志手の毘沙門さま 生年月日は?
これからお堂にまつられている毘沙門天像の“御開帳”が行われるところでした。
左や下の写真のように、普段は緞子(どんす)や御簾(みす)が掛けられ「毘沙門さま」を直接拝むことはできません。
目的は「毘沙門天像」が造立された時期を調べることでした。つまり「志手の毘沙門さまの生年月日」を突き止めようというわけです。
出典欄にある「豊府聞書」「雉城雑誌」「豊府紀聞」は、大雑把に言えば江戸時代に書かれた大分の郷土誌です。
本ブログ「大分『志手』散歩」では「志手界隈案内➁志手天神社」で少し紹介しています。
「毘沙門堂縁記」は、安政年間に志手の園田さんたちが、かつて因縁があった専想寺を訪ね、毘沙門天像の由来などを聞き記したものです。
さまざまな資料の中で今回注目したのが、1940(昭和15)年6月に豊州新報に連載された郷土史家十時英司氏の「大分市郊外 志手の毘沙門堂物語」です。
毘沙門天像が浮き彫りにされた板石の側面に「年月日」があるのを十時氏は見つけました。
「○○四年五月二十四日」。元号の〇〇の部分が破損しており、なんとか読もうと苦心したが、断定するには至らなかったと十時氏は言います。
そう断ったうえで元号は「正平」ではないかと推理しています。正平は南北朝時代に南朝が採用した元号で1346年から1370年まで続いたのだそうです。もし正平年間に造られた石仏だとすれば七百年近い時を経た仏像ということになります。
十時説は正しいのでしょうか?志手橘会では大分市歴史資料館の植木和美館長の力を借りて、志手の毘沙門天像の誕生にまつわる謎解きに挑むことにしました。
以下は当日の調査の様子を写真で紹介します。