6/27/2023

ドイツ大佐 離日前の墓参り 桜ケ丘聖地

離日前の墓参り、桜ヶ丘聖地

キーゼヴェッター大佐夫妻



 6月24日昼前に桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)を訪れると、二つの墓の前にドイツの国旗をあしらった献花がありました。

 ここに眠るのはユリウス・パウル・キーゼヴェッタ―とリヒャルト・クラインの2人のドイツ人。2人は第一次世界大戦で日本の捕虜となり、大分の収容所で病死しました。

 花を手向けたのは、駐日ドイツ大使館付武官のキーゼヴェッタ―大佐。ユリウス・パウル・キーゼヴェッタ―は大佐の曽祖父の弟になります。

 大佐が墓のことを知り、念願だった墓参を果たしたのは2019(令和元)年暮れでした。翌年、次の年と大佐はここを訪れています。そして、今回は大使館での任期を終えて日本を離れる前の最後の墓参となりました。


 ※1914(大正3)年7月に始まった大戦に、日本は日英同盟を理由に参戦。中国・青島にあったドイツの要塞などを攻め、
4700人を超えるドイツなどの将兵を捕虜にしました。捕虜は大分や福岡など全国12カ所に設けられた収容所に移送されました。のちに収容所は整理・再編されて6カ所に集約されます。

 ※クラインは1916(大正5)年4月に、キーゼヴェッタ―は1917(大正6)年5月にそれぞれ亡くなっています。


 100年の時を超えたキーゼヴェッタ―大佐の墓参については、このブログの「志手界隈案内③桜ケ丘聖地1」(2021年9月16日公開)で少し詳しく紹介しています。

 キーゼヴェッタ―大佐の墓参で桜ケ丘聖地が随分と変わりました。管理する大分県が桜の老木や大きな樹を伐採したことで、鬱蒼とした小さな森のようだった墓所が、ござっぱりして明るい場所に変わりました。
 
 2020(令和2)年11月の大佐の墓参は駐日ドイツ大使館主催行事に位置付けられ、大分県はこれに合わせて桜(ジンダイアケボノ)の記念植樹を行いました。

 2021(令和3)年3月の大佐の墓参では「日独友好の桜」の案内板(写真左)の除幕式が行われました。

 地元住民も忘れかけていた、あるいは知らなかった「ドイツ人の墓」が、大佐とその友人たちによって再発見されたことで、桜ヶ丘聖地に変化が生じました。

 大佐らによって植えられた桜も順調に育っているようです。2021年3月に撮影した写真と6月24日の写真とを並べてみると、その違いがよく分かります。


 記念植樹の際、キーゼヴェッタ―大佐は「木を植えることは未来を信じることです」と言いましたが、植えられた2本の木が過去を現在、さらに未来につないでいると感じます。
 
 ドイツ大使館主催の慰霊行事と大分県が主催した記念植樹の様子は志手橘会の動画「試作版・日本とドイツを結ぶ墓参・慰霊・記念植樹」で見ることができます。


 

6/21/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験①

 園田英雄さん 消えない戦争の記憶①

「戦時下、占領下の日常」より



 2022(令和4)年9月に出版されていたとは。大分市内の書店で偶々見かけるまで半年以上も知りませんでした。それが上の写真の書籍。「戦時下、占領下の日常━大分オーラルヒストリー」(エドガー・A・ポーター、ランイン・ポーター著、菅田絢子訳、みすず書房発行)です。

 原著は「Japanese Reflections on World WarⅡ and The American Occupation」です。大分県立図書館に1冊あります。2017(平成29)年に出版された、この本のことは園田英雄さん(故人)の家族の方に教えてもらいました。

 園田英雄さんは「志手老人クラブ共和会」が発行していた「ふるさとだより」の編集者でした。

 ※「ふるさとだより」については、このブログで何回も題材に使わせてもらっています。例えば「ふるさとだよりで知る志手のトリビア①志手左官の由来は?」などです。


 この本に園田英雄さんが幼いころに描いた絵が使われているというので、この本が図書館にあることを確認して、見に行きました。それがこの本との出会いだったのですが、英語で書かれていますので、読もうという気になりません。

 この本の著者は立命館アジア太平洋大学(APU)教授でしたので、APU関係者が翻訳本を出してくれればいいがなどと漠然と思っていました。

 日本語で読みたいと思っていた、その本が書店の棚にあったので、すぐに購入しました。翻訳本でも園田英雄さんの絵がありました。

 その絵とともに園田英雄さんの言葉があります。ちょっと長いですが、そのまま引用します。

 私(園田英雄)が生まれたのは1931(昭和6)年で、その年に満州事変が起こっています。小学校1年の1937(昭和12)年には日中戦争が始まり、小学校5年の1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まった。そして中学2年の1945(昭和20)年に太平洋戦争が終わりました。私の青年期が戦後復興の時代だとすれば、幼少年期の15年は戦争の時代でした。
(「戦時下、占領下の日常」第3章「大分の男も戦争へ」より)


 そして、書類の中から大きな絵を取り出してポーター教授らに見せた。それが小学校3年の時に描いたという上の写真の絵です。日中戦争で日本の戦闘機が中国機を撃墜する様子が描かれています。

 園田英雄さんの世代は「戦時下」であることが日常であり、「軍国少年」であることが普通だったといえます。そして、戦後の「占領下」で、それまでと一八〇度変わった日常を体験した特異な世代ともいえます。

 この本の「はしがき」に「1930年代から50年代初めにかけて日本で戦争や占領を経験した人々の個人的な物語は時の経過とともに間もなく消えてしまうだろう。筆者たちはこのことを念頭に、できるだけ多くの口述による戦争の記憶を聞き書きしようと思い立った」と執筆の動機が述べられています。

 その結果、「インタビュー相手のリストは雪だるま式に増えていき、40人以上に上った」そうです。

 こうしたインタビューと資料の収集によって、本書では戦争期と米軍占領期の大分の暮らしや庶民の思いが丁寧に描かれていると思います。
 
 この本によって残された園田英雄さんの記憶をたどる前に、本書の構成について簡単に見ておきたいと思います。


 第1章の「すごい、ただもうそれだけ」という見出しは、
原著ではSomething Big Was Going to Happen(Saiki Goes to War Footing)となっているようです。「何かどでかいことが起きている。佐伯が戦争に進む足場、拠点になった」。ざっくり訳すとこんな感じでしょうか。

 日本が米ハワイの真珠湾攻撃の準備を進める際に大分県佐伯市が重要な拠点の一つとなったことを書いています。大分の人間にとっては原題の方が分かりやすいかもしれません。

 ※この本に佐伯市平和祈念館やわらぎの裏手にある石碑「連合艦隊機動部隊真珠湾攻撃発進之地」の写真もあります

  園田英雄さんの証言は「第3章 大分の男も戦争へ」「第6章 空から火が」「第9章 大きな代償」「第14章 負けたんじゃない、戦争が終わっただけ」「第15章 空腹、混乱、そして恐怖」「第16章 悪魔が上陸してきた」「第18章 占領が確立する」に出てきます。

 次回は園田さんの証言を見てみます。



 

6/17/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑥遊歩公園2

遊歩公園改造構想は立ち消えに

道路か公園か 軍配は道路に⁉

 

 「アイデア市長」と呼ばれた上田保氏(故人)の業績をたどって遊歩公園を訪ねました。前回の「大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑤遊歩公園1」では、上田さんが設置した彫刻について見てみました(左のイラスト参照)。

 今回は遊歩公園の大改造計画について書こうと思います。結論を言えば遊歩公園を大きく変えようという動きが一時盛り上がったようですが、そのうち立ち消えになりました。

 1945(昭和20)年の敗戦からの復興を進めた上田さんは、焼け野原となった大分市中心部に色んな公園を造りました。その公園が木下敬之助市長の時代に一新されました。

 木下市長といえば、このブログの「大分まち歩き/アイデア市長の遺産③高崎山Ⅲ 存廃論議」に登場しています。この時は、木下市長は一時「高崎山自然動物園」の廃園も検討したという新聞記事を紹介しました。

 ウィキペディアをみると、木下氏は1991(平成3)年から2003(平成15)年まで3期12年市長を務めています。木下市政は敗戦・復興から半世紀の節目を迎える中で、新たな時代(21世紀)を見据えて、色んなものが見直される時期だったともいえそうです。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

6/09/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産⑤遊歩公園1

 「大分の歴史」語る彫刻 遊歩公園 



 「アイデア市長の遺産」と題して、1947(昭和22)年から1963(昭和38)年まで4期16年にわたって大分市長を務めた上田保氏(故人)の遺したものを見てきました。

  野生のサルを餌付けして観光の目玉にする。上田さんのアイデアは「高崎山自然動物園」となって多くの観光客を集めました。高崎山のサルと上田さんは一躍有名になり、「アイデア市長」として名を馳せました。

 上田さんにはもう一つの異名がありました。それが「公園市長」です。米軍の空襲で焼け野原となった大分市中心部の復興計画に沿いながら、上田さんはユニークな公園を生み出しました。それが若竹公園、若草公園、ジャングル公園で、上野の墓地公園もそうです。

 ジャングル公園については「大分まち歩き④住居表示番外編④都町Ⅲ」で紹介しています。

 上田さんが造った代表的な公園にはもう一つ「遊歩公園」があります。どんな公園なのか。冒頭の短い動画にまとめてみました。

 上田さんにとって、遊歩公園に彫刻を据えることは晩年の大きな楽しみだったのではないかと思います。左のイラストにある彫刻はすべて上田さんが関わっています。

 「西洋音楽発祥記念碑」「西洋医術発祥記念像」「西洋劇発祥記念碑」「伊東ドン・マンショ像」(天正遣欧少年使節)…

 彫刻をながめ、横にある案内板を読むと、「西洋」と出会い、それを受け入れ、文化や貿易の先進地となった郷土の歴史を語る上田さんの顔が浮かんできそうです。

 上田さんは自分たちが生まれ育った大分にもっと誇りをもってほしいと思ったのかもしれません。




  上田さんは市長退任後、高崎山自然動物園の真ん前に「大分生態水族館『マリーンパレス』」を開館します。この時も上田さんのアイデアマンぶりが発揮されます。

 世界初の「回遊水槽」を造りました。ドーナッツ型の水槽の中に水の流れを作り、それに乗って魚が泳ぐ。斬新な仕掛けでした。

 マリーンパレスの開館前後のことは「大分まち歩き/アイデア市長の遺産⓵高崎山 細る客足」で少し紹介しています。

 このユニークな水族館も人気を呼び、収益を上げます。社長の上田さんは儲けの一部を地域に還元するという意味でしょう、毎年のように彫刻を大分市に寄贈しました。

 上のイラストの「健ちゃん」は1969(昭和44)年設置でマリーンパレス創業5周年を記念して寄贈したものです。

 続いて遊歩公園横の県庁前広場にある「西洋音楽発祥記念碑」は1971(昭和46)年でマリーンパレス創業7周年、「西洋医術発祥記念像」が1972(昭和47)年の創業8周年、「育児院と牛乳の記念碑」が1973(昭和48)年の創業9周年、「西洋劇発祥記念碑」が1974(昭和49)年の創業10周年、「伊東ドン・マンショ像」が1975(昭和50)年の創業11周年と次々に寄贈されています。

 中世の府内にキリスト教の宣教師とともに入ってきた西洋文化と当時の人々とのかかわりがテーマとなり、さまざまな「大分の歴史」が分かる彫刻の散歩道となっています。

 散歩しながら歴史も学べるユニークな公園なのですが、あまり歩いている人を見かけません。
 

 両側に2車線の道路が走り、その間の広い中央分離帯が遊歩公園になっています。その中央分離帯も一本につながっていればまだいいのですが、あちこち道路で分断されています(上のイラストを参照ください)。

 公園ができた1950(昭和25)年頃とはクルマの往来が天と地ほど違います。クルマは急増し、交通量は増し、道を横断するのも容易ではなくなりました。利用者が減るのも自然なことで、このままではもったいないと活性化策が探られることになります。それが26年前のことでした。

 26年前の遊歩公園改造の動きは次回に紹介します。


メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議? 駄原総合運動公園の落羽松   「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。  翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑...