4/24/2023

大分まち歩き/アイデア市長の遺産⓵高崎山 細る客足

 地震、コロナで細る客足 高崎山

上田さん 今ならどうする?

 

 「大分『志手』散歩」というブログのタイトルからの脱線が続いています。前回までの大分市中心部から、今回は「高崎山自然動物園」に足を延ばしてみました(写真上)。高崎山といえばサル。サルの餌付けで一躍有名になり、大分を代表する観光地の一つとなりました。

 高崎山自然動物園は1953(昭和28)年3月に日本初の野猿公園として開園し、今年70周年を迎えたのだそうです。
 70周年記念誌が作られ、図書館などに寄贈されたというので大分市民図書館で借りてみました(左の写真)。

 ページをめくって、最初に目に飛び込んでくるのが「B群第18代第1位」の「ヤケイ」の写真です。「近年話題になったサルたち」とのタイトルで、「ヤケイ」は「高崎山史上最恐女子」と紹介されています。ヤケイは2021(令和3)年7月30日、メスザルで初めて「ボス」の座に就いたのだそうです。
 
 「ヤケイ」に続いて登場するのが「奇跡の母ザル」「マツバ」。自分の子に加えて、母親から離れてしまった子ザルの面倒も見るようになった。これは「高崎山の70年の歴史の中でも珍しい」と書いてあります。
 ヤケイ、マツバに続いて紹介されているのが、A群、B群、C群の歴代ボスザルです。
 

 入園者数(ヒト)とサルの推移をグラフにすると

 筆者が注目したのは70年記念誌にある二つのデータです。一つは高崎山でサルの餌付けを始めてからのサルの個体数の推移、もう一つは高崎山自然動物園の開園以来の年度別入園者数の推移です。

 それが下の二つのグラフです(データを基に筆者が作成)


 上がサルの数、下がヒトの数です。特に目を引くのが入園者数の推移。右肩下がりです。昭和40年代(1965~1974)には150万人を超えていた入園者ですが、昭和50(1975)年度に145万1773人と150万人を割り込み、昭和54(1979)年度には99万9683人と100万人を下回りました。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

4/12/2023

大分まち歩き⑤住居表示番外編⑤府内町

新町名誕生60年⑤府内の賑わい

 目立つ空き店舗の貼り紙

 

 大分市中心部で新たな住居表示が実施され、新たな町名として中央町、都町、府内町が生まれて60年になります。
 筆者が住む「志手」のことを調べているうちにそんなことを知りました。それがちょっとした発見に思えて、町名の由来などを調べる気になりました。
 そして書いたのが「新町名誕生60年」シリーズです。1回目で「中央町」を取り上げ、2~4回は都町をテーマにしました。今回は「府内町」です。

 
 府内町には「ふるさと大分の百貨店トキハ」の本店があります(上の写真の左側の建物)。大分銀行本店もあります。地元紙の大分合同新聞社本社もあります。大分県庁舎の別館もあります。大分の「都心」と言える地域なのですが、ぶらぶら歩いてちょっと意外な発見がありました。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

4/04/2023

桜ケ丘聖地の桜

 春爛漫 桜ケ丘聖地




 「大分地方気象台のさくら(そめいよしの)の満開を 本日4月3日に観測しました。平年(4月4日)より1日早く、昨年(4月1日)より2日遅い満開となりました」。気象台のウェブサイトをのぞいたら「桜満開宣言」が出ていました。

 上の写真は志手の桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)で4月2日に撮影したものです。桜ケ丘聖地も満開でした。桜の下には大きなブルーシートが敷かれ、花見の準備が行われていました。



 1945(昭和20)年の終戦後、墓地は旧陸軍から大蔵省(現財務省)、さらに大分県へと引き継がれました。県が墓地を譲り受けたのは1955(昭和30)年で、その頃多くの桜が植えられたようです。



 桜の木々も大きくなり、桜が満開の時は、ちょっと大げさな表現をすると、上の動画のように墓地全体を覆うような感じになっていました。それが今はというと、随分すっきりした印象になっています。

 桜ケ丘聖地に手が入り、桜の老木などを伐ってツツジの若木を植えたりと再整備が少しずつ進んでいます。



 そのきっかけとなったのが、1人のドイツ人の墓参だったのですが、そのことについては、このブログの「志手界隈案内③変わる桜ヶ丘聖地、そのきっかけは?」(2021年9月16日公開)で少し書いています。

4/03/2023

大分まち歩き④住居表示番外編④都町Ⅲ

新町名誕生60年④都町その3 

アイデア市長とジャングル公園

 

 泥沼にはまり込んだ感じです。都町だけで3回も書くことになろうとは思ってもいませんでした。ちょっと「志手」を離れて大分市中心部をぶらぶらしてこようと思ったのが運の尽きで、ブログのタイトル「大分『志手』散歩」から離れていくばかりです。

 「新町名誕生60年①」の最初に書きましたが、大分に長く住んでいる人にとっては常識に思えることも、新参者には知って驚きということが結構あるものです。

 大分市中心部の「中央町」「都町」「府内町」「荷揚町」の町名・住居表示が60年前から始まったことを知り、ちょっとした発見に思えました。

 では、その前の町名は?新町名の由来は?などと疑問が湧き、調べるうちに新たな発見がいくつかありました。
 
 その一つが大分市長だった上田保氏。高崎山のサルの餌付けをして人気観光地にしたといった程度の知識はありましたが、それだけにとどまらない活躍、功績があったことを改めて知りました。

 「公園市長」とも呼ばれた上田氏が戦災復興計画に基づいて造ったのが、都町の「ジャングル公園」や中央町の「若草公園」などです。今回はジャングル公園などの名前の由来について考えてみたいと思います(※上田氏は上の写真の左側。右は木下郁氏。上田氏については改めて書きたいと思っています)。

(興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議? 駄原総合運動公園の落羽松   「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。  翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑...