6/09/2024

志手ぶらぶら路上観察記③天神社界隈

   桜ケ丘聖地 墓の隣りに高い壁 



 志手天神社の裏側で宅地造成が行われていることは、このブログ「大分『志手』散歩」の「志手ぶらぶら路上観察記➁志手天神社」(2023年10月14日公開)で一度紹介しました。



 去年の10月頃といえば造成が始まったばかりで、どんな風になるのやらと関心を持って見ていましたが、着工から8カ月ほど過ぎて、その形がだんだんと明らかになってきました。


 「志手ぶらぶら路上観察記➁志手天神社」でも紹介しましたが、志手天神社の裏側は、志手特産の「志手ポンカン」が植えられた畑でした。この畑だった場所の先に見える住宅地ももともと「ミカン畑」でした。

 志手はミカンの産地として名が知られていたのですが、大分市中心部に近いこともあり、「ミカン畑」は次第に「宅地」に姿を変えていきました。今もポツンポツンと残された畑地が少しずつ宅地に変わっています。

 ミカン作りの後継者がいないことも畑がなくなる一因です。


 ところで、桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の横に「壁」が造られ始めたのはいつだったか。気が付けば墓の横に大きな壁ができていました。
 
 冒頭の写真は5月26日に撮影しました。この日、志手の住民グループ「志豊会」による桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の草刈り作業が行われました。毎年この時期に実施されます。


 雑草が茂った墓地がきれいになるにつれて隣りにできた「壁」が際立ってきたようにも感じられました。

 以前にもこのブログで書きましたが、桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)とその周辺はここ数年で大きく変わりました。

 たまに定点観測のようにして写真を撮っていると、その変容がよく分かります。

 ただ、それにしてもな、と思うことがあります。人口が減る中で新築住宅が増えてもどうなのかなと素朴な疑問が湧いてきます。大分県内では一極集中を続けてきた大分市にも陰りが見えます。

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6/01/2024

毘沙門堂今昔 「室町」に始まる浄土真宗との縁その2

 毘沙門堂で教え説く2人の僧侶

「天然浄祐」と「円信」その2


 文明年間(1469~1487年)に毘沙門堂で説法をしたと伝えられる2人の僧侶「天然浄祐」「円信」をテーマにしたブログの2回目です。

 前回の「毘沙門堂今昔その3 『室町』に始まる浄土真宗との縁」(5月27日公開)は「天然浄祐」に焦点を当てました。天然浄祐について書いていくと話が長くなってしまったので、円信については別に書くことにしました。それが、この「『天然浄祐』と『円信』その2」です。


 上の2枚の写真はJR大分駅近くで建設中の高層マンションと光西寺を写したものです。大分駅周辺では区画整理や再開発が進み、街並みが随分と変わってきています。

 建設中の19階建てのマンションのところには大型家具店があったのではないかと記憶しています。

 「真宗大谷派 四極山光西寺」。円信が開いた寺と言われています。「雉城雑誌」によると、円信は光西寺ができる前は毘沙門堂に住んで、浄土真宗の教えを説き、「毘沙門堂円信」と称したそうです。

 ※雉城雑誌は、江戸末の天保年間に「豊府聞書」「豊府雑誌」「豊後国志」などの資料を引用する形で作られた「郷土誌」。「府内(大分)ガイドブック」のようなものです。

 雉城雑誌では、円信と光西寺、毘沙門堂について主に「豊府雑誌」を引用して「豊府聞書」「豊後国志」で補うような形で書いています。

円信は3人いる? 誰が本物⁉

 
 さて、話が少し複雑になってくるのはこれからです。円信についての資料は光西寺にもあります。光西寺に伝わる円信の出生と豊府雑誌、豊府聞書が伝える円信は微妙に違っています。

 「円信」と名乗る僧が複数いたのでしょうか。まずは、それぞれの資料が伝える円信の出生について見ていきたいと思います。

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メタセコイアとラクウショウ③天神島児童公園

 カギは全国公園緑地会議? 駄原総合運動公園の落羽松   「駄原総合運動公園以外にもラクウショウ(落羽松)が植えられている公園がありますか?」。思いついて大分市役所の公園緑地課に電話したのは9月24日午後5時過ぎでした。  翌日の午前中に公園緑地課から電話をもらいました。「松原緑...