10/28/2022

志手ポンカン①志手ポンカンは日本一

 志手ポンカンは日本一⁉

 志手ポンカンを絶賛した著名人がいたそうです。

 その人とはキヤノン創業者で、大分県蒲江町(現佐伯市蒲江)出身の御手洗毅氏。同氏が大分市の大分文化会館で大分合同新聞の記者と食事をした際、デザートに出たポンカンが美味しいと言い、産地を尋ねた。
 そして、志手産であることを知り「大分県の一村一品で一番うまいのは志手のポンカンである」と言った。それが新聞記事となって志手ポンカンの評価を上げ、日本一とも評されるようになった。

 そんな話があるようです。「大分キヤノン」が設立されたのが1982(昭和57)年と言いますから、御手洗氏の来県と記者との懇談はその前後ではないか。そう考えて新聞記事を探してみましたが、残念ながら見つけられませんでした。

 御手洗氏の逸話があったのは、志手地区の老人会が発行していた「ふるさとだより」に掲載された「日本一うまい志手ポンカンの話」の中です。まずはそれを紹介しましょう。

 
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10/20/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記⑥ミカンは神代の昔から?

 ミカンは神代の昔から?

 
 
 志手に残る農村風景を紹介するためにミカンの話を書き始めましたが、書き進めるうちに主客が入れ代わってしまいました
志手の農村風景はどこかに引っ込んでしまい、ミカンだけが表舞台に立っている感じです。

 筆者が当初考えていた展開とは違ってきましたが、志手ポンカンにつなげるまでミカンの話を続けたいと思います。

 さて、大分ミカンの先駆者として岩田丑太郎を紹介しましたが、大分県内では岩田翁の取り組みの遥か以前からミカン栽培が行われていたということです。

 では、始まりはいつ頃なのか。「大分みかんのあゆみ」と題した年表があります。その最初に「神武天皇 皇登山(水晶山)に登らせ給い、土民ミカン献上する」とあります。

 

 水晶山というのは大分県津久見市にあった水晶山でしょうか。とすれば大分では「神代の昔」からミカンが栽培されていたことになります。にわかに信じがたい話ですが、当時の資料でも残っているのでしょうか。

 もっと現実的なものとして紹介されているのが「尾崎先祖木」です。私が年表に線を引きました。保元2年(西暦1159年)に又四郎蔵富住、松川より柑橘樹移植する。これが尾崎先祖木と呼ばれるもので、国の天然記念物に指定されているのだとか。ただ、このミカンは現在の私たちがよく食べている温州ミカンとはちょっと違うようです

(「大分みかんのあゆみ」には「寛永18年(1641)蔵富、茶屋本に温州を植える」とあります)。

 ともかくも随分昔から大分県内ではミカン栽培が行われてきたことは間違いないようです。ただ、ミカン生産が激増するのは太平洋戦争後の昭和30~40年代です。その結果、生産過剰による価格の暴落が起き、減反(生産調整)政策が実施されることになります。

 そのあたりのことを昭和46(1971)年に発行された冊子「大分みかん」を基に振り返ってみようと思います。ちなみに年表の「大分みかんのあゆみ」はこの冊子にあります。

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10/15/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記⑤ハイキングコースで売り出す

ミカン山でハイキングはいかが? 

 
 「大分ミカンの先駆者」である岩田丑太郎の頌徳碑が昭和31(1956)年に建てられたことは前回紹介しました。この年の大分市報にはミカンに関する話題がもう一つありました。こちらも書いておきたいと思います。
 
 右の写真は
昭和31(1956)年9月17日付の大分市報245号です。「蜜柑山は大豊作」と主見出しがあり、その横に「家族で楽しめるハイキングコース」とあります。

 市報に掲載された写真に白い線を引いたのは私です。これがミカン山のハイキングコースでしょう。岩田丑太郎の頌徳碑が建つ丸尾台地から志手、椎迫へとつながっています。

 当時の大分市のミカン生産の中心地です。「イケイケどんどん」といった感じで、ミカン栽培は拡大の一途をたどっていた時期のようです。大分ミカンの黄金期ともいえます。その勢いに乗ってミカン山をハイキングコースとして売り出し、農業と観光の振興の一石二鳥を狙ってはどうか。そんなアイデアを思い付いた人が市役所にいたようです

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10/06/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記➃先駆者・岩田丑太郎の碑

 高台から街を眺める岩田翁の頌徳碑


 
「大分ミカンの創始者」である岩田丑太郎についても一言触れておく必要があるでしょう。大分県立図書館で「大分今昔」とは別の資料を見つけました。それが右の写真です。

 大分市西部地区の史跡紹介マップです。東は大分市中心部に近い春日神社や西新町天満社から、西は別府市寄りの高崎山周辺まで22の史跡を紹介しています。その中に3人の先達が含まれています。それが右の表紙の3人。右端が岩田丑太郎です。

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10/02/2022

志手に残る農村風景 ミカン盛衰記③大分連隊がきっかけに

  なぜ、ミカン?「大分今昔」に解説が

 
 
 大分合同新聞社から「大分今昔」という本が出ています。
 昭和39(1964)年に初版発行、昭和58(1983)年に再版が出ています。大分県立図書館には再版本があります。左の写真がその中表紙と目次です。
 目次を見ると「昭和通りかいわい」から「桃園かいわい」まで大分市内の25の“町”が出ています。この中の15番目の「王子町かいわい」に志手でミカン栽培が始まった経緯が出てきます。

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メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議? 駄原総合運動公園の落羽松   「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。  翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑...