1/25/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア④昔ながらの狭い道



 ふるさとだよりで知る志手のトリビア④

農村の風情残す 昔ながらの道

  

 今回も前回に引き続き園田逸雄さんの
「セピア色の思い出」からの引用です。1998(平成10)年7月の「ふるさとだより第2号」(志手老人クラブ共和会発行)に掲載されています。
 テーマは「昭和10年頃の志手郷」。当時の地図が添えられています。それが下の写真です。


 この地図を現代の地図と比較して、一つ面白いことに気づきました(志手に昔から住んでいる人には当然の常識といえるものなのですが)
 

  町の骨格となる道路が基本的に変わっていないのです。
 昔の地図に今の風景を重ね合わせると、

 上の写真のような感じになります。クルマがすれ違えないような狭い道があちこちにあります。

 志手が昔のままの農村集落であれば、道路も変わらないのも分かります。しかし、志手は住宅街として変貌を遂げ、住民も増えました。一つの町として大きく成長したのに、道路という骨格は昔のままです。

 うまく表現できませんが、子どもの頃の細い骨格のままに大きくなった、そんなアンバランスな印象を受けます。

 志手地区のマチづくりの旗振り役みたいな人がいたら、また違った姿になっていたかもしれません。町が大きく変わる。そんな転機のようなものがこれまでにあったのではないかとも思います。

 志手の町内をクルマで動き回るのは神経を使いますが、個人的にはこの細く曲がりくねったような道が嫌いではありません。クルマがなかった昔にタイムスリップしたようなノスタルジックな気持ちにもなります。


 志手の昔ながらの道を紹介する短い動画を作ってみました。




 




 




 

1/13/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア③柞原八幡宮との縁

ふるさとだよりで知る志手のトリビア③


古老が語った 柞原八幡宮との縁 


 前回の「ふるさとだよりで知る志手のトリビア➁」の最後に、志手の地名の由来に関連して「片手の武士」説を紹介しました。

 このブログ「大分『志手』散歩」の3回目の「志手界隈案内➁天神社」と、5回目の「志手地名あれこれ①大昔、志手は海辺だった」でも、「志手」の語源について書いています。

 今回は「志手」の由来について書く4回目となります。

 それは園田逸雄さんが志手の古老から聞いたという「柞原八幡宮」と「志手」とのかかわりです。1998(平成10)年10月発行の「ふるさとだより第3号」にありました。



 ちなみに上の写真は私が2021(令和3)年10月に柞原八幡宮にお参りしたときに撮影したものです。

 

 さて、ふるさとだよりにある志手の由来は簡単なものです(左の資料)。園田逸雄さんは「ふるさとだより」の第1号から「セピア色の思い出」と題して、子どもの頃に見たり、聞いたり、体験したりしたことを連載しています。
 連載を始めた頃、逸雄さんは75歳ぐらいだったようです。
 連載3回目は「幼き日に聞いた古老の噺」です。
 志手の地名の由来について以下の話を聞いたそうです。

 「遠い昔のことぢゃ、この里は柞原さまの荘園ぢやったそうな、が、その日暮らしの貧しいこの里の人々、節季毎の上納の穀物に難渋して、話合いのうえ、労役による代納を申し出る。つまり『手』にての上納を『志』した。それからのこっちゃ志手の地名は」

 調べる手掛かりは「柞原八幡宮の荘園」です。

 柞原八幡宮に案内板があり、その歴史について書いてありました。案内板には、柞原八幡宮は天長4年(827)に延暦寺の僧金亀和尚が、宇佐八幡宮で千日間の修行を始め、同7年(830)に神告を得たことが契機となって八幡神が勧請されたことに起源すると伝えられている、と書かれていました。
 案内板にはさらに「その後、天皇の命で承和3年(836)に社殿が造営され、平安時代末期には豊後国一宮となりました」などとあります。

 古いお宮であることは分かります。しかし、それ以上の知識は私にはありません。「志手」の地名と関係があるなどとは思ってもみませんでした。
 園田逸雄さんが聞いた「古老の話」をきっかけとして柞原宮について少し勉強した方がいいのかもしれません。また一つ宿題が増えました。



1/03/2023

ふるさとだよりで知る志手のトリビア②志手と言えば園田さん そのルーツは?

 ふるさとだよりで知る志手のトリビア②

 志手の園田さん その祖先を辿れば


 
 志手と言えば園田さん。昔から志手に住んでいる人たちの苗字です。志手の老人会「志手老人クラブ共和会」が発行していた「ふるさとだより」は2人の園田さん(英雄氏、逸雄氏)が中心になって作っていました。ふるさとだよりには他にも多くの園田さんが登場します。

 そもそも志手の老人クラブを作ったのは園田さんたちです。平成14(2002)年12月発行のふるさとだより13号にクラブ発足時の記録がありました。


 志手の老人クラブは昭和39(1964)年10月にできました。上の資料はその当時の役員名簿と事業計画書です。役員を見ると、会長の園田茂平さん以下副会長、監事、会計、世話人の全部で13人の名前があります。13人のうち12人が園田姓で、それ以外は1人だけでした。

 (注)ちなみに茂平さんはミカン作りの名人だったとか

 老人クラブが発足した約60年前から志手は随分と変わりました。以前にもこのブログ「大分『志手』散歩」で書きましたが、志手集落の周辺にあった田んぼやミカン畑が開発され、次々にアパートやマンション、戸建て住宅が建てられ、新たに志手に移り住む人たちも増えていきました。

  園田さんはあまり目立たなくなりましたが、地域の行事(志手天神社の夏祭りなど)では今も中心的な存在です。

 園田さんだけの祭りというものもあります。それが1月にある「先祖祭り」。志手の園田の祖先を供養する儀式ということでしょうか。先祖墓(下の写真)の前で行われます。

 この祠の中に御霊璽(ごれいじ・仏教の位牌にあたるもの)がまつられ、「園田御祖藤原高守安鎮座」と書かれているそうです。
 園田さんのご先祖は、飛鳥時代の藤原鎌足に遡る藤原氏一族ということなのでしょうか。


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