023

ドイツ大佐 離日前の墓参り 桜ケ丘聖地

離日前の墓参り、桜ヶ丘聖地

キーゼヴェッター大佐夫妻



 6月24日昼前に桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)を訪れると、二つの墓の前にドイツの国旗をあしらった献花がありました。

 ここに眠るのはユリウス・パウル・キーゼヴェッタ―とリヒャルト・クラインの2人のドイツ人。2人は第一次世界大戦で日本の捕虜となり、大分の収容所で病死しました。

 花を手向けたのは、駐日ドイツ大使館付武官のキーゼヴェッタ―大佐。ユリウス・パウル・キーゼヴェッタ―は大佐の曽祖父の弟になります。

 大佐が墓のことを知り、念願だった墓参を果たしたのは2019(令和元)年暮れでした。翌年、次の年と大佐はここを訪れています。そして、今回は大使館での任期を終えて日本を離れる前の最後の墓参となりました。


 ※1914(大正3)年7月に始まった大戦に、日本は日英同盟を理由に参戦。中国・青島にあったドイツの要塞などを攻め、
4700人を超えるドイツなどの将兵を捕虜にしました。捕虜は大分や福岡など全国12カ所に設けられた収容所に移送されました。のちに収容所は整理・再編されて6カ所に集約されます。

 ※クラインは1916(大正5)年4月に、キーゼヴェッタ―は1917(大正6)年5月にそれぞれ亡くなっています。


 100年の時を超えたキーゼヴェッタ―大佐の墓参については、このブログの「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)で少し詳しく紹介しています。

 キーゼヴェッタ―大佐の墓参で桜ケ丘聖地が随分と変わりました。管理する大分県が桜の老木や大きな樹を伐採したことで、鬱蒼とした小さな森のようだった墓所が、ござっぱりして明るい場所に変わりました。
 
 2020(令和2)年11月の大佐の墓参は駐日ドイツ大使館主催行事に位置付けられ、大分県はこれに合わせて桜(ジンダイアケボノ)の記念植樹を行いました。

 2021(令和3)年3月の大佐の墓参では「日独友好の桜」の案内板(写真左)の除幕式が行われました。

 地元住民も忘れかけていた、あるいは知らなかった「ドイツ人の墓」が、大佐とその友人たちによって再発見されたことで、桜ヶ丘聖地に変化が生じました。

 大佐らによって植えられた桜も順調に育っているようです。2021年3月に撮影した写真と6月24日の写真とを並べてみると、その違いがよく分かります。


 記念植樹の際、キーゼヴェッタ―大佐は「木を植えることは未来を信じることです」と言いましたが、植えられた2本の木が過去を現在、さらに未来につないでいると感じます。
 
 ドイツ大使館主催の慰霊行事と大分県が主催した記念植樹の様子は志手橘会の動画「試作版・日本とドイツを結ぶ墓参・慰霊・記念植樹」で見ることができます。


 

メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

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