2/22/2024

毘沙門堂今昔その1 由来を探る 志手橘会の活動

志手の毘沙門さま 生年月日は?



 2024(令和6)年2月15日。志手の毘沙門堂に行ってみると、お堂の扉が開け放たれ、人が集まっていました。

 これからお堂にまつられている毘沙門天像の“御開帳”が行われるところでした。

 左や下の写真のように、普段は緞子(どんす)や御簾(みす)が掛けられ「毘沙門さま」を直接拝むことはできません。


 それを開けてみようと企画したのは、志手歴史再発見クラブ橘会(園田友三会長、略称「志手橘会」)です。

 目的は「毘沙門天像」が造立された時期を調べることでした。つまり「志手の毘沙門さまの生年月日」を突き止めようというわけです。

 志手の毘沙門さまについてはさまざまな古文書に記述があります。左は志手橘会がまとめた資料です。

 出典欄にある「豊府聞書」「雉城雑誌」「豊府紀聞」は、大雑把に言えば江戸時代に書かれた大分の郷土誌です。

 本ブログ「大分『志手』散歩」では「志手界隈案内➁志手天神社」で少し紹介しています。
 
 「毘沙門堂縁記」は、安政年間に志手の園田さんたちが、かつて因縁があった専想寺を訪ね、毘沙門天像の由来などを聞き記したものです。

 さまざまな資料の中で今回注目したのが、1940(昭和15)年6月に豊州新報に連載された郷土史家十時英司氏の「大分市郊外 志手の毘沙門堂物語」です。

 4回にわたる連載の1回目に十時氏が毘沙門天像を調べた様子が書かれています。

 毘沙門天像が浮き彫りにされた板石の側面に「年月日」があるのを十時氏は見つけました。

 「○○四年五月二十四日」。元号の〇〇の部分が破損しており、なんとか読もうと苦心したが、断定するには至らなかったと十時氏は言います。

 そう断ったうえで元号は「正平」ではないかと推理しています。正平は南北朝時代に南朝が採用した元号で1346年から1370年まで続いたのだそうです。もし正平年間に造られた石仏だとすれば七百年近い時を経た仏像ということになります。

 十時説は正しいのでしょうか?志手橘会では大分市歴史資料館の植木和美館長の力を借りて、志手の毘沙門天像の誕生にまつわる謎解きに挑むことにしました。

 以下は当日の調査の様子を写真で紹介します。


 興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい

2/13/2024

毘沙門堂今昔 予告編

きれいになった毘沙門堂‼

 
 「毘沙門堂」と呼ばれるのは、そこに毘沙門天像がまつられているからです。

 住吉川(毘沙門川)沿いに志手の毘沙門堂があります。最近、ここに立ち寄る人が少し増えている。そんな話を聞いたことがあります。

 なぜ訪れる人が増えているのか。大きな理由は、毘沙門堂がすっきり、明るくなったからだと思われます。

 建物が新しくなったわけではありません。1970(昭和45)年に建てられたという平屋の建物は、半世紀を経て、ややくたびれ気味にも見えます。

 お堂は変わらないのですが、その周りがすっきりしました。横に縦にと伸びていた樹々は伐採されたり、小さく刈り込まれたりしました。

 夏場などはお堂の周囲に雑草が生い茂り、鬱蒼とした感じで、建物に近寄るのをはばかられる雰囲気がありました。


 それがここ数年で変わってきました。志手町内会をはじめとした地域住民による環境整備が行われてきたからです。

 上の写真は志手の園田さんたちによる作業の一コマ。志手の園田さんについては本ブログ「大分『志手』散歩」の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁志手と言えば園田さん そのルーツは?」をご覧ください。 
 
 毘沙門堂をきれいにしようとしているのは、昔からの住民である「志手の園田さん」ばかりではありません。園田さん以外にも毎日のように立ち寄って草取りなどをしている人なども見かけます。


 そんなこんなですっきりして、足を向ける人も増えてきたという志手の毘沙門堂の「今昔」を少し紹介してみようかと思っています。
 

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