10/12/2021

志手界隈案内➃桜ヶ丘聖地その3

シベリア出兵、ユフタの戦いとは?➁ 


 さて、前回は、シベリア内陸部の黒龍(アムール)州で、日本が「過激派」と呼ぶ武装勢力(パルチザン)と、日本の現地駐留軍との緊張が高まり、過激派制圧のため、隣の沿海州に駐屯する大分(第七十二)連隊の田中支隊にも出動命令が出たところまで書きました。



 前回の「シベリア出兵、ユフタの戦いとは?①」で最後に使ったシベリアの地図をもう一度入れてみました。

 田中勝輔少佐を長とする田中支隊は大分連隊第三大隊の第十、第十一両中隊と機関銃隊で編成されました。両中隊は当時、沿海州のニコリスクとスパスカヤに駐留し、第三大隊長の田中少佐は大隊本部があるハバロフスクにいたようです。

 田中支隊はハバロフスクで合流し、シベリア鉄道を西へ、内陸深くへと進み、アレクセーフスクに至ります。そして、さらに進んだユフタ付近の戦闘で田中支隊は全滅したのです。

 ユフタ付近の戦闘が行われたのが2月25~26日。田中支隊が出動命令を受けた2月20日からわずか1週間後の出来事でした。その足取りを大分連隊と大分連隊第三大隊の二つの陣中日誌に沿ってたどってみます。

 二つの陣中日誌は国立公文書館アジア歴史資料センターのホームページで検索、閲覧できます。
 
 ユフタの戦いの関連資料は、大分連隊長だった田所成恭大佐による「田所大佐講話筆記 田中支隊の戦闘真相」(1920<大正9>年)「弔合戦」(1921<大正10>年)「田中支隊戦闘記」(出版年不明)が大分県立図書館にあります。

 新しいものでは「シベリア出兵『ユフタの墓』大分聯隊田中支隊全滅の真相」(柴田秀吉著、2005・平成17年)が同図書館にあります。ただ、田中支隊で生き残った山崎千代五郎上等兵が書いた「血染の雪」はないようです。

 こうした著作も参考にしながら、田中支隊の1週間の足取りを追ってみたいと思います。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)


 二つの日誌で食い違う日付 遅れたハバロフスク着


 まずは大分連隊の陣中日誌を見てみます。

 2月22日 午前9時第十一中隊長より電報あり。「22日午前5時30分 全員無事 哈府(ハバロフスク)着 田中少佐の指揮下に入る」

 22日 午後7時第三大隊長より着電あり。「第十、第十一中隊は22日午前6時哈府に着し、田中少佐 両中隊及び機関銃隊を指揮し、本22日午前10時哈府を出発す」

 連隊の陣中日誌にはこうありますが、第三大隊の陣中日誌を読むと少しズレがあります。

 2月21日 第十、第十一中隊は本日(21日)午後6時到着の予定なるをもって大隊本部及び機関銃隊は糧食20日分を携行し、午後2時出発、哈府(ハバロフスク)停車場に向かう。第十、第十一中隊の列車は予定の通り到着せず。停車場において夜を徹す。

 22日 第十、第十一中隊の列車は午後8時哈府着 同時に大隊本部、機関銃隊も乗車し、田中支隊となり、まずは「エカテリナスラフカ」に向かい前進すべく、列車の出発を待つ

 23日 午前1時哈府出発。午後7時ザビタヤを経てエカテリナスラフカに到着。敵について得るところなく、さらにポチカレオに向かい前進す。午後11時師団参謀長より電報あり(以下略)
 
大分連隊の日誌と第三大隊の日誌には日付にずれがあります。大分連隊の日誌は第十、第十一中隊がハバロフスクに着いたのが22日午前6時。田中少佐らと合流し、田中支隊としてハバロフスクを出発したのが22日午前10時です。

 これに対し、第三大隊の日誌では第十、第十一中隊のハバロフスク着は22日午後8時。田中支隊となってハバロフスクを出発したのが23日午前1時で、半日以上違います。

 この違いはなんなのか分かりません。ただ、第十、第十一中隊のハバロフスク到着は当初予定からみると大幅に遅れていたのは事実のようです。

 大分連隊の20日付日誌には、田中支隊は21日午後4時にハバロフスクを出発予定と第三大隊から電報があった、と書いてあります。続けて第三大隊長宛てに「第十、第十一中隊は本日(20日)午前11時当地(ニコリスク)を出発」と電報を打ったと記しています。

 田中支隊の当初の予定がハバロフスク発21日午後4時だとすると、大分連隊の日誌でも18時間の遅れが生じていたことになります。第三大隊の日誌を見ると、第十、第十一中隊の到着を待って駅で徹夜をしたり、列車到着後も出発までの待ち時間があったりで、思うに任せぬ移動が部隊に焦りを生じさせることになった、ということはなかったでしょうか?

 敵を探して駅から駅へ 24日夜はユフタに? 

 
 細かいようですが、いつ、どこを出発し、いつ着いたのかは重要に思えます。予定通りか否かで、その後の行動は変わってきそうです。




 さて、上の地図は1918(大正7)年11月の第十二師団の要員配備図に田中支隊の動きを書き入れたものです。日時は1919(大正8)年2月の第三大隊の陣中日誌を基にしています。

 23日午後7時にエカテリナスラフカに着いた田中支隊はさらに西のポチカレオを目指します。

 24日付の日誌に、午前2時に師団長と参謀長から電報を受けたことが記されています。師団長からは①貴官(田中支隊長)はべロノーカ(?)駅に下車して山田支隊と最も有利に策応し得るごとく動作すべし➁貴官は山田支隊の指揮に属す―との指示がありました。

 これに対し、田中支隊は、24日午前2時ポチカレオ着、ポチカレオ周辺の敵情偵察の上で、払暁同地を出発。ベロノーカ付近に前進し、山田支隊と策応せんとす、と返電しています。

 ちなみにベロノーカとは要員配備図にある「ベロノオガ」(黄色の四角で囲んだ地点)でしょうか?いったんアレクセーフスク(亜市)手前での下車を命じられた田中支隊でしたが、師団長、参謀長との電報に続いて野戦交通部からの電報が来ます。

 日誌によると、その内容は、数百名の敵が22日末にモスコノチノ(アレキセーフ南20キロ?)に集合し、その一部は鉄橋下流に―などと情勢報告をしたうえで、ベロノーカ駅よりもアレクセーフスク駅から西に敵を追った方がいいのではとの意見を付け加えたものだったようです。

 田中支隊はこの意見に従ってベロノーカ駅では降りず、アレクセーフスク(亜市)に向かい、24日午前10時に到着。そこで「敵は『スコラムスコエ』方面に集中せるもののごとし」との情報を得た、と日誌に書かれています。

 そこで、田中支隊は「敵の退路を遮断の目的をもって同夜(24日夜)チエノボリ付近の二十一番退避線で下車す」と日誌にあります。ここはユフタ駅からさらに進んだチスムスコエ村にあると、田所成恭著「田中支隊の戦闘真相」にあります。

 「敵」情報の出所は誰? 亜市着は午前?午後?


 第三大隊の陣中日誌では「情報を得た」と簡単に書いてありますが、この情報源は誰なのでしょうか?

 大分連隊長の田所大佐の「田中支隊の戦闘真相」によると、情報源は山田少将です。同書によると、田中支隊が2月24日午後亜市に着いた、ちょうどその時山田少将も亜市に到着し、田中支隊に以下の意味の命令を与えた。

 「敵の主力はスクラムスコエ村付近にいるらしい。(山田少将の)旅団の主力はあらゆる道路を利用し、南方からこれを追窮するから、貴官(田中少佐)は汽車のまま北進して敵の向こう側に出て、その道を押さえよ。そして挟み撃ちにして殲滅(せんめつ)しよう」

 そこで、田中少佐は列車のまま北進して25日早朝、亜市北方8、9里のチスムスコエ村にある21番退避線に着いて、ここで下車行動の準備に着手した。



 
 その場面を再現したのが、上の浪曲台本「嗚呼田中支隊」(河原治作著、宮崎書店、1920年発行)です。

 著者の説明によると、武士道鼓吹・民衆文芸宣伝の材料として田所大佐の名著「田中支隊の戦闘真相」を浪(花)節として出したいという、浪界の巨人、2代目桃中軒雲右衛門氏の希望を受けて作ったものだという。

 2005(平成17)年に発行された「シベリア出兵『ユフタの墓』大分聯隊田中支隊全滅の真相」(柴田秀吉著)によると、杏子は当時の大分県立病院耳鼻咽喉科部長河原治作のペンネームで、台本は1920年7月5日に宮崎書店から金50銭で発売され、4日後の7月9日には再販されたそうですから、発売当初から話題になっていたのでしょう。

 総指揮官の命令伝達は24日?25日?


 ちなみに柴田氏の著作「ユフタの墓」では、「25日午前8時、田中支隊はユフタ駅を経て、チスウムスクの21番退避線で下車した」とあり、「ここで総指揮官の山田から、『敵主力数百はスコラムスコエ村にいるらしいので攻撃せよ』という命令を受け取った」と経過を書いています。

 
 第三大隊の日誌、田所講話、柴田氏の著作には微妙なズレがあります。日誌では24日午前10時に亜市に着き、24日夜に21番退避線に至ったとありますが、田所講話では亜市到着が24日午後、21番退避線着は25日早朝です。

 日誌は亜市で敵の情報を得たとしか書いていませんが、田所講話は山田少将から直接命令を受けたと説明し、柴田氏の著書では少将の命令を受け取ったのは25日朝になります。

 田所講話のように直接上官から命令を受けたとすれば、そう日誌に書くのが自然でしょう。なぜ、日誌は「午前10時亜市着左の情報を得たり。敵『スコラムスコエ』方面に集中せるものの如し」とあいまいに書いたのでしょう。

 午前10時も書き間違いでしょうか?100年以上を経て日誌を読む人間に分かるはずもないですが、どうも気になります。

 自分たちが書いた日誌が保存され、遠い将来、興味を持って読む人間が出てくるだろうとは当時者は想像もしてなかったかもしれません。亜市到着が24日午前だろうが、午後だろうが、どっちでもいいことかもしれません。ただ、どうせ調べるなら、できるだけ正確な事実が知りたいと思うのです。

 事実は正確な記録があってこそ、その再現が可能となります。昨今、記録を大切しないような風潮があるように言われますが、それで大丈夫なのかと心配になります。

 さて、今回も話が少々長くなってしまいました。ユフタの戦いはさらに次回へと続けていきます。
 


  
 
 

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