シベリア出兵、ユフタの戦いとは?③
前回は大分連隊の田中支隊(支隊長・田中勝輔少佐)がユフタ付近に至ったところまで書きました。
田中支隊を構成する大分連隊第三大隊の第十、第十一両中隊は沿海州のウラジオストクに近い場所(ニコリスクとスパスカヤ)に駐留していました。
それが内陸部の黒龍(アムール)州へと出動命令を受けたのが1919(大正8)年2月20日。黒龍州では日本が「過激派」と呼ぶ武装勢力(パルチザン)と、日本の現地駐留軍との間で緊張が高まっており、過激派掃討のための援軍として田中支隊が召集されたのでした。
ウラジオストクから遥か400里(1600キロ)というユフタ付近まで遠征した田中支隊の足取りをたどろうと、大分連隊と第三大隊の陣中日誌、当時の大分連隊長・田所大佐の著作を見てきました。すると、微妙なズレに気づき、それを書いていくうちに前回は長々とした文章になってしまいました。
今回は、まずは第三大隊の陣中日誌で田中支隊の戦闘の様子を見てみたいと思います。その戦闘の様子は田所大佐の講話や、その講話を基にした浪曲「嗚呼田中支隊」によって脚色され、世間に広く知られるようになりました。
ユフタの戦いで命を落とした将兵は大分市志手の陸軍墓地(現桜ケ丘聖地)に葬られ、命日にあたる2月26日に毎年慰霊祭が行われていました。過去の慰霊祭の様子は新聞記事でもうかがうことができます。
慰霊祭の記事が掲載された1920年(大正9)年から1945(昭和20)年までの新聞を見ると、戦争というものが今よりももっと庶民の身近にあったことも分かります。
今回はユフタの戦闘について書き、新聞に見るユフタ慰霊祭は次回以降に改めて書きたいと思います。
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